2012年6月9日土曜日

カール・ベッカー(京都大学教授61歳)  ・理想の終焉を見つめて

カール・ベッカー(京都大学教授61歳)  理想の終焉を見つめて
(BECKER, Carl B 1951年 - )は米国の宗教学者。専攻はターミナルケア、医療倫理、死生学、
宗教倫理    『死の体験―臨死現象の研究』
宗教学 倫理学 が専攻   1974年に来日 40年近くに渡って日本人の死とのかかわりを
見つめてきました
日本はどこの国よりも人口密度が高く 資源の無い島国ですから 中国の倍ぐらい本来なら
日本人は努力しないとこの国の生活を支える事が出来ない
本来なら日本人が限界を痛感して頑張ってこれだけの文化を作ってきたのに 最近の日本人が
労働したいとか頑張りたいという人が少なくなりました

つい数十年前までは在宅で畳の上で看取った慣習がありました
処がバブルで裕福になった時点でどんどん皆が病院に送られて看取りすらしなくなって
 死は何であるか判らなくなります
そうすることで死を一番恐れ無い国から一番死を恐れる国に転じている  
死についても目の前の死は悲しいとか 大往生とかの感情はあっても怖いとは思わない
日本人は今死を恐れてたり怖がったりするのは死を看取れ無くなったからだと思います
以前は大家族で暮らしており 其の大家族が看護をして看取りをしていた 
子育てをするのは親じゃないんです 20~30台の世代は田んぼで労働したり
漁業で労働したり労働力となる 
 
誰が赤ちゃんの世話をするかと言うとご年配の祖父母なんです 世間社会のルール言葉の
使い方から伝説や文化まで身につけている
おまけにご年配の時間観 が若い子の時間観に妙に合っている 
処が10年もたたないうちに50~60代 その自分のおかゆを食べさせてくれた
おしめを取ってくれた方が逆に 死に向かうわけです  
其の時の伝統的な社会で介護するのは親ではない訳です 親は30代で元気に働らかなければ
いけないから 働いている親は介護をする時間が無い訳です  
10代の若い人達が今度お爺さんのおかゆを食べさせておむつを替えて 若い人達が
お爺さんを看取るわけです  目の前にさっきまでありがとうと言ったお爺さんがもう二度と
しゃべらなくなるとその死の深さを一生忘れないと思うんです
いなくなる深さを感じてしまうと嫌な相手でも死ねとはくちでは出せませんし  
処が今若い子たちが中学校 高校に行くころは何万回の鍵かっこの死を
漫画、ビデオ、ゲームを見ているにも拘らず それは嘘の死なんです 

痛くもかゆくもなく 悲しくも無い リセットボタンを押せば又生まれ変わるような嘘の死なんです 
本当の死はもっと深くて考えさせてくれるようなものなんです
日本には素晴らしい死の作法や伝統があったのに、ついバブル以降それを見失って
いるんじゃないかと思います
死は限界を感じることと同時に未来を考える事です 老病死を経験することが絶対に大事 
核家族、片親の家族では時間が無い為に其れを教えられない
其れを学校で教える時代になったのではないかと思う  どのように亡くなりたいかを考える 
自分で老病死を考えなくてはいけない時代になっているのにもかかわらず 何をどう決めていいか
判らない そうすると死は長引くなるだけでなく 国の大変な資源
財源などを食ってしまうわけですから場合によっては本人が欲しくはない形にもなりかねません
事前に其れについて考えて 其の心の準備、手続きの準備をしておけば絶対科学や英語を勉強
するよりも役に立つと思います

いずれは老病死は来るのでそれを意識することによって自分の生き方 限界に向かって如何に
生きてゆくか 懸命に生きなければならないという事に繋がって来ると思います
大きい力の強い恐竜が全滅してしまった  いつ人間も全滅してしまうか判らないと思うようになって
  一体どうやって生き残れるのか 別の次元で考えるようになった 
宗教や哲学は日本ではなになに宗なになに派と考えがちなんですが、私はむしろその根源にある
価値観 心のよりどころ 何を深い意味で信じるべきかどうか
という事に関心を持ち 広い意味で宗教に関心を持ち 哲学を勉強し出したのです
日本の仏教や生き方について判る様になりました(ハワイにて日系人と接して)
末期を看取った場面に接した(日系人の)  どうしてやるべきことを済まして他界出来るのかと
吃驚した  感銘を受けた 文化的側面等日本に興味を持った
理想的な伝統の死  潔く納得出来る様な人生を全うする様な 死に方だと思います  
やるべきことを残さず名残を惜しまず 廻りに迷惑を掛けない死に方でも有るわけです

