三木卓(詩人、作家) 我が人生の出合いと別れ
新聞記者だった父に連れられて一家で大連に移住
敗戦で引き揚げを余儀なくされ、帰国途中で父、祖母らを亡くす
帰国後は静岡県に育ち、母子家庭の貧困と左足の障害に苦しみながら、静岡県立静岡高等学校を経て、早稲田大学文学部露文科卒業
出版社に勤務しながら詩を書き始める 詩集『東京午前三時』でH氏賞
詩集『わがキディ・ランド』で高見順賞 「鶸」で芥川賞
平成17年妻で 詩人の福井桂子さんを亡くしました 「K」を発表 出合いから別れまで
価値観の違いの男女が家庭を作る難しさや 年を取って伴侶の病気や死とどう向き合ううか
という内容について伺う
亡くなって、最初の1,2年は帰ってくるんじゃないかと思っていた
原稿のかきかけのものをどうしたらいいか判らなかった
「K」と言う小説を書く ある程度書けるようになって来るまでに2年半掛かった
夫と妻の関係であり 詩人であるので そうするとこの小説の一番近くに居た人間の
証明にもなるので 後で福井桂子の詩を読む人は必ずこの小説を読むに違いない
そう思うと 少しかっこ悪いことでも特徴的なことを書いておかなければならないと思った
福井桂子の評伝にもなっていなければならないし、夫のボヤキにもなっていなければならない
題名が「K」余りない題名 自分の奥さんと言うだけでなく 詩人であるので 自分と切り離して客観的なものとしてみなければいけない
彼女がKと名乗っていたので24歳の時に 1959年に出合った
私は引揚者の母子家庭であった 相手は幸せな家庭生活を営んでいた様に見えた
2度目に会う時に中野のプラットホームで待ち合わせたが、かなり遅れてきた
国立に私はあばら家に一人でに住んでいた(押し入れにタケノコが生えて来た)
そこに今夜泊めてくれと言われた 驚いた おたおたした 其の晩に来てくれた
(持ってきた風呂敷堤には洗面器と歯ブラシが入っていた) 覚悟があった様だ
掃き溜めに鶴と言った感じだった 一生恩に着るという借りが出来たようなもの
それまでは女性には常に振られていた
最初に月給を貰って渡した
月末になってこずかいが無くなったので欲しいと言ったら「ないよ」と言われてしまった
あれ くれたんでしょう 私 洋服買っちゃったわと言われる 愕然とする
彼女も出版社に勤めていたので給料を知っているはずなのに やりくりするという
気持ちは無かったようだ
彼女の故郷の家は立派な商家なんです いつも金庫から必要なお金は自由に使える環境だった
夫婦は全然違う育ち方をしているから、たいていは思い描いた夢は現実ではなくてお互いにどう歩み寄るかと言う話になりますよね 普通はなるんです
どうもなかなかそうは成っていない 会社を辞めたくて、辞めたくてしょうがなかったようだ 自分を全体的に支えてくれる
物心両面含めて そういう存在に見えたのではないかと思うが 物の方は貧弱だった
お金に関しては彼女は非常に楽観的に思っていた (いつも何とかなるんじゃないかと)
二人ともに詩人 詩を書くというのは非現実的な人間がやることなので其れが二人いるという事は二人とも非現実的な人間がいるという事になる
最初の頃は彼女は詩を書かなかったが段々と書くようになった
私も小説を書くようになったが、当時は4畳と6畳の団地なんです
音は抜けるし その中で書くのは相当なプレッシャーがかかる
サラリーマンから文筆活動一辺倒になる 彼女も詩を書くようになった
詩について批評をしたら激怒する 私は散文的な詩 彼女は内容が飛躍する詩
軽い気持ちで指摘したつもりであったが 以後 指摘しなくなった
小説を書くように部屋を用意してくれた
そばに居られたら厳しいとの思い(小説を書いている人間は加害者)
それぞれの暮らしをする様になる
妻は自分の考えを変えるような人ではなかった(或る意味純粋 一面我を張る)
生れた子と一緒に生活するようになる 病気をしたのを知る(娘から電話が掛って来た)
夫婦をやっていけるか疑問を持っていた頃のこと発見が遅くて手術しても再発する状況だった 私自身が先に行くものと思っていた(女性は長生きするし 彼女の母親も長生きだし
私は病弱であったし、心筋梗塞 を58歳でやっていたし) 逆に成ってしまった
妻は癌だった 先生がそれとなく言ってるが絶対に受け止めなかった 黙っていた
大事なことは人には言わない人だった
彼女の兄が亡くなった時も全然おろおろしなかった
3年ぐらいしてから 兄を思い出して寂しかったと言った
いうという事は或る程度解放された事 或る意味水臭い人ではあった
私癌なの? と言ったのは再発した時だった(2年数カ月たった後)
判っていたはずなのに云わなかった 声の掛けようがなかった 困った
そういう気持ちの有り方が彼女の詩を書く時の詩に向かっては表現出来た気持ち
というものはあったと思いますね
立ち向かう姿勢は詩を書く時もそうだし、日々の暮らしの中でもそういう信念を貫いた
145cmと身体は小さい
2度目に手術をした時には25kgぐらいしかない 如何に身長が小さいとはいえもう限界ですよ 恐ろしい 頭の判断力も限界に来ていたものと思われる
脳へ転移して お腹 脳 と手術をする (2週間で) 治療とは難しいと思った
抗がん剤も厳しい 流石に其の時は参った
手術を終わって何とか大丈夫だと9時ごろ判って 子供と二人で街に出て夕食を食べたが
ビール飲んでて凄い感じに成ってきてワーワー泣いてしまった
一種の錯乱状態 です 自分でも不思議だった (こんなに成っちゃっている俺)
20年一緒に生きているそんな女性は他にいない 結局この人と一番深い関係を結んでこの世を生きてるんだなあと いいも悪いも無い この人しかないんだなと
元々は他人ではあるが だけどどっかで分かりあえている部分 とか互いに影響される部分があって そういう関係は一人としか結べない 良くも悪くも
思いやりがある人間とは思っていないが この人はここでどうしてこう存立しているのだろうか
という事は知りたいと思った
どうしてこの人はこういう形であってこれがこの人にとって掛け替えの無い存在の形であるという ことを知りたいと思ったんですね
其れがこの小説の基本的なドライブしてゆく力になったんだと思います
妻の詩集を纏めた これは義務だなと思った
この小説を彼女が読んだら 怒るだろうと思う
身体が悪くなってお互いどういう風に夫婦はいたわって助け合って暮らしてゆくのだろうかと難しいですね
やっぱり病気とかシリアスな問題と言うのは 離れるようにはしない
其れがむしろ一つの縁と言うものを強めると言うのか、そっちの方に必ず働くと思います
人生のシナリオを考えてみた時に こうなってゆくのは自然の終わり方だったのかなあと
夫婦生活としてね 自然の終わり方だったのかなあとこの頃思います