大村智(北里研究所76歳)・2億人を熱帯病から守った科学者(産学連携が社会貢献をもたらした)
発見した沢山の微生物をアメリカの製薬会社が実用化を図るという産学連携を日本の医学界で初めて行ったのが大村さんです。
大村さんはロイヤリティー収入で、絵の有る病院やコンサートホールの有る病院を作り 地元山梨には山梨科学アカデミーを設立して人材育成や科学技術振興の為に力を注いでいます
アメリカの大学に研究留学 マックス・ティシュラー先生は新たな学科を設立する スタッフも余り充実はしていなかったが、アメリカのトップクラスの研究をやっているのを見ること出来た 。
イベルメクチンが出来るずっと前 1971年にアメリカに留学 1973年に日本に帰ってくる。
日本と文化が違った。 当時日本は発展途上の国だった。
客員教授の待遇で良かった。(自分の好きなことができた)
コンラート・ブロッホと言って 1964年にノーベル賞を貰った人がハーバードにいて 其の先生にお目にかかることができたのが良かった。
私が持って行った薬の価値が其の先生ならば判るだろうと思って 友達 ウォルター・セルマーという人がいて コンラート・ブロッホ先生が今度内の会社に来るので一緒に来いと 引き合わしてくれた。
それが本当に良かった、今まで化学、微生物をやってきて 今度生化学(バイオケミストリー)を勉強できた。
これが私のその後の研究の基盤に成ってゆくんですね。
1年そこそこで7つぐらいの論文を書いた。
何年いてもいいよと言ってくれたが2年も居なかった。
日本は研究費が少ない。
アメリカの大手の製薬会社を6つぐらい訪ねて契約をする(3年間8万ドル資金を調達してくれる)
その後20年続けてくれる、その研究の中にエバーメクチンが入っている。
私の様な考えで研究費の導入する、特許をどうのこうのと言う様な先まで契約してやったのは無い。(大村方式と言われた) ・・・産学連携 独特の方式 だった。
お金を頂くが、いいものが見つかると特許を取る。
ライセンスは世界のすべての国のライセンスをお宅に上げますよと、利益が上がればそのうちの何%かは私に返して下さいと ・・・そういった契約を結び、大村方式と言われた。
これは信用です、マックス・ティシュラー先生の元に付いて研究したのが信用を得た。
産学連携では覚書の中で、優れた微生物を分離する、分離したものを培養して、この微生物はどういう風なものを出しているかなど、試験管培養まではこちらでやる、施設が無いので動物実験は向こうでやる。(製薬会社)
エバーメクチン他 10数種類を発見したが、実用化はエバーメクチンだけだけれども研究用に使われる薬はいくつも見付けた。
身体の中のメカニズムを調べる時に、メカニズムに特定な場所に作用する様なものがあると、其のメカニズムを説明する これがこういう理由でこうなるよという説明できる薬が必要なんですよ。 実際身体の中でどう反応しているのかと言うことが それが眼に見えないから、判らない。
処が其の薬を使って有る物質が増えてくるとか 減ってくるということで見当を付けてくる。
科学の実験に使う、これは沢山見付けた。
うちで見付けたスタウロスポリ これは最も世界で使われる薬の一つです・・・研究用薬
世界で過去20年を調べてみると1年に500の学術論文にこの薬が使われている。
エバーメクチンは農業用 イベルメクチンは人用 トータルすると大変な額になった。
円高にならなければ年間数十億円の特許料が入った。 円高で1/3ぐらいになってしまった 。
其れを①研究費に使う。
②北里研究所を通して社会還元しよう、
③人材育成しようとした。
一つのプロジェクトに10億円かけたものもある。
エバーメクチンの生産菌のゲノムが如何なっているのか、ゲノムが物質を作る遺伝子をどのくらい持っているのか、そういったものを 片っ端から調べると 30何種類の物質を作っているとか驚きですね。
今まで一つの微生物が何種類も薬を作るなんて考えても無かった、遺伝子を調べるとによって判った。
