(1944年7月15日 - )は、日本の評論家。大佛次郎賞、読売文学賞、サントリー学芸賞(社会・風俗部門)選考委員
新聞社の雑誌記者を経て評論家に従事して映画や文学の評論を執筆して来ました
今年2月に発表した北原白秋を描いた「白秋望景」は永井荷風を描いた「荷風と東京」
林芙美子を取り上げた「林芙美子の昭和」に続く文学者の評伝です
第23回伊藤整文学賞に選ばれるなど高く評価されています
北原白秋や「白秋望景」執筆中に亡くなった妻の河本恵子さんへの想いなどを伺います
評論に与えられる賞は限られている 伊藤整は文学者であり評論家でもあった
彼は小樽の出身で地元の人が立ち上げた賞です
なるべく誰でも知っている言葉で誰も知らなかったことを書く事を目指している
私と言う言葉を出来るだけ使わないようにしている
なになに的という言葉は避ける ・・・である は避ける こだわり
引用は心掛けている 先人が的確に言っていることはなるべく引用するようにしている
「白秋望景」 北原白秋は昭和17年に阿佐ヶ谷で亡くなる
阿佐ヶ谷は私が少年時代を過ごした土地なんです
地元意識がある為に北原白秋に親近感があった
荷風、林芙美子は詩も書いているが散文の作家 詩は敷居が高かったが、北原白秋は余り評伝があまり書かれていなかったので白秋を書く事にした
「海ゆかば」 本格的な演奏会があり聴きに行って感動した
こんな綺麗な曲が有ったとはと思った
白秋の様々な角度から見ている 連載の時の構想とはだいぶ違ったものになった
白秋の新しい発見がいろいろあった
国木田独歩 雑木林の美しさを発見した 永井荷風 荒川放水路に美しさを感じた
風景の発見が行われている 言葉の発見が近いもの
言葉と風景が交錯してそこから詩や小説が生れてくるものですね
文芸評論の場合は 人間はどう生きるかと言うような人生論も大事だが風景 どういうものを人間が見て美しいと感じてどういう言葉でそれを表現してゆくのか
人と人の関係もさることながら人と風景 人と街 の関係が好きなんですね
あまりにも今までの文芸評論は人生論にこだわり過ぎたのではないかと思う
反発して半人生論で摘出批評で表面に書かれたことだけを論じて行くという両極端になってしまっていて中間は無いのかと 探ってこういう評論集ができ上がったわけです
自分自身挫折してきたので 順調に言った人には興味が無いんです
永井荷風は大逆事件を通して天下国家に係わることをしては大変だと拘わらない生き方をしてきました
林芙美子は昭和の戦争が始まった時点では軍部に加担するような言動をしていたが途中で軍部がやっていることはおかしいと、はたと気がついて昭和18年くらいから沈黙してくる
戦争末期は文章を書けなくなる
北原白秋は人妻との恋愛事件があって 姦通罪で罪に問われて刑務所に入れられる
そういう挫折から彼の文芸作品は生まれたのではないか
近代日本史に興味を持っていまして 何故日本は勝てもしない戦争に突入して 負けてこういう風になったのかと物凄く興味があって ずっと考え続けているのですが,いまだに答えが出ていないのですが 荷風、白秋、林 この3人に共通することは太平洋戦争を知っているという事
戦争に対する見方、考え方、距離の置き方が皆違う
荷風は徹底して無視(一種の国内亡命者になる 世捨て人) 林は途中から沈黙
白秋は熱狂に捉われてゆく国民に一番近いところに居た人
あの戦争は国難だったと捉えて国民とともにいって仕舞った
今の価値観で見るのは簡単だが 白秋は単純に軍国主義と決めてしまうのもどうかとは思う
妻が癌だと判ったのが 2006年10月だった 連載中だった
食道がんで転移している悪い状態だった
医者からもう1年は持たないと宣告された
資料を沢山使ってやる仕事は病院で出来る様な仕事ではなかったので休載してほしいと編集長に了解を求めた
一回中断すると大変なことで何とか出版できるようになれた
子供がいないのでずっと35年二人で過ごしてきたのでこたえました。 在宅介護もした
亡くなる2か月前家に帰りたいと言ってきた
一人で素人が介護をするのは不可能だからやめなさいと止められたが、妻の希望であったので 家に連れて帰る 1か月ちょっと へとへとに成ってしまう
妻が今度はそれを見たのか 病院に戻りたいと言ってきた
共倒れになるのではないかと思った それを知って妻が言ったのではないかと思う
病院に戻って直ぐに亡くなって仕舞った
自分の頭がしっかりしているうちに 妻の事を書きとめておきたかったと思った
直ぐに書き始めた 100日目=泣き納め
短歌を初めて作った 白秋の影響が有った 葬式をしようと思った
形式が重要かと短歌から感じた
葬式は悲しみを封じ込めるものがあると思った
葬式だけにする お酒は出さなかった (客が酒を飲んで談笑するのが嫌だった)