東日本大震災でと大津波 原発事故は全てを奪い去った
ただ家族が無事であったことは おおきな救いでした
相馬双葉漁港うけど支所漁業者原子力災害復興対策協議会 会長を務めている
仕事である海と仕事と生活の場である陸も原発事故によって強烈に汚染されてしまった中での一人の漁民としての思いを聞きました
中学校を出て16歳の時に船に乗った(戦争に行き身体を壊して10歳の時に父親が亡くなった) 見て覚えろと叱られながら覚えた
20歳の時に乙種2級機関士の試験を受ける
20歳で一等機関士の試験を受けて合格する
蟹の調査船の機関長として働く 函館支社 カムチャッカ ベーリング海峡まで行った
3月下旬から10月まで働く 3年
サケマス漁船の機関長をする サンマ船
自分で何かやりたい、というおもいが出て来る
昭和48年に(32歳)海宝丸を作る 6.9トン 刺し網漁だと7tonまで
平成3年海宝水産立ち上げる
海宝丸は 長男が担当 次男がすし屋 仲介業もやっていた
自分の夢が報われるのだと思っていた
一瞬にしてなにもなくなってしまった
原発事故さえなければ復興していたと思う
警戒区域なので(6km) なにも出来ない
海宝丸は陸にあがっており重要な部分は無傷なのだが警戒区域内なので手がつけられない
3/11の時は魚が一杯取れたので総動員で加工作業をしていたが地震の後に大津波が来ると云うラジオ情報があったので パート人を帰して、防災無線が離れろ離れろと言うので車で家族を帰して 私は船が心配で港に行く
港は水が引いて底が見えていた 船を沖に移動はできないと判断
津波の第一波が見えてあわて逃げる 沖の方が靄が見えた
10mある橋の上で見ていた(この高さまでは来ないと思っていた)
松林をなぎ倒してくる津波を見てこれはただ事ではないと思ってまっすぐ西に向かって走った
信号機の処に車が一杯いてこれが全部流された
西に向かう道は車がなく100kmのスピードで逃げた それで助かった
家族は町にいたが避難場所に逃げた
遅くなった人は車が渋滞していて逃げ遅れてしまった 組合員が28名亡くなる
周りの人達も多く亡くなった 機械類も多くなくなり 残った機械も入れないので修理もできない 家もなんにもなくなってしまった 墓石も一切なくなってしまった
チリ津浪の時も堤防で見ていた程度で大きな津波はくるとは思わなかった
原発が危ないとの情報が入り 相馬地区に親戚がありそちらに避難するがそこも危ないとの事で福島に親戚がありそちらに避難 1カ月避難
世話になっていられないので いわきに移動する 長男は飯坂温泉に避難
原発事故はおぼれている人の足をひっぱるようなもの
放射性物質を海に流されてた情報があり→もう海は最低でも1年、2年は駄目だと思った
船は止めたくないなあと云うのは本音 いつになったら見通しがつくのか判らない状態
いつ 海が取れるような状態になるのか 家にいつ帰れるのか 一番は放射能の問題
(子供の問題) 浪江町にはもう帰れないと思っている
漁師仲間の最後の奉公と思っている
役員とは月に3回程度は集まって話し合っている 150名 一番多い時 集まった
いつになったら海に出られるのか・・・皆が思っているがそれが判らない
歯がゆさがある どうしてそれまで過ごしたらいいのか見当がつかない
ボーとして過ごしてきたような気もする こればっかりはどう仕様も無い
あまりにも代償がおおきい
国と東京電力に対してトンネルのなかの一点のひかりでもいいから見せてほしい
被災者が納得できる実態を伴った展望を示すことを求めている