その後いい研究であるという事で通産省の支援も有り半額で済む。(でも数億円かかった)
研究所を何とかしたい、北里研究所の経営が難しくなり経営の立て直しをした。
抗生物質は病院で使われている、私の作った抗生物質は病院を作ったと、こういう話をする。
私と契約した会社はもっと儲けている。
私は発想は良かったが、次の段階でまだくちばしが黄色かった。(当時 相手は専門の弁護士を立てて私が相手をして契約をしていた)
人材育成、 シンポジュームを開く、若手の研究者を海外に送るなど、特許料があったから出来た。
私のグループで110何名は博士になっている。 27名は大学の教授になっている。
人材育成ができたのは、産学連携での資金があったから有効にできた。
日本にいたらこのような考え方は出来なかったと思う。
20世紀は科学が最も進んだが、人の気持ちがすさんだように思った。
出来ることは何か考えたところ病院を作った。
病院を美術館のようにして、絵を鑑賞しながら診察を受けてもらったら、心も直せる(殺風景)と思った。
病院の本来の機能については医者に任せて、プラスアルファは私が考えるという事でを考える、先駆けて絵を飾ったり、コンサートをやるフィーリングアートを展開する。
癒しの空間をつくる。 私は「初めて」が好きなんです、人が考えないことをやる。
北里に3大奇人がいるか、知っているかと言われるが、どうも其の一人がどうも私の様だ。
昔から絵が好きだった、外国に行くと最初に探すのが美術館と日本食店です。
病院の絵の効果として、ある脳外科の患者で重い病気が判っている人が、最後であるこの時期にこんなに絵を見ながら過ごせたのは幸せだったと 言う事が耳に入ってきました。
或る女性が絵を見て、自分は離婚して生活苦で子供と一緒に死のうかと考えていたが、その絵を見てこれではいけない自分も頑張ろうと思った、というような話も聞いた。
「芸術は人の魂を救い 生きる力を与えてくれる」
アウシュビッツから奇跡的に生還した 医者ヴィクトール・フランクルの言葉 。
まさに私はその体験をしました。
1600点の絵が収蔵されている(北里研究所)、病院に掛け替えている。
コンサートホールは初期に設計を取り入れてエントランスホール広めに取り、天井は音響効果を考え多形にして、椅子は可動式を用意して、300人ぐらいは入れるホールを作って楽しんでもらっています。
人材育成 子供を育てている、若いうちに(小学校、中学校)育成する必要がある。
17年前に山梨科学アカデミーを発足させた。
未来科学者訪問セミナー(一流の教授等を派遣) といって訪問する会を作って、育成をする。
大学に行ってしまうと、もう個性化してしまっていてそこに鞭を打っても駄目だと思っています。
「教育で人を作って 人が日本を作る」その教育するところが おかしければ日本を作る人間が生まれないと思います。
東京一極はいけない、政治、文化にしても東京だけが肥大化して、そこで育てる子供だけではいけない、地方に多彩な人間が育って来るという風土を作っていかなくはいけないと思う。
山梨科学アカデミーを作ったのが一番の狙いです。
人材育成はただ授けるだけではだめで、一番大事なことは自分が勉強しなければ駄目。
子供を育てるには親が、先生がそれ以上に勉強しなくてはいけない。
「正師を得ざれば 学ばざるにしかず」・・・ 道元禅師の言葉
正師になるためには自分がしっかりしなければ駄目、そうしないと学んだことにならないと言っている。
教わった方は幾つになっても勉強しなくてはいけない。
年を取ったからもういいよと言う事にはならない。
北里先生の実学の精神 北里研究所の精神
産学連携も実学から来ている。
産学連携はお互いに補完し合う(お互いの弱いところを補う)
私は研究を経営するといっている。(資金を用意する、 人材育成する、 アイデアを出す)
資金、人材、アイデアを合わせて行かなければいけない、そして社会還元出来るようになって初めて研究を経営したことになるわけです。
どれ一つ欠けても研究を経営したことにはならない、というのが私の考え です。