2011年12月10日土曜日

松田陽子(シンガーソングライター)  ・歌える幸せ噛みしめて

松田陽子(シンガーソングライター専業主婦)    歌える幸せ噛みしめて
31歳のときに子宮頸癌が見つかり子宮全摘出手術を行う 手術は成功したものの 
待っていたのは再発の恐怖 離婚 鬱病でした
しかし或ることをきっかけに人生が大きく開けた ライブコンサートは今では熱烈なファンで一杯
 ステージから命の大切さと生きる喜びを伝えています
今はUNHCR国連難民高等弁務官事務所の公式支援窓口である国連UNHCR協会の
協力委員としてボランティア団体セーフの代表として難民の支援や
地震の被災者の支援 児童虐待の防止 癌検診の啓発等に取り組んでいる

小さい頃叔母が歌手で前座で幼稚園、小学校の低学年の時に歌わせて貰ってました(アメリカで)
歌手になりたかった たまたま大学卒業前にスカウトしてもらった 
また歌の道に入るようになった
27歳で結婚 娘が1歳半ごろに子宮頸癌になった 
手術しないと生命が危ないと言われる 動揺した 子宮全摘手術成功した  
心がどんどん悪い方に蝕まれ 一番理解してもらいたい夫に解ってもらえず 
2週間に1回の精密検査で眠れなくなって 食べれ無くなって 
また再発したらどうしようと鬱病になってしまった 
 
癌の手術が終わったら皆 良かったね 終わったね 云われたが 
癌患者からしてみるとこれからが
戦いなんですね スタート  お祝いしようよと言われてもお祝いする気になれない 
どんどん気持ちがふさぎ込んでくるような状況なので そこを理解してもらえなかった
喧嘩を何度もする 私も悪かった 私がこれだけしんどいのに解ってくれない 
私は 私は・・・って 主人は 俺だって頑張っている 俺だって毎日働いて
やれることはやっていると ・・・  お互いの自己主張で ぶつかり合ってしまって 
どんどん気持ちがすれ違って離れて行った
手術までは幸せな家庭だった 
癌になったのがきっかけで大きく歯車が狂って行ったなと感じています

DVの家庭環境に育ったので絶対に娘は幸せな温かい家庭環境で育てたいと思い可愛がった
手術の後は鬱病になってしまって その後離婚してしまった  
専業主婦だったので収入も無く どんどん悪い方に考えてしまって 精神安定剤 
睡眠薬を飲まないと
生活できない状態になってしまった 
そうなるとあんなに愛おしくて抱きしめていた娘  
自分が生きるか死ぬかのぎりぎりの処に追い込まれて自分の事で精一杯
なので些細なことで娘にワーッと大きな声をあげたり、手を挙げてしまったりという事がありました 
頑張ろう 頑張ろうとおもうんだが寝たきりになってしまった 
離婚と同時に 生きなければと言う思いがパーンと壊れてしまった

生きる気力が無くなってしまって 気付けば本当に寝たきりになってしまった 
ご飯の味覚が無くなって砂の味 日常生活が困難になって トイレに行くのも這ってゆく
ただの鬱病だけだったらよかったんですが パニック症とか対人恐怖症で過呼吸になって電車に
乗れなくて吊革にぶら下がっている手からばーっと汗がでて
どんどん息をすっているばっかりになちゃって倒れそうになる  
おにぎり一個買いに行くのも本当に大変で「癌で離婚して・・・等」勝手に妄想して人の目も観れず
帽子を深々とかぶってさーっとおにぎり買ってさーっと家に帰って また倒れて6時間ぐらいずっと
電球を見ていて過ごした時期も有った

娘を母に預けて、一人で東京に行って仕事を見つけて(仕事が歌と司会と通訳だった) 
娘を呼ぼうと思った 私の中でこんなに娘が支えになってたんだと言う事が本当に離れて解った 
娘と離れた途端にバーンと寝た切りになって娘がいるから生きなきゃと言う糸が切れて大変でした
ずっと一人でいたが3歳からの幼馴染の親友がバスの乗って8時間かけて大阪から来てくれた 
話をしなくも合っているだけで気持ちが和んだ 
陽子ちゃんはこんなところで寝たきりでいる人ではない 
這いあがって夢をかなえて 自分の人生だけじゃなく
誰かの為に前向きで明るくパワフルで世界中回っていたそんな陽子ちゃんに戻るはずだから
凄い希望のある言葉を云ってくれた

