2017年12月19日火曜日

岡崎彬(NPO法人日中新世紀協会 前会長) ・親子二代の日中友好

岡崎彬(NPO法人日中新世紀協会 前会長) ・親子二代の日中友好
1929年昭和4年生まれ88歳、父親の嘉平太さんの仕事の関係で、小学校を中国の上海で卒業しています。
務めた日本航空では航空貨物の仕事に長く携わり、日中友好のパンダの初来日にも深くかかわった経験をお持ちです。

呼吸器の病気で一日寝たきりですが、顔色はいいです。
日中国交回復45年の節目の年、親子2代の日中交流。
父親の嘉平太が中国で銀行の理事、参事官をした関係で、子供の時に上海の小学校を卒業。
日本の小学校に行っていたら絶対にできない経験をしました。
遠くに点々と家があり、ウサギ、雉、ふくろう、野ネズミなどが居て毎日追っかけて成長しました。
色んな会社の社宅が出来ていて、日本町が出来ていました。
イギリス人はアヘン戦争の賠償として上海香港をもらったわけで、上海をそだてていって今の上海になっているわけです。
日本は満州で、イギリスと比べたらどうってことないと思って、あとになって満州に行ってみると凄いことをやっている。
日本人の考えるようなことではないことを日本人はやっている。
車が回るロータリー(直径が1kmある)を作ってみたり、下水(当時日本にはない)もちゃんと作っている。
マンホールをちゃんと残してあるが、中国が残している。(いいものはちゃんと残している)

生まれて3カ月後に父親が転勤でドイツに行ってしまって、4歳になるまで父親なしで過ごしたが、父親が欲しくてしょうがなくて、帰って来た時には親爺のズボンに絡みついて、香水ではないがちょっといいにおいだった。
父は岡山で生まれて岡山一中に入って、上位5位に入ると第三高等学校に無試験で入れたがその権利を捨てて、一高を受けて入ってしまいました。
日銀に入って何年後かにドイツに送られ、帰って来た時にはえらいオシャレでした。
私は東京中央中学校にいましたが、戦争中の勤労動員で動員先が陸軍航空本部でトラック乗りをやっていて、立川に行って貨物を飛行機に積むことをやっていて、日本航空に入って最初の1年半は千歳に行って、貨物に行きたいと言って本気かと言われましたが転勤になり、貨物部門にいきました。
貨物部門は人気の無いところでしたが、結構楽しんでいました。

パンダを運ぶことは簡単だと思ったが、会社中が大変でした。
ルーブル博物館にあるダビンチの絵を運ぶことがあったが、飛行機が事故を起こして海に沈んでしまったと云う想定で、海に沈んでも絶対大丈夫だと言う金庫みたいなものを作れと言われて、調べて作ったらそれだけで80万円ぐらいかかるわけです。
日本航空ではお手上げになり断わりました。
その後運ぶことになったが行きはエールフランスが運び、帰りに日本航空が運びました。
パンダの時はロンドンとモスクワの動物園に行って、運び方を調べに行ったが、ロシアはあまり協力的ではなかったが、ロンドンでは夜に運ぶと言ったらそれは大変だと、記者がたくさん来てフラッシュをたくのでパンダはそういうものにたいして凄い神経質なので、必ず蓋をするようにしてパンダに光が入らない様なものを作った方がいいと言われて作って、それが良かったです。
報道陣が何百人か来ると思っていたら2000人が来ました。
直ぐ蓋をしたら開けろと大声で言われたりしました。

カナダからマグロを移送などしたり、中国人の留学生の奨学基金の設立、岡山の地元の中学生と周恩来首相の地元の中学生の交換訪問などをやってきた。
中国では外国人をホームステーをすることは法律で禁止されていた。
中国の要人の一人が父の墓参りに来た時に、交換留学をやりたいと言ったら出来ると言ってきて(法律の問題もあり本当に出来るのかなとは思ったが)、こっちもやるようにしただけです。(25年たちますが今も続いています。)
周恩来首相に父親が初めてあった翌年昭和38年香港支店に勤務していて、突如父から声がかかって初めて周恩来首相に初めて会いました。
父親は公私をはっきりする人で、電話が有ったことには吃驚した。
支店長に話をしたら行って来てくれと言われて、行きました。
休暇で来たと言ったら、父からよしよしと言われました。
パーティーがあり、周恩来さんと握手をしましたが、ジーンときました。
柔らかい、暖かくて力強い、周恩来と握手したのはもう100人居ないと思います。
あの時手を洗いませんでした。

