2011年12月1日木曜日

川端新二(元蒸気機関士)     ・蒸気機関車は私の先生

川端新二(元蒸気機関士82歳)                           蒸気機関車は私の先生  
始めて機関車を見たのは5歳の時 
小学校5年生(昭和12年ごろ)の時に友達の父親が働いている福井の機関区に行き機関車を見学して感動した
其の親に機関士になれるか問い合わせたら、算数が好きで機械に興味がありに健康であればなれると言われる
心理学でいう「刷りこみ」だったと思う 機関士になろうとおもった  
国鉄に入ろうとおもって先生に行ったら咎められた 
当時は戦争で名古屋(福井から名古屋に移転)では軍事工場が一杯有ったので何でそちらに行かないのかと
昭和17年当たりは職員が戦争に駆り出され質の良い職員を入れにくい状況だった
(国鉄100年史に記載)

国鉄に入ったのは14歳 高等小学校卒業者600人のうち国鉄に就職希望したのは10人だった  うち8人就職 面接と身体検査だけだった
名古屋機関区の「庫内手」蒸気機関車の掃除専門職に配属される  
真っ黒焦げになって掃除をする(釜の中も) 油、埃、すす 誰でもやらされた
掃除をすることによって機関車のいろんな部分を覚えて行った  
機関車がただの鉄の塊ではなくっていきもののように感じた 
綺麗にすることによってキズがよくわかるのだからしっかり掃除をするようにと云われた
軍隊の初年兵のような感じで最初はしごかれた 

一日でも早く機関士になりたいとおもって(試験を受けて受かると次の職種に移動できる)一生懸命勉強した
8か月間掃除をした 風呂に入っても綺麗には成らなかった  
年上の人が軍隊に行き条件が良かったため試験も合格した 
最初の1年間は寮生活 先輩にいたぶられた 機関助手見習 (3か月) 機関士の弟子 蒸気をつくるのが機関助手の仕事 
①機関車の釜炊き、給油 
②機関士から指示があった時には信号の確認をする 機関車の点検 機関士の職務を助ける
釜に石炭を投入するのに広さ畳2畳じきの所にまんべんなく石炭を供給する事が大事 
タブレットを持っていれば対向車はいない
名古屋から浜松までシャベルに2000杯釜にくべた
機関助手は蒸気をつくる仕事 機関士は蒸気を巧く消費する人 
炭水車が機関車の後ろに連結されている
機関士(40~45歳)は助手には優しかった 事故があったら一心同体だと言われた  
機関助手を14年やった
戦争から帰ってきた人達がいて機関士になれる期間が、長くなってしまった、が逆に長くやってよかったとおもう 
機関士の仕事をじっくり見ることが出来た

相手の仕事(機関士)を少しでも軽減してやろう、石炭を蒸気を少しでも効率よく使用しようと考えた      大事に蒸気を使う人と、雑に使う人とがみていると判る 
機関士と機関助手との絆の強さは強い(退職後も付き合いがあったり 、娘の婿になったり等) 一緒に仕事をしていると性格から人柄が判ってしまう
難所、蒸気機関車は勾配に弱い 蒸気ができないと止まってしまう
戦争直後の石炭の質が一番悪かった 
トンネルは地獄であった 煙で窒息する様な人も稀にあった 
1秒でも早くトンネルから脱出できるように考えた
 
北陸線はトンネルが多く難所が多かった 
石炭の中に顔を突っ込んで空気を吸うようにと云われた(石炭の中は綺麗な空気が有る)
蒸気機関車の良さは機関士と助手との繋がり
昭和50年蒸気機関車が無くなる  電気機関車は25年運転する  
世界が全然違う (釜焚き、掃除はない 効率化はされた) 張り合いがない
自分が運転しているんだと言う気持ちがない 
蒸気機関車は動力を自身で作って動かすもの 電気機関車、電車は動くもの  
連帯感は無くなる
人間が作った機械で蒸気機関車は一番生き物に近い 名言だと思う  いまでも夢を見る
水の補給を忘れた 釜の火か消えた 駅を通過してしまった
電気機関車の夢を見たことがない 
先輩達との想い出、辛さはあったが蒸気機関車から一杯教えてもらった 
その辛さを知っているので他の辛さは我慢できる