変わるきっかけは→難民を支援する映画 「すべては愛の為に」 
それを見た時が本当に衝撃的でぱっと目が覚めた
一人の裕福な女性が世界平和のために人道支援の為に難民の為にどんどん自分の生き方が
変わってゆく  UNHCRのいろいろ活動とともに いろんな現状を見せてくれる映画
赤ちゃんが生まれてお母さんのお乳も出なくて水一滴も飲めずに結局母親の腕の中で死んでゆく 
あー私は蛇口ひねって水が飲めて温かい布団で寝れて 外あるいても地雷が埋まってなくて
何にもないと思っていたが全て有るんじゃない 
自分の現状を全てマイナスで悲観的で私だけが苦しいと思っていたのが違うと思った

世界には私よりももっともっと大変な思いをしている人が一杯いるのに私は本当に自分の事しか
考えていなかったなと思った
学生時代に30カ国に旅行に行ったことが有って その一つにスりランカがある 
その時の事を思いだした
子供がお金くれお金くれと云っていて 良く見ると手がない 足がないんです  
スリランカはずっと内戦が続いていて政治が動かず結局お金がなくて
普通の五体満足の子供がお金ちょうだいと言っても観光客はお金をくれないので五体満足の
赤ちゃんの手を切って 足を切って 並べるんですよと
私は目の前で観た それで世界の平和の為に生きようと思った 

大學卒業したらその仕事に携わろうと思った時が凄いあった 
そのことを思いだし きっかけになって どうやって生きるかは自分次第だなって 娘とともにもう
一回這いあがってみようと 思いました
私は自分の夢をかなえるために 、自分の人生をいきる為に生れてきたかもしれないけれども 
それだけの為に生きているんじゃぁないと若いころに誓った
それがずーっと出来ずに今に至ってるなって
それでUNHCR協会に電話して たまたま語学が手伝うことができたので翻訳のボランティアをさせて
もらって このままやっていたら世界の難民の事を
知らせられないなと思い 私の近くの人にも知って貰いたいし、チャリティーライブを先ずやりました

まだ無名の歌手なので 大変だった 後ろのバンドメンバーよりもお客さんのほうが少なかったり 
どこ見て歌ったらいいんだろうと そんな状況から始めた
私のライブに来てくださいと言った時には自信が無かったのに 歌とともに難民の映像なども
見せて皆さんとともに世界平和 難民の事を考えるイベントだから
是非きて下さい と色んな層の人々に声をかけて 皆に助けてもらいました  
国連難民高等弁務官事務所  国連UNHCR協会が日本の窓口になって企業、個人 色んな方の
のご支援を頂き ジュネーブの方に送ってゆく
協力委員は日本でも20名前後ぐらい  UNHCRの方で松田洋子が歌っている難民の為の曲が
とってもいいと言うから国連大学のレセプションとか
外務省とかで歌ってもらったり司会してもらおうと言う事で色いろ引っ張って貰った 

それがきっかけで国連UNHCR協会の協力委員という凄い肩書を頂きました
「いのち」 曲 聞いてくれれば命の大事さを歌っている 
本を出版「生きてるだけで価値がある」 印税全額を東日本大震災の遺児に使わせていただくのと
国連UNHCR協会に全額を寄付させて貰ってます 
東日本大震災が起きて国連UNHCR協会への寄付金は減るだろうと思っていたが 
今年が最高額だった 
なぜかと言うと私達が本当に大変な思いをして 初めて世界の難民の熱い夏寒い冬 食べ物もない 
本当に身近に感じたんでしょうね 日本人の方が
日本だけではなく世界の難民の人達も我が子と同じように苦しんでいるんだ 
そこで皆さんがぱっと注目して頂いて今までの最高金額が募金として集まったんですね