一遍上人が亡くなる時にいろいろな書物や弟子たちの集めてる本を燃やさせる  
自分のものに束縛されたくない 人にそれ以上自分の名残を惜しんでほしくない
という思いもあったと思う  穏やかに亡くなる時に亡くなった   
心の中で準備ができているかどうかだと思う 
死が決してすべての終わりではないことが判っていたのではないかと思う  
物質だけを見ていると死がすべての終わりのように見えるかもしれないけれども
生きていることは精神 心 魂を中心にするものであると判っていれば 身体が亡くなったと
言っても精神 心 魂が亡くなるわけではない事を昔の人は知ってたんです
日本の死についての生活習慣は70年~80年代 死の観察をしている時に 一時馬鹿にしていたと
きがあった なんで食べ物までお墓に供えるのか
なんで儀式、法事などをなんども行うのかと 最近見直され始めた 
変化が生じたのは日本のお陰なんです

20年前にデニス・クラスというシカゴ大学出身の宗教心理学者が来られて 日本の家庭を廻って
 お仏壇とか祭壇とか先祖の写真等を見る
何に使うのかを聞くと 朝に行ってきますと言って 夜にただいまと言って 水やらご飯やらお酒を
捧げて 大事な事の時には仏壇に向かって相談する
静かに心の中でお父さんやお婆さんの態度や声が見えてくる  
仏壇 祭壇に向かって旨く行ったらありがとうと言う  これを見たクラス先生は眼から鱗だと言うんです
アメリカ人はまるで前の世代が無かったかのような振りをさせられて独自で 自分で
考えなければいけないと言われるんですが、折角 父母 祖父母の生きざま
知識 声なども知っているのだから 其れを心で聞いて其れに基づいて生きるのが文明ではないか 
(続く絆) 

心の中で祖父母 両親の生き方 アドバイス が聞けるということは 人類にとって貴重な資源で
あり知恵であってこれはむしろ我々が変えないと損だと
アメリカ人もヨーロッパ人も思っていたけれど口に出せなかった  日本人は羨ましい 
なぜなら 日本人はすでに其の慣習があって その場(仏壇等)
其の心の定め方を判っているから もっとわれわれは真似しなきゃ 
西洋 東洋を問わず大事な人に死なれてしまうと色んな不幸が襲ってきます
例えば事故、病気、精神異常(自殺等を含め)起こりやすいんです  
免疫力の低下だとか 精神統一不足で交通事故を起こしたりする
日本人はそれをたたりだと言っていた  たたりなどを信じてなくても 欧米では日本人の慣習を
マネしています

或る病院で患者自身が長くないと判った時点で毎月のようにパーティーを行います  
飲んだり食べたりして泣いたり笑ったり黙ったり握手したりして
そして本人がいなくなった後からも同じなかま家族を呼び寄せて 月数回ほどその儀式を続けます 
其れはどこからきているかと言うと日本の宗派でいろいろ違いますが
例えば初七日  49日 初盆  定期的に親戚 友人等を集めて一緒に笑ったり話あったり 
泣いたり 亡き故人を思いだすことによって
心の整理 精神統一が出来て其れによって 昔でいう たたり 今でいう免疫力低下 或は
鬱等を避けられて 旨く出来ていた
儀式は単なる儀式ではなくて 本当に機能的な意味があったわけでして お墓やお仏壇を通じて 
先祖様の知恵を借りることが日本人の知恵の一つであって
繰り返し集まって亡くなった人を納得するまで冥福を祈る事も日本の知恵だったと思います
日本への興味は→精密で正確で 一つの事を完成させるのにこだわりを持って誇りを持った
職人芸がいたるところで感じました

どれだけお金になるかを考える前に どれだけ綺麗な画像を作れるか どれだけ綺麗な音を
出せるか どれだけ完璧なものを作れるか という其の態度が
日本人が素晴らしいと思う一つは その金持ちになったからではなくて 根性 綺麗なもの 
素晴らしいもの 其の完成まで運びたいという其の精神が素晴らしい
自己宣伝をしないと誰も見向きをしないアメリカと(お茶が欲しいと表現しないとお茶は来ない)
お互いに気配りをする日本社会(急須を見ているとお茶を入れてくれる) 
を比べてみると日本の方がはるかに大人の社会です   
大学だけが理想であるアメリカでは中年から晩年までは自分が負け組になってしまう  
日本では体力ではなくて 芸 美 人格 精神力にウエイトを置いていた
芸 美 人格 精神力に価値を置いている限り いくら年をとっても自分を磨く可能性が残っている
例え体が丈夫でなくても人にどういう言葉で訴えたらいいのか、心で考えて次に会う時に
伝えればそれも一つの美的瞬間として相手の心に残ります

そこに日本の素晴らしい文化が表れているのではないでしょうか
今の日本人の死に方の理想は→現在日本人は畳での生活をしている人が少ないのにも拘わらず
 畳の上で或はベッドの上で死にたいというのが圧倒的に多い
多くの人が鳴き声を聞きたいという 虫の鳴き声 鳥の鳴き声などでありまして 見たいものと言うと
 青空 緑 或は川 山の自然光景がみたい
ではそういう最後をどこで過ごせるかと言うと病室ではありませんよね  
末期を在宅で過ごそうではないか  家族は我々がお世話できないという
実は全世界が日本の高齢化対策を注目しています  
日本がどこよりも早く超高齢化社会になってゆく
日本が旨くマネージメントし 運営できるようであればよし 日本型で行こうと思っている 
逆にお金をつぎ込んでも問題だらけであってしまえば
日本の失敗例をまねせずに独自で考えようという事になります

