「ファンシーダンス」は元々はやっていた漫画が原作 修行僧の話
まったく違う道を歩むが いろいろ問題を起こしつつ 最終的には一人の僧として何かを感じて行きつつあるというような話
これが後々「シャル ウィ ダンス」で世界的に有名になられた 周防正行さんとの出会い
周防正行さんは冷静な人 小津安二郎さんが好きな監督さん 冷静さ貪欲さがある
「しこふんじゃった」で日本主演男優賞を貰う 史上最年少の受賞であった
撮り終ってから 監督に取りなおしたいところがどこかありますかと、聞いたら 「全部」 と云われた
20代前半で自分探しが始まった(いろいろ映画の役・演技を体験して)
まっしぐらと言うような感じだった
不満足主義の自分としては又このままでいいのだろうかという想いが頭をもたげて来た
私生活の中でも結婚を足かせにしたらどうなのかなあと思った
役者の仕事は案外孤独というか 地道というか 厄介なんです
役が入り込んだりしていると うっすらどこかで考えている
自分の中に割り切れない2人が存在している様な自分があるので プライベートな事で自分を切り替えて家族と接すると言う事がうまくできない感じが当初有った
結婚した当事は 最初苦しいながらも 一つ新しい刺激が有って きつかったかもしれないけど 彼女の方も一緒だったかもしれない
子供が出来て親になって大河ドラマ 徳川慶喜役を演じることになる
一年に全て一気に重なった 週5日はNHKでの仕事の日々だった
長く続いた徳川の時代を看取る役をしなければいけないわけで 投げ出して逃げ出したという風に言われたり つまらぬ戦争をやって人の命が落とされるよりも、ひきょうと云われても そこでくらました方が 結局は無血開城に繋がるという見方があったりするので、非常に 良く言えばミステリアスな役で 初めてで大変でしたけど 非常に面白い やりがいのある役でしたね
慶喜で長い台詞を経験した
5~6ページに及ぶものがあり 書いて書いてビジュアル的に覚えた
殿様の役なので一段高い処からしゃべるので毎日舞台に出ている様な感じだった
逆にそれで鍛えられていったのかなあと云う気がします
どんな役をするんでも3か月4か月経っても そもそもこの役は向いていないんじゃないかと気持ちが腐って来る (本心では)
大河ドラマでは最初、客が批判もするんだけど 時間とともに客が役者の味方になるからと云われて それで凄くなんか楽になった 処がある
段々行くところ行くところで声をかけていだけるようになって なるほどお客様が味方してくれると言うのはこういう事なんだなあと思うようになった
慶喜の1年間はそれが財産になって4~5年は続けられたと思います
強気な瞬間が有ったような気がする
「ほどほどに希望して人生を楽しく諦めてゆく」
自分はいつも何故 内心自滅しているのかというと、出来もしない高い理想持っていて勝手にしがみつこうとしている 目的が高すぎる
元々設定が間違っていると別の自分が言っている
分をわきまえていない部分がある 現状はいつも駄目もとで始まっている
本当にいろんな意味でコンプレックスの塊ですし 不器用だとおもう
20代にインド旅行をした (貧乏旅行) その前に欧米に旅行して 何か自分に活かしきれてないような歯がゆさがあって何となくアジアに気が向いた
藤原新也 写真詩集 「人間は犬に食われる程自由だ」物凄い言葉が添えられていて インドはどういう世界なんだ その町の臭いを知ってしまったら、どういう風に人間は変わってしまうんだろうと思いインドに行ってしまった
インドは本当に混沌としていて各地 各人で捉え方が全然違う
路上生活をしている子供たちを見たりして 自分の価値観をいちいち確認されてったんですよ 遺体が焼かれている (公衆の面前で) 出くわす
それまで、物凄いある不安とスリルを抱えていた自分が その時いなかった
人が薪の上に置かれて焼かれてゆく姿を見て その周りを親族、友人が和やかに語り合っていて キャンプファイヤーの周りを走っている様な子供たちがいて、その背景には大きな川が流れていて空があって 自然とある意味安らぐと言うか心地よいというのか 云ってみれば生と死が同居する初めて見た風景ですよね
日本と違って隠されてない そのことに安心した自分が凄く新鮮だった
その思いを東京に持ちかえったが この都市生活の中では活かしようがないなと思った
青木新門 富山の元詩人 「納棺夫日記」に出会い こんな仕事があると知った 生と死の間に立って 橋渡しをするそんな仕事が有ったんだと知った
映画にしてみないかと云われる
そんな暗い話は駄目でしょうと言われ そんな日々が10数年有った
心引かれた世界ではあったが映画にするのは現実的ではないと、映画化の話も紆余曲折があって 最終的には「おくりびと」という風に結実した
社会が変わって 受け入れられる 求められる時代に変わっていた
ある運命の機が熟した そういう自分以外の流れが大きく働いたと思います
有るお婆さんの遺体を拭く事を実際に経験させてもらった
いろいろの死の場面にも立ち合わせてもらったりした
(演技をするにはどうしても経験しておかねばならない)
寄り添うというポジションのとり方 グッと入りこみ過ぎたり、引き過ぎたり じゃなく 寄り添うと言う距離感 有る趣 力というか 迷惑をかけないぎりぎり近い距離
引き過ぎると何も見えなくなっちゃうし 突っ込み過ぎると 相手を傷つけるかも知れない
「みぞれ」(雨と雪が混ざっている) 生死が一緒になっている日本的なもの
俳優論でいえば 「心からはいるのか 器からはいるのか」
私は器(形)から入る
たたずまい どういう雰囲気を醸し出したいか そういうイメージが大事
最後に精神としてスパイスを掛けるみたいな事ですね そういうような構築の仕方
訓練しないと駄目かな、苦しみながら、傷つきながらやっている
人間は誰もがどんな状況、どんな環境、どんな立場であっても人間そのものがその人のどうしようのなさを持っている(きききりん)
割り入れない、如何ともしがたい何かというものを抱えている
性質(たち)として という基本が先ずそこに有って それをきちんと踏まえているか、、踏まえていないか、表に出た時に 人移り その人の姿というものは他人からはとてもよく見えてしまう どんなに綺麗な事を言っててもその裏には毒があるとか、そういうものだからという事で自分をさらさなければ 自分をプロテクトすると言う事ではなく ある意味、正直でなければいけないと同時に 正直すぎると馬鹿を見ると 程よくおもっていて 「面白がれるか」どうか(きききりんさんが言う言葉)
そういう自分がどう仕様もなさを抱えていると云う事を踏まえたうえで 発言ができるかどうか 苦しくて いろいろ難問を解いて答えを出すんじゃなくて ある意味半分 開き直りもありながら その状況を はい左様でございます 私はこんなに駄目な処もありますと踏まえたうえで だからこそいまこんな恥をかいているのです
ここで勉強させてください あー成程 そういうこともあるんですか 面白いですね
と云う風に言えれば勝ちだと云うような そういう風に「面白がれるか」 という事ですね
腑に落ちる感じですね
子を育てれば自分も育つ それは子供でなくてもいい 動物であっても部下であってもいい
つまり人を育てる 何かを育てると云う事は非常に難しい ことだから、育てると云う事は自分が育つこと と云われているので刷りこまれている
今でも不満足主義 本当に私は不器用
最近怖いとうのは年下も増えてくるし どうしますか?と問われたり
役に同化してシンプルにしたいと思う