行天豊雄(旧大蔵省 財務官) ・〔私の人生手帖〕
行天豊雄さんは1931年神奈川県横浜生まれ。(93歳) 旧大蔵省に入省後、1984年に国際金融局長86年には財務官に就任、85年の歴史的なプラザ合意では、取りまとめの重要な役目を果たして、通貨マフィアの一員として活躍しました。 退任後は銀行の合併や国際金融に特化したシンクタンクの著述?などに尽力され、現在も発言し続けています。 ご自身のこれまでの人生と共に、プラザ合意や・・?前のニクソンショックなどの舞台裏を伺うとともに、ますます混迷を深めるこの時代に円の動向にどのように付き合って行ったらいいのか、望ましい方向性などについてもお話を伺います。
色々緊張する場面には出会いましたが、そのことでじっと思い悩んでいるという事ではなかったです。 なるようにしかならないという気持ちはありました。 国際的な話し合いで立場が違うのは多いんですが、そういう経験を何回もくりかえしていると、段々とお互いの人柄、ものの考え方が判って来ます。 どこへ行ってもいい人、悪い人はいるし、そういう事が判って来るとあまりカッカしなくなる。 こっちが人間的な親しみを感じると相手も同じような人間的な親近感、理解を示してくれるようになる。 そうなるとこの辺で手を打つかなとか、相手の立場もあるのだから、10全部とらないで5,6ぐらいで我慢して残りは相手にあげるとか、そういうゆとりは出てくるような感じはします。
日本と言う国は為替相場に対して、関心が強すぎると言うところがあると思います。 いくらがいいかというと、誰もが納得する答えはないんです。 一喜一憂せてもしょうがないというところがあるわけです。 日本は食料とか、エネルギーとか輸入しないと食ってはいけない。 いろんなものを作って輸出しないといけない。 外との関係が非常に日本の経済は大きい。 為替相場が気になるのは仕方ない。
プラザ合意については、アメリカがレーガン大統領の下で、税金は下げます、軍事費を増やします、とやると赤字は増えます。 金融の引き締めをやってドル高になってしまったわけです。 貿易で輸出がしにくくなって貿易赤字が出る。 アメリカの工場で物を作っても売れない。 失業が増える。 それで政治家の人たちが騒ぎ始めて、ドルが高すぎる、円が安すぎるという事を言い始める、 ドルを安くして円を高くしなければいけないという事でプラザ合意が始まって決められた。 円高にしろと言うのが世のなかの統一意見みたいになってしまった。 日本も少しは円高になってもしょうがないという感じはありました。 出来過ぎて一気にドル安円高が進んでしまった。 1ドル260円ぐらいだったが、あっという間に200円を割って、150円割れという事で、日本では円高の行き過ぎではないかという事で、何とかしろという事になる。
通貨マフィア、あらゆる手段を使って話し合いをします。 それぞれの国の状況、世界全体の状況が一体どうなっているのかと言う事の認識を擦り合わせる。 それにはどうしたらいいのか、それぞれの国はどうしたらいいのか、現状の分析、個々の国の政策の立案、実行と言った政策協調をするのが仕事の内容です。 プラスマイナスがるのでいろいろな駆け引きがあるわけです。 国際収支の不均衡を直す責任がどの国にあるのかと言うようなことは答えが無いわけです。 力関係、駆け引きなどがあるわけです。 相手をどこまで知っているかという事も大きいです。 日本では予期していなかった円高が進んでしまいました。
バブル、バブル崩壊、失われた20年、30年という変遷をたどる。 プラザ合意ではプラス50,マイナス50だったと思うが、その後マイナス50をどうやって改善するかという事で日本の取った政策、国内政策は余り高い点数があげられなかったと思います。 今までのような一生懸命物を作って売って、円高ではない方がいいんだという事だけで進んできた。 民の生活についてもっと金、知恵を使って動くべきじゃなかったのかなと思います。 産業構造の転換に至れなかった。 プラザ合意の結果についての対応の仕方が、日本の場合は残念ながら間違っていたのではないかと思います。
横浜で生まれ育ちました。 第二次世界大戦に負けたとに大量の米軍が入ってきました。 外の文化に接する機会が早くかつ強かった。 外国に行ってみたいと言う思いは強くありました。 20歳になって留学しました。 氷川丸(約1万5000トン)に乗って私はアメリカに行きました。(1956年) アメリカの奨学金で全部行きました。 ジャーナリストになりたかった。 就職難の時代だったので試験の早い国家公務員試験があってそれに受かって大蔵省に入りました。 留学の利点は外から自分の国を広い視野から見るという事でした。 当時は国際経験にある人は少なかった。(20数人いる同期で私だけでした。) 日本は大きくなっていったが、日本人はそういった意識がなく、自分の力に沿った責任感が無く、自分のことしか考えていない、そういった食い違いを凄く感じました。 なんとかしなければいけないという感じは何時もありました。 今でも続いています。 日本は仲間内は大事にする。(いいこともあるが)
留学から戻ってから為替の世界をずっと歩いてきました。 1971年にニクソンショックがあり、当時すでにアメリカは国際収支が赤字になり、金が流出してしまい、ドルと金の交換をアメリカ政府は保証していたが、その保証を止めますと決めました。 その影響がどのようになるのかはパッとは判らなかった。 後から考えると歴史的な大事件でした。 その後何年かして変動相場制に変わってゆく。 日本の経済に非常に大きな試練をもたらす事でした。
国際金融の場では、まず国の利益を考えて、何が、どういう形が利益になるかを考えて、それをほかの連中にOKさせるために、どういう論法、説得力を持ったらいいかという事を考えるのが交渉のスタートです。 為替市場の望ましい形は、将来に向かっての予見可能性があるかないか、と言うのが非常に大事です。 後は安定しているかどうか。