宮城能鳳(組踊人間国宝74歳) 沖縄の伝統芸能組踊を支えて40年
組踊は歌舞伎と同じような形式を持ち音楽、舞踊、台詞からなる舞踊劇 音楽劇です
沖縄が本土に復帰した昭和47年には国の無形重要文化財に指定されました
2010年にはユネスコの無形文化遺産にも指定されました
子供の頃から沖縄の伝統芸能に親しみ23歳のときに本格的に師匠について勉強して平成18年人間国宝に指定されました
沖縄復帰40周年記念でいろいろ行事があり、呼ばれて忙しい
山本東次郎先生とご一緒に能楽堂にも参加させてもらっている
以前は本土ではあまり知られていなかったが ユネスコの世界遺産にも登録されたので理解される様になった
歌舞伎、浄瑠璃 能と同じように高まっている感じがする
沖縄県立芸術大学で週3回 国立劇場組踊の研修で週 2回 やっている
稽古場での若い連中への稽古も行っている
普段のけいこでも2時間は立ちっぱなしでやっている
見た目にはゆったりしているが身体全体で踊るので 身体を鍛えていることになる
父は村踊りの地方をやっていたので小さい頃から舞踊のたしなみはあった
民謡を聞いたり舞踊をやったり、父の友人が家に来て(古典音楽をやっている人)
週に2回~3回来ていて 舞踊の師匠でもあったので 踊ってごらんと一緒に踊ったりしていた 自然と琉球の芸能を覚えて行った
姉は村踊りに出掛けてリーダーをしていた そこでも一緒に出掛けたりした
高校では元々音楽が好きだったので 音大に行こうかと考えて 音大に行く為の勉強をした
声楽、ピアノ等をやっていた
3年の時に母が亡くなって経済的に大学に行く余裕が無くなって 琉球政府に就職した
那覇に通っていた(庶務) にしめじゅんじさんに決済を仰いだりした
最終的には琉球芸能が私の歩む道であると気持ちが湧いてきた
宮城能造先生の舞台を拝見して身ぶるいをして感動した
女形は地方では見ることが無かったが 宮城先生がやって 女以上に色気の有る 色艶の有る色気を感じた 門をたたくまでには時間がかかった
15歳より玉城源造、宮城流・流祖宮城能造に師事し、組踊、琉球舞踊を本格的に学ぶ
23歳の時に宮城能造先生の門下になる 初対面で感じた印象
ひ弱な人がやっていけるかなあと思ったという(47kgと痩せていた)
石橋をたたいて渡る性格だが始めると頑固いってつにやってゆくタイプ 勤めを辞める
周囲からは頭がおかしくなったのではないかと言われた
29歳で新人賞 30歳で優秀賞 31歳で最高賞 沖縄の舞踊賞を貰った
当時は少ない人数だったので短い時間で賞を貰えた
宮城能鳳 の名を襲名する (31歳) 昭和47年本土復帰の時は34歳 国の無形重要文化財に指定される 大きな励みになった
指定要求に女形を男性がやってゆくことになる
歌舞伎は女形は女形一辺倒だが 組踊では青年の踊りもこなさないといけない
(車の両輪のように)
師匠も空手の有段者で女形をこなすにも男の凛としたものを持っていないといけない
役者はしっかりと舞踊を身につけていないといけない 舞踊、台詞 音楽
68歳の時に人間国宝に指定されました 組踊の人間国宝は一人
若手の育成を担う
沖縄芸大 平成2年 から教える 今では大学院だけを見ている 教え子たち今頑張っている 世田谷のパブリックシティー 若手中心でやっている
演出、台本、脚本も若手が担当してやっている
最近は若手の観客が増えてきて楽しみ(演者が若返ってきている事もあって)
場所を余り選ばず 場数を多く踏んで場所にこだわれずやっていて心強く感じる
上演する演目が少ないので演目を増やすような作品作りもしたいと思う
伝統の様式美も守っていかないといけない
仇討ものの多い中で世話物を増やしていければいいと思う(7~8割が仇討もの)