天野和幸(ばらの都苑研究畑運営)・〔心に花を咲かせて〕 亡き妻の名前でバラ園をつくり25年
妻を亡くしたことをきっかけに、たった一人で900坪のバラ園を作った天野和幸さんへのインタビュー。 バラ園の名前は奥さんの都さんの名前がついていて、他のバラ園とはちょっと趣が違います。 25年経ったいまでは多くの人が訪れています。 沢山あるバラを植えただけではなく、管理も自分一人でしていると言います。 何故バラ園を作ることになったのでしょうか。 だれも手伝ってもらわずにと決めたのは何故なんでしょうか。
浜松駅からすこし離れたところにある「ばらの都苑」、広さはかつてはお茶畑だった三反(900坪)の面積をいっぺんにバラに替えてみました。 1500株以上あります。 蔓バラをなるべくたくさん育て、それで表現したいと思っていました。 お城とか、橋とかいろんな構造物があり、それに蔓バラを這わせています。 沖縄の守礼の門をイメージした入り口で、「慈しみの門」と言う名前です。 名古屋城は恩と言う字をめぐみと読ませて「恩の城」と言う名前にしています。 皇居の二重橋を作ってみたいと思って、最近は独身の人が多いので、出会いの場所に出来ないかという事で「縁(えにし)の橋」と言う名前を付けています。 富士山のような山には「愛」と言う字が出てくるような組み立てをして、手前には「糸」へんと「半」を5m以上離して植えておいて、「絆」が出来上がります。 咲くと文字が出る。 遊びながら深い愛情をもってやっています。
平成元年に何千本と言うお茶を新しく植えて、10年経った時に妻が病気で倒れてしまいました。 お茶では妻に苦労を掛け、お茶は見たくないのでお茶を取ってバラを植えて供養をしようと思いました。 手間がかかってもいいから、愛情を思い切り注げるものを選びました。 島田のバラ園に二人で行ってその2か月後には亡くなってしまいました。 肺の病気でした。 私の兄弟男3人と女1人の結婚していないいる家に嫁いできてくれました。 弟が鉄鋼業をやりそれをもの凄く手伝って、世界のホンダから一次下請けに登録してもらいました。 妻の支えのお陰で120%、150%に仕事が出来ました。 28年間一緒にいて、3か月であっという間に亡くなってしまいました。 亡くなった時には後をついていきたい気持ちになりました。
一生懸命バラと話をすれば、教えてもらえるというのが僕のバラを育てるやり方です。 バラの様子を常に見ながら管理してきました。 365日都さんはここに来ているわけです。 愛情の心をどういう風に表すかという事がバラ園になりました。 絶対成功させて見せるというこだわりはありました。 すべて一人でやって供養だと思いました。 感謝の心です。 「ばらの都苑研究畑」という名称です。 公園と勘違いして犬を連れて入ってきたり、自転車で入ってきたりして、複雑な思いがしました。 そのうちに報道されて来ると、観光的ではないが花川町と言う名前のイメージアップはいまは大きくなってきている。
構造物を作って、10年経って花桃を植えたり、2月に咲く花としてクリスマスローズを植えたりしました。 ユリ、シャクナゲなども植えました。 シャクヤクにも挑戦しようと思っています。 もう少しで84歳になります。 25年間バラのお陰で健康を保ってやってこられました。 コンクールに出すように誘われて、順次出品するようになり、全国大会へも誘われて、出したら即3位に入りました。 10年間で全てを制覇してやろうと思いました。 身体の調子が悪い時には大変ですね。 1年前から放射線を2か月50回連続で治療して、血圧高かったんですが、薬で問題ないという事になりました。 インコとか鳩などの鳥も飼っています。 生活リズムをしっかり守って生活をしています。 妻が貯めてきてくれた資金で賄ってきました。 私にとってバラは女房です。 来年、再来年に繋げていくことが一番大事だと思います。 花桃の苗を種から育てた合計で1730本を4年間で6回、東北の被災地へ届けました。 石川県の被災地とかへも届けたいと苗を育てています。 地域の人たちの心の支えとして、花を植えるのもいいかなあと思います。