岡田美里(タレント) ・想定外のことを楽しむ
岡田さんは1961年東京都生まれ。 父はタレントで司会者のE・Hエリックさん。 おじさまは俳優の岡田真澄さん、次女は俳優の堺小春さんです。 幼いころからモデルとして活動、1984年聖心女子大学文学部教育学科卒業し、ロサンゼルスのオリンピックのキャスターになって、その後F1のリポーターやキャスターなどで活躍しています。 1989年に結婚、2女の母となり、当時カリスマ主婦として話題になりました。 その後離婚、再婚を経て現在はタレントとして歌番組の司会や、移住した山梨県の果物を使用したジャムを開発してジャム作家としても活躍しています。 今年の3月7年介護した母親を見送りました。
コマーシャルに父と家族とかで出ましたが、一番古いのは3歳ぐらいです。 祖母がデンマーク人で祖父は日本人で画家でした。 パリでデンマークから留学で来ていた祖母と出会い国際結婚をしました。 父はニースで育って、ヨットに興味を持って日本でもヨットの日曜大工のような作業に汗を流していたことを覚えています。 16歳で初めて雑誌のモデルをしました。 大学卒業後、父がロサンゼルスのオリンピックのキャスターのオーディションを受けないかという事で受かって、そこからテレビキャスターになって行きました。 日常会話程度は出来ましたが、通訳などは出来ませんでしたので、猛勉強をして語学を学びました。 F1のリポーターもしましたが、車のことは判らないので、判らない人の代表で出てくださいと言う事でした。 中嶋悟さんが活躍していた時代でした。 鈴鹿も何回も行きましたし、海外にも行きました。
結婚をして2女の母となり、当時カリスマ主婦と言われました。 自分では知りませんでしたが、雑誌を見て知りました。 雑誌の表紙のモデルならばそれほど時間が拘束されないのでやりましたが、表紙以外にも仕事が舞い込み全部受けていました。 幼稚園の子供への対応を考えて、転職するつもりで料理教室を開くことにしました。 募集を掛けたら一日で4年後まで埋まってしまいました。 パンも一緒に教えていました。 モデルをやっている時よりも忙しかったです。 40歳の時に子供が小学校5年生と2年生で、離婚しました。(5年間悩みました。) 世の中の目と違って、変わらずに過ごしていました。 料理教室の人も沢山いましたが、一人も辞めませんでした。 身近な人々がフォローしてくれて有難さと、性同一性障害の人たちがいましたが、そういった人たちが凄く優しかったです。
子育てに関して彼と全部一緒にやってきました。 高校の謝恩会で私が司会をやって周りの要望で彼が歌を歌うという事もありました。 成人式とか折に触れて記念写真はありますし、その部分が濃く残っていればいいのかなあと思います。
母は7年介護しました。 私が15歳の時に母は家を出ていってしまいました。 高校からは私は父子家庭でした。 母親をどうしても引きとらなくてはいけなくなりました。 葛藤がありましたが、凄く嫌でした。 東京の料理教室2つをたたんで、家をたたんで山梨に移住しました。(コロナのちょっと前) 離れている間は多少の付き合いはありましたが。 母はちょっと母性に欠ける人だったように思います。
介護をする中で或る時に、母の魂と私の魂は別々なんだと思いました。 私は私の魂を磨いて、母は母の魂の最後の仕上げを私が手伝ってあげればいいんだと、思うようになりました。 そうしたら急に気持ちが楽になりました。 人間は4つの死に方しかないと思ってるのではないかと医師の友人から言われました。 自殺、事故、病気、他殺でももう一つあって、老衰と言う死に方がある。 人間は老衰で死ぬのが一番幸せなんだから、お母さんが老衰で死ねるように考えてみたらと言われました。 母にも老衰で亡くなるのが一番いいという事を話したら、母もいろいろなことを言わなくなりました。 母も可愛いおばあちゃんになって、「ありがとう、ありがとう。」と言うようになりました。 92歳でした。 肩の荷が降りて、自分の新しい人生が始まったという感じがしました。
14年間お付き合いしていた方と結婚しました。(20代の頃の元彼) 47歳の時でしたが、マネージャーから昔の人で誰かいないのかと言われて、ずっと独身の人を突然思い出しました。 思い切って電話して、会う事になりました。 2年前に結婚しました。 私は事業でアクセサリーブランドを展開していました。 忙しくなってきた時に体調を崩してしまったら、彼が2週間あれば会社を辞めて、私の会社の社長になってフォローするからと言ってくれました。 それから二人でやって行きました。 人が幸せなることが自分の幸せなんだと思うようになりました。 お互いの時間を大事にしています。
二世帯住宅に死んでいて、義理の母が一階に住んでいて、義理の母が凄くいい人で、母の足りなかった部分を補ってもらっているような感じです。 「育てたように子は育つ。」という言葉が有りますが、自分自身にも「生きてたように人は生きる。」みたいな、そんな思いがあります。 人間にはアップダウンがありますが、落差の大きな人と小さな人が居るかもしれませんが、引っ張ると一本の糸になるという事は、子供たちに言ったことがあります。