キッシンジャー回顧録、「公人としての生活の中で周恩来よりも人の心をつかんで離さない人物に会ったことはない」と言っている。
人間が大きい、度量の広さは色々話して判るが、人間の広さは何にもしなくても判る、迫って来る。
父は実業人として企業再建、池貝鉄工、丸善石油、全日空などを立て直す尽力をして、貿易を糸口に日本と中国の国交回復したいとしました。
最初は倉敷レーヨン、プラント輸出は通産省が反対するものと中国は思っていた。
周総理も吃驚したと言っていました。

中国で私が子供の頃相手に怪我をさせてしまい、夜10時ごろに父親と一緒に怪我をさせた子供の家を色々探し回って、一緒に土下座して父から頭をゴーンとやられまして、中国人をいじめてはいけないと身にしみました。
その子に奨学金を出していたし、日本人が真夜中に来ることにはその家では物凄く怯えていました。
父親も鉄壁でしたが、母親も凄かった、父親が中国で成功したのは母親のお陰です。
中国の国慶節で旗を揚げるが、日本も敬意を表して日の丸の旗を揚げるが、家では中国の旗もあげます。
中国人の運転手が中国の旗の上に日本の旗をあげたら、君の所の旗が上だと言った。
憲兵がそれを見つけてどなりこんできたが父親はいなくて母親がこれは中国のお祭りなんだから中国の旗を上にあげることは当たり前だと言ったら、憲兵は帰ってしまった。
母親にくっついて部隊長に会って、こういうことは良くないと言って、そして縄でつながれた捕虜がいましたが、それを見たらどう思うと言って、判りましたと言っていました。
母親の方が強かったかもしれない。

「信は縦糸、愛は横糸織りなせ人の世を美しく」 嘉平太氏の言葉。
10年前のNHKスペシャル 「国交回復35年 ラストメッセージ 命をかけた日中友好」
岡崎構想を基にした貿易交渉は1962年北京で始まる。
自民党の高碕達之助が団長、民間人岡崎は副団長として参加。
迎えたのは周恩来、「日清戦争以来日本は我が国を侵略し人民を傷てけ苦しめて来ました。
我々は深い恨みがあります。
しかし中国と日本の間には2000年に渡る友好の歴史があります。
戦争に依る不幸な歴史は僅か数十年に過ぎません。
我々は日本に恨みを持っていますが、それを忘れようと努力しています。
これからは 日中が力を合わせてアジアをよくしていこうではありませんか。」
(劉 徳有(りゅうとくゆう)さんが通訳)
岡崎に突然周恩来が顔を向け、ところで岡崎さんはどう思いますかと尋ねる。
刎頸の交わりの古事を持ち出す、対立していた二人が和解し友のためなら死をいとわぬ仲になったという物語にたとえて、日中が手を携えて行くことの大切さを語った。
周総理は大きくうなずく。
外交儀礼を越えた響き合うものを感じていた。(劉 徳有)

中国人の若い者にたいして何をやったか、全日空の中に岡崎嘉平太財団が別にあり留学生をとっている。
他にも沢山あると思いますが、お互いにはあまり関係ない。
仲間を選んで大ぺージェントをやってみて中国大使、文化省などを呼んで、見てもらって、そうしたら今度日本を呼んでもらうとか、若者から作っていかないといけないと思う。
役人がもうすこし見方を変えるようにすることだと思います。
大ぺージェントを介して親中思想と云うのが出てくると思う、日中関係に熱心な人を作っていかなければ駄目ですね。