土屋伸之(漫才協会常務理事) ・〔私のアート交遊録〕 言葉を磨き、絵に集中
1978年東京都生まれ。 大学の先輩だった塙宜之さんとコンビを結成、幅広い分野で活躍して、現在は漫才協会常務理事も務めています。 子供の頃から絵を描くことが好きだったという土屋さん、高校生の時に競馬博物館へ行き1977年の有馬記念の記録映像トウショウボーイとテンポイントの激闘を見て、スポーツとしての競馬にはまります。 さらにビワハイジと言う黒い牝馬と出会い、気が付くとビワハイジの絵ばかり描いていたと言います。 Eテレで現在放送中の「びじゅチューン」に出演するようになった土屋さんは、これがきっかけとなって美術への関心がさらに高まり、海外の美術館に出掛ける程になって行きます。 お笑いに出会い人と遊ぶ事を覚えた、引きこもりから抜け出せたのは、お笑いのお陰と言う土屋さんに、夢中になる絵の魅力や万歳に掛ける意気込みなどを伺いました。
子供の頃は比較的おとなしい方でした。 消しゴム人形で一人で遊ぶのが好きでした。 閉じこもって独りで遊ぶタイプでした。 40歳過ぎて番組のきっかけでカミングアウトして、ユーチューブとかいろいろやるようになりました。 そのままでは駄目だという反動でお笑いを始めた、もっと人とふれあって楽しい事は外に一杯あるよと教えてくれたのがお笑いでした。 絵を描くのも小学校から好きでした。 漫画の人物をノートに書き移していた子でした。 漫画家になりたいという思いもありました。 褒められると描いちゃいますね。 うちの子供たちも一緒です。 絵は家の家族を繋げる一つかもしれないです。 リアルな絵を見せたら驚いて、いまでは尊敬してくれています。(絵を描く時だけですが。)
高校生の時に競馬博物館へ行き1977年の有馬記念の記録映像トウショウボーイとテンポイントの激闘を見て、こんな面白いスポーツがあるのかと知って、サラブレッドの美しさに心を打たれました。 ビワハイジと言う黒い牝馬と出会い、G1で勝って大きな写真を見て絵を描きたくなりました。 気が付いたら何日もその絵を描いていました。 出来上がった絵は写真みたいで、自分でもこんなに集中力があるんだと気付きました。
雑誌のグラビアに載るゴールの瞬間のシーンを多く描きます。 競馬場へはよく行き、何時間も見ていました。 他の馬も描いています。 最初は鉛筆だけで、白黒の絵を描いていました。 大学生になったころは色鉛筆で描き始めました。 ジョッキーからとか、競馬場からオファーを頂いたりして描きました。 写真を写して描いているので、漠然と仕事にはならないと思っていました。 頼まれてインコを描きましたが、30分ぐらいで駄目でした。(感情が動かない。)
Eテレで現在放送中の「びじゅチューン」に出演するようになりました。 最初見た時には吃驚して家族ではまって、歌なども全部覚えたりして、他の番組で紹介していたりしたら、「びじゅチューン」のスタッフさんから呼んでいただきました。 いまはレギュラーで一緒にやらしていただいています。 本格的なアートに目が向くようになりました。 上野の美術館は近いのでよく行くようになりました。 5年ぐらい前にフランスで世界最高峰のレースの凱旋門賞があり、妻と観に行きました。 美術館も観にいき凄いと思いました。
中学、高校とどんどん引きこもって行きました。 大学に入ってこのままだといけないと、将来が不安になりました。 公認会計士を目指して勉強していましたが、楽しみとして大学のお笑いサークルのライブを見に行くことが唯一の楽しみでした。 公認会計士を諦めて、落研に入部しました。 そこで当時部長をやっていた、1歳上の塙さんと出会いました。 塙さんが4年生の時に、コンビを組まないかと誘われました。 最初は全然受けませんでした。 漫才協会に入るように言われて、厭でしたが入ることになりました。(王道路線とは違っていた。) 舞台に出て喜んでくれるお客さんを見ると快感を覚えます。
描いた絵は50から60ぐらいはあります。 忙しさの合間に描くので1枚描くのに1週間ぐらいかかります。 師匠の内海桂子さんには絵を見せたことがあります。 師匠はインスピレーションでササっと描いてしまうのでそれも凄いと思いました。 「万歳は言葉で絵を描くものだ。」と師匠は言っています。 お客さんに頭の中に絵を浮かび上がらせるという、僕らの仕事はそういう風に思いました。 漫才の神髄はそういうところになるのかなあと思いました。 お薦めの一点としては、「びじゅチューン」のなかの「民衆を温泉に導く自由の女神」言う作品です。