2011年12月14日水曜日

ドナルド・キーン(日本文学研究者)    ・日本と出会った私 2


ドナルド・キーン(日本文学研究者)  日本と出会った私
三島由紀夫とは親しくなった 三島氏とはウマが合う 几帳面なタイプ 三島作品「宴のあと」 
「サド侯爵夫人」 「近代能楽集」等を翻訳している
三島氏はある意味西洋的な文章を書いている  決して訳しやすいものではなかった 
複雑な文章で美しかった
太宰治「斜陽」「人間失格」 訳す 太宰治の文章は一番訳しやすかった  
一回しか会っていないけれども永井荷風先生は印象がある  
「隅田川」極めて美しい文章だとおもいました  荷風はフランス文学とふかい関係が有った

谷崎潤一郎は序文を書いてくれた 谷崎の家に人から頼まれて原稿を持って行ったことがあり 
自分の文学を非常に自由に話してくれた
「細雪」 こういう事は本当に有りましたか と問うた時に 大抵の作家はフィクションだとか作り話
だと 谷崎先生はその通りですという 大家だと思った
私には親切ではあったが、谷崎先生はあまり男にはあまり興味がなかったという印象がある  
谷崎先生の周りにはいつも女性がいた

島中さんは社長として現代の事に興味がありました 永井さんは未来の事に興味がありました
中央公論にたびたび書くようになった 日本語で書いたが時には不自然な表現をしたと云われた
 が島中さんはそのまんまの方がいいと云ってくれた(面白いと)
「碧い目の太郎冠者」 日本語で書いた作品に谷崎さんが序文を書いてくれた
 書いてくれた事に対し信じられない
日本文学の紹介 日本文学を世界に認めさせた 日本文学を英語に訳す場合 
いろいろご苦労があるとおもいますがどんな事がありますか→
初めは外国で日本についての知識は殆どゼロだった 
着物がある とは解っていたが 足袋とかぞうりとか 食べ物でも 刺身とかなんでもない事を説明するか
それともそのままにしておくか 注を付けるか 表面的にあまりだいじではないものも 問題があった
日本語と同じような英語を表現出来ないことが不満だった 
日本についての知識がずいぶん増えたし 味噌とか説明する必要がまったく無くなった
当時は外国人で日本を訪ねる人は少なかったが今は大勢になっている 
日本の色んなものを火鉢を説明しなくてもいい そういう事もある

翻訳として一番力を入れたのは近松門左衛門 近松は非常に訳しやすいものと
(曽根崎心中とか世話物) 訳しにくいものがありました 
国が違う風俗文化は違うが 例えば有る男が二人の女性を愛してると云うのはどこの国でもある
こと 世話物の翻訳は良くやりました
近松は魅力的 今でもそうです  
芭蕉の俳句は 難しい 読めば読むほど広がる 奥の細道を旅行する 
当時の道路は舗装されていなかった 物凄く埃が立って呼吸ができないぐらいだった
松島は芭蕉と同じ思いだった 10年前に行ったら幻滅した 町は以前とまったく違った
音の世界が芭蕉の句に有る  「い」、「お」の音等

評伝  足利義政 明治天皇 渡辺崋山 ・・・この人たちを取り上げた理由→「日本文学の歴史」
完成した時点でしばらく文学の世界から離れたいという気持ちが有った
「日本文学の歴史を書くのに25年間掛りました 阿部公房から明治天皇の評伝を書くのは止めた
方がいいと云われる 右翼から狙われるとか云われた
明治天皇は興味があり1年間は掛るとおもっていたら7年間掛ってしまった 
明治天皇を書くのはある意味難しかった 日記、手紙はない 有るのは歌だけ
非常な関心は変化の時代であった 明治維新もそうだった  
渡辺崋山は初めての自分の芸術を外国のものを利用してそれ以前の肖像画とは違うものが生まれた
それだけで満足せず如何して西洋人はその様に書くかと 西洋の文化を調べた
 幕末の蘭学者で画家でもあり田原藩現在の愛知県の余り大きくない藩の家老に近い役だった
キーンさんの書いている渡辺崋山は画家におもむきを置いて書いている

オランダから入って来た銅版画を見て写実というか絵のリアリティーを
感じたとおもうが 佐藤一斎の肖像画を書く それまでの日本の肖像画にないもの リアリティーがある 
新しい日本が生まれる個性がある時代 明治維新の前  
ではあるが何か大きな変化がある予感を感じさせる 
足利義政の場合は 足利義政と会ったらそれほど面白くない人物だとおもうが しかし彼が行った
変化は日本文化を完全に変えたです
日本の伝統文化は  東山文化です 銀閣寺に入ると吃驚します 
それは珍しいからではなく東京の料亭の部屋と変わらない
床の間があって 生け花があって 畳一杯の部屋で 全部あの時代の物  平安朝の文化は残っていない
東山文化のパトロン的存在 満足するまで色んな仕事をさせた 職人たちを大事にした  
庭が非常に好きだった 狩野派が有名になったのはあの頃
3人の人物の共通のところは変化の時代だった
 
現在正岡子規の評伝 を連載をされているが 評伝というよりは学術論文のような気がしますが→
正岡子規は大変難しい事をやりました
彼は俳句と短歌を作った人です もし正岡子規がいなかったとすれば 俳句や短歌を日本人は
作らなかったとおもいます
正岡子規は野球が好きだった  ベースボールを日本語で野球としたのは正岡子規だった
これから書くときに興味ある人物は→平賀源内 あらゆることをやっていた人 芸術家として陶器
文学者として立派な歌舞伎もある
小説家でもあり 発明家でもある 今までの人が書かなかったことを書きたいとおもう 問題は時間です
最近 忙しい 本を読む時間もない いま89歳ですから どのくらい時間が残っているか知りません

日本の大学で国文学を勉強する人が少なくなっていると聞いているがどう思われるか→
本当に残念です 自国の文学を読まないのは残念だとおもう
日本文学はすばらしい作品がありますが  それを読むのは入学試験の為だけです 
最近聞いた話では日本文学だけでなく外国文学もあまり読まれてないわびしい気持ちがします
大学4年間だけおそらく生涯其の時だけそういうものを読む事が出来ると思う
 一旦社会に出るとそういう時間は無い
4年間をフルに使わなければならない 私は惜しいとおもいます 
コロンビア大学で今年まで教えていた 現在は古典文学よりも近代現代文学に人気があるが 
両極を原文で読むことにしている

去年は11人でした 近松 芭蕉 は面白いと云われる
日本国籍取得の理由、心境は→初めて考えたのは今年の一月でした  
東京の病院に入院していました 考える時間がありこれからの時間をどこで過ごすか
どういう風にするかと思って それは難しくなかった 矢張り日本です 
私の生涯は日本と密接な関係が続いている 友人も日本人の方がはるかに多い 
日本の文化は生涯の私の仕事です 日本 日本人に対してどうやって感謝を示すことが
出来るかと思って 日本の国籍を取る
日本人とのつながりは非常に大切で国籍が違う場合は何かの壁が残っていると感じましたから 
その壁を壊して日本人になりたいと思った