旨く行くために病院を増やすという選択肢はありません  財源的にも人材的にも資源がありません  
お互いが理解しあえる 助け合える 絆を今元気なうちから
作って行って、頼れる様な共同体、コミュニティーを考えて行かないと間に合わないと思います
日本人が持っている繋がりや絆やいたわりを意図的に繋げることによって超高齢化社会を
運営できるのではないかと思います
私の理想的な死は→周囲を視野に入れた死です  周囲に迷惑を掛けない死です  
物質的な準備と精神的な準備が必要に成ってきます
物質的な準備には事前要望書や 尊厳死宣言が必要です 
 一度でいいから其れを決めておきたい  自分の代理人決定をしておく
自分の財産についても ものについても 墓についても準備しておきたい
  
其れを済ましたひとでも生きているので毎日生きてゆく為に 潔く死ぬために 
可能な限り お世話になる人にお礼を言って 言えない時にはせめて心の中で其れを念じて 
許される限りお詫びを伝えて 望みを出来なかった場合は心のなかで
ごめんなさいと言う気持ちを思い出したい   あるがままを受け入れることが大事に成ってくる 
精神面になると如何に素直に与えられたものを受け入れるかという
側面になってくるかと思います   日本人は良く私に対してどの季節が一番好きかと聞いてくる
んですが 今日が一番好きと答えれば私が一番幸せなのです
暑い日でも学ぶことがある 寒い日を耐えても受け入れることがある  
有るがまま受け入れる心も日本人の宝の一つ 
突然亡くなる人  事故 病気 津浪 地震等で亡くなる人もいる  
 
一見 死や行方不明に見える出来事が 永遠の別れではなく あくまでもこの次元の
別れであって 別の次元で精神同士が再開できるという希望も日本人にはあったはずです  
其れを失っては震災や突然死は凄過ぎてむご過ぎて受け入れる余地が無い
何で10歳20歳で亡くならなければいけないのか 深い悩みが残ります 
人間だけでは説明がつきません
何日生きたかよりは其の生きた人生の中で何を分かち合えたのかと言う事と 
これが最後ではないんだ まだまだ別の次元にあるんだという其の知恵が
日本人を支えてくれたのではないか  
これからの生きかたをどうするかと考えると其の亡くなった方を忘れないことに学びとれる余地を
残せる訳です
日本に教わった知恵だと思います  

理想的な死を見つめながらどう生きて行ったらいいのか→結論的には物より精神 量より質 
物体より心の方が大事だと宗教はそれぞれの言葉でしゃべっていると思う
そのためにはどのようなことを心がけていったらいいのか→我々がブータンを見ると一見物質的に
乏しい 貧しいかの様に見えるかもしれないが 輝いて見える
其の輝きは年配の日本人には懐かしいと言われます  子供の頃有った記憶です  
其の輝きはものに偏らない幸福の有り方だと思います
実は其の幸せ感が日本の末期患者が教えてくれるのと同じです 
長いこと寝たきりになって動けないことになると 自分の人生を振り返ってみて
なにが良かったのか悪かったのか どこに価値があったのかと 或る意味で哲学者になってくるんです  
末期患者が語るには肩書 名声 偉く認められたときが
一番人生で良かったという人が以外と少ないんです
  
むしろ一緒に何かの催し物に汗を流した仲間と一緒だったときとか 好きな人と一緒に夕焼けや
音楽を聞いたときとか 山登りをして山と空気と一体感を感じた時 
そういう聖なる特別な瞬間を最後まで評価されます
この一瞬を大事にする知恵を日本にはあるんです 
我々の幸福が右肩上がりがあるなんてありえない  資源の限界 財務の限界 人生の限界
様々な限界がある  
右肩上がりはあり得ず むしろ聖なる瞬間を如何に魂に刻めるかが課題だと思うんです
今日一日の内に 一つ二つ 願わくば三つぐらいの輝く瞬間を心に刻めたら本当に良かった日だと
思います

逆にしまったと思ったことがあれば、其れを布団に入った時に反省して 死まで待たずに今のうちに
直したいところでもあるんです
死を視野に入れて初めて今日一日大事に生きようではないかという気持ちと同時に最後までの
生き方を考えさせられて むしろ前向きに積極的に 一瞬たりとも
大事にして生きていたくなるのではないでしょうか  
死を考えることによって生きかたを考えさせられますし 死が全ての終わりではないにせよ  
この身体では2度とやれない今日一日ですから 其れを大切にするために限界を考えることが、
きっかけになるのではないのでしょうか