2024年5月27日月曜日

古居みずえ(ドキュメンタリー監督)     ・私がドキュメンタリー映画で伝えたいこと

古居みずえ(ドキュメンタリー監督)     ・私がドキュメンタリー映画で伝えたいこと 

古居さんは島根県1948年生まれ。 会社勤務からフォトジャーナリストの道に進みました。 中でもパレスチナでは30年以上取材を続け、2005年には写真「パレスチナの女たち」でDAYS国際フォトジャーナリズム大賞審査員特別賞を受賞。 映画では2005年に「ガーダ パレスチナの詩」で第6回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞を受賞しました。  2011年には映画『ぼくたちは見た ガザ・サムニ家の子どもたち』を制作しました。 古居さんは去年10月半ばから年末までガザで取材した二つの映画を市民に無料で貸し出しました。 日本各地から自主上映会を開きたいという動きに広がり上映会は100か所以上に広がりました。 ガザを取材して感じた事、平和への思いなど伺いました。

ドキュメンタリー映画の世界に入ったのは40歳の時でした。 会社員でしたが30代の後半に病気(リュウマチ)になり、回復はしましたが、なんでも表現したいと思うようになりました。  写真教室に入って写真をやろうと思いました。(祖父が写真屋をやっていた。)   その後、ビデオカメラについても拾得しました。  パレスチナ子供写真展があり、印象に残り自分でも行ってみたいと思いました。 その1年後に実際に行きました。(1988年) 最初は毎年行っていました。  

写真集「パレスチナの女たち」、最初は子供たちを撮りたいと思っていました。 居候先で女性たちがかいがいしく働いているのが目につき女性を撮ってみたいと思いました。  DAYS国際フォトジャーナリズム大賞審査員特別賞を受賞しました。   人々を撮りたいと段々思って行きました。 途中からビデオを始めました。 パレスチナの人びとの生活そのものを撮りたいと思いました。(写真では難しい。)  ビデオでは回しっぱなしにしたり、それなりに大変なこともあり編集なども大変でした。  

追いかけてみたい女性がいて、結婚、出産をしていきますが、撮影を許してくれました。  撮影の方法がそういったスタイルになって行きました。 対象は女性の方が多いです。   どういう生活をしていて、どういう風に思っているのかという事を日本で発信していきたいと思いました。  パレスチナは紛争がなければ、神聖なところで、三大宗教(キリスト教、ユダヤ教、イスラム教)があり、綺麗なことろがあり、中世と近代が入り混じったような不思議な趣があります。  ガザ地区はちょっと違った感じがあって、情が深い人たちで人間臭くて、人との付き合いが厚い感じがしました。 ストリートチルドレンが居ないんです。 紛争地なので両親が居ない子供が沢山います。 親戚とか兄弟が面倒を見ます。    大家族で少なくとも30人はいます。  

映画の中の女の子も学校で1,2番を争う子でした。 両親が居ないと一緒に住んでいる人たちの思いで、結婚という事も決められます。  ガザ地区でドキュメンタリー映画を2本製作しました。  イスラエルによって封鎖されたりしました。 戦いだけではなく、生活面、暮らし面の女性たちの思いを撮りたかった。 ガーダという女性の存在が大きかった。 ガーダ パレスチナの詩」「ぼくたちは見た:ガザ・サムニ家の子どもたち」  サムニ家は大家族で一か所に100人集められました。(イスラエル侵攻で) その翌日にミサイルが撃ち込まれた、そういった話から始まります。  日本では人間と人間の付き合いが遠くなってきた面があるが、ガザ、パレスチナでは人間の付き合いが深く家族愛があります。  闘いのなかで生きているので極限の状態なんです。  何が大切なのは何かという事がよくわかります。 一番大切な人を失いたくない、それは戦争を止めることだ、と言う事だと思います。  

今、連絡が取れていない人と取れていない人が居ます。 ぼくたちは見た:ガザ・サムニ家の子どもたち」での通訳の人が居ますが、一緒に作ってきた人のような男性ですが、11月に撃たれてしまいました。 その人を通じて子供たちとか連絡を取り合っていたので、今は取れていないです。 ガーダ パレスチナの詩」の方は、ガーダは今カナダ?にいます。 彼女の家も夫の家も全部壊されて、ホームレスになっています。 

パレスチナでは占領が続いて厳しい状況がありましたが、或る程度は生活が出来ていましたが、普通の暮らしが出来ない状況になってきています。  これ以上命が失う事がないような状況になって欲しいと思います。 僕たちはなんでほかの国の人の様に生きられないんだ、普通の生活がしたい、と言うようなことをあちこちで聞きました。  緑はガザでもあります。 1948年以前は農業もやっていました。(イスラエルの建国 パレスチナの人が難民となった。)   

2011年東日本大震災の後に、福島県の飯館村で農家の女性たちを中心に取材しました。 飯館村が計画的避難区域になって全村非難になった時に、彼らの姿がパレスチナの人たちの姿と重なりました。 放射能と紛争地との違いはあるが、故郷を失ったという点では同じだと思います。 2016年にはドキュメンタリー映画『飯舘村の母ちゃんたち、土とともに』、2023年「飯舘村べこやの母ちゃん、それぞれの選択」の2本の映画を製作。 この2本の映画でトロントの国際映画祭大賞で第19回長編ドキュメンタリー映画部門の大賞を受賞。 『飯舘村の母ちゃんたち、土とともに』は福島の伊達市にある伊達東仮設住宅に暮らしている2人の飯館村出身のお母ちゃんたちを撮影する事によってできたものです。  不安を抱えて生きているが、でも悲しんでばかりはいない、笑い飛ばすこともあると一様な映画です。  

40歳前の農家の女性がオランダとかベルギー、ドイツとかに2週間程度行って農業などを学んでくるという先進的なことを飯館村ではやっています。 一番忙しい時に行くので夫は妻の存在を身に染みて判るわけです。 帰ってくると勉強してきたことが、いろいろ生かされるわけです。 飯舘村べこやの母ちゃん、それぞれの選択」では牛と離れ離れになってしまう、駆逐されてしまう。  子供の様に可愛がってきた牛たちと別れなければいけなくなる。 自分が生まれ育ったところとも離れなければいけない。 3人の女性を追いかけました。 女性たちが中に秘めた思いは激しいものがあります。

昨年の10月から年末にかけて、無料でパレスチナの映画を上映しました。 パレスチナのことを知っていただくことが一番大切なことだと思いました。 パレスチナとイスラエルでは長い歴史があるという事を知っていただきたいと思いました。 暴力で自分たちの領土を広げようとか、自分たちの思うように管理しようとか、そういったことは許されない事だと思います。 ハマスも許されない事ではあるが、イスラエルも国際法上許されないことを行っている。 パレスチナとかイスラエルとかではなく、人間として許されない事だと思います。 権力者の方は記録を消そうとする、歴史をなくそうとする。 私は起こってることは残したいと思います。