大阪の130席のライブ 満席 お客様が老若男女 幅広い 日頃うったえている事が年とか性別
に関係なくキャッチしてくれているんじゃないのかな と思ってる
幼年期のDV 子宮頸癌(癌患者) 鬱病 シングルマザー 自分が経験させてもらったこと 
沢山の方が悩み苦しんでいると思う で私ももがき苦しみながら
泣きながら皆さんに助けてもらって 生きているんですが ひとりで孤独に寝たきりになった時に
私はこのまま自分の命が亡くなってしまうんじゃないかと思っていた
でも ボランティアをすることで沢山の方がたに係わっていただいて 自分のこの今ある命は自分だけ
のものではないなって それを語らしてもらう事で
皆さんが 「あーっ 勇気貰ってありがとう 私も松田陽子みたいに幸せになる」 
云ってもらう事で それが私自身がパワーを貰ってますね

鬱病は再発した 鬱病は本当に苦しい 生き地獄ですね でも乗り越えた 考え方を変えた 
 眠れなくなったりだとかいろいろな症状が出てくる
それを悪いことというのを止めた これは命の癖なんです 
人間て色んな癖があるんじゃないですか これは私の癖で悪い事じゃないと 
私はこういう命の癖を持っているお陰で沢山の方の苦しみが判るんですよ 
結局人は喉元過ぎればであって 今健康でそこそこ食えているんで
それは過去の話なんで解りませんて 云っちゃたら心がプツンてその苦しんでいる方々と途絶えて
しまうんです 
今私は薬を飲んでなくて健康ですが やっぱり癖というものがワーッと出てきたりするんです 
でもそれは よし 又新しい曲が出来るぞと この悲しみ、苦しみを
曲にするぞと 言葉でセミナーで語るぞと 同じように苦しんでいる人達と有った時にほんものの
涙を流し 苦しいけど前向いて生きて行こうと言えるって
だから私は宝物とおもっている 

苦しみの前と後ではどっちが多く作曲出来たか?→私は癌の手術あとからバーっと曲が聞こえて
くるようになったんですよ
それまでは作詩はしたことがあるが作曲は無い  
手術の時に命があるのは半々と言われて助かったらこの命は自分だけのため 
家族だけの為に生きるのは
止めますから お願いしますから 誰かの為に 何かの為に 私がやりたかった世界平和の為に
やりますから命を延ばしてくださいと言ったんですよ
曲が聞こえてきた 全然当時その意味が解らなかった そのうち意味が見えてきた 
 
癌の手術をしたのがどん底だと思っていたのが全然どん底じゃなくて 
鬱病になって シングルマザーになって 無職になって ぽろぽろ涙を流しながら私はもう死んだ方が
いいなって 本当のどん底があって そこから
これは歌えってことか 私は仕事はないし、歌しかなかった 
そこから私は自分の人生が少しずつ動いて行ったような気がします
オプション命 追加の命 あの時に終わっていてもおかしくなかったので 私が自分自身で勝ち
取ったというよりも 与えてもらった命で 誰かの為に 何かの為に使う命とおもっている 
人はそれぞれ色んな苦しみや悩みが人生有るじゃないですか 

宿命もきっといろんなものがある だけどそれを乗り越えて その宿命を使命に替えて
自分の悩み苦しみがぱっと人の為にそれを語る事によって一気に使命になるんですよ  
だから私は「子宮頸癌の検診に行ってね 私みたいに子宮のない身体にならないでね」
 「命を失わないでね」 「シングルマザーだって暗くないよ」
「貧乏じゃないよ 明るいよ家は って」  シングルマザーになったお陰で沢山の人に助けてもらって
 鬱病になったお陰で 本当に心の生き地獄を経験させてもらった
お陰で沢山の方に泣きながら手を繋いであーっ人の温もりって こんなに温かいんだなって思わしてもらって 
語る事で勇気を与えさせてもらう 
本当に人生って自分が思った通りにぴっかぴかの人生を生きれるんだなと 
宿命を使命に替えてゆくんだなと本当に思っている
難民支援だけではない 東日本大震災 児童養護施設の子供たち 色んなボランティアを含めて
沢山の方々に係わり合わせてもらって ボランティアをしているというよりも
沢山の友達の輪を拡げて お互いパワーを交換してゆきたいと思ってます