太田和彦(居酒屋探訪家) ・【私の人生手帖(てちょう)】
太田さんは50冊は優に超えるという著作、そして全国の名酒、居酒屋を訪ねるTVの番組も長く担当していまして、現在の居酒屋ブームのけん引役のおひとりです。
本業はグラフィックデザイナーです。
大学卒業後1968年に銀座の大手化粧品会社の宣伝制作室に入社、1989年の独立後はグラフィックデザイナーとして活躍される傍ら、居酒屋や名酒について執筆活動を行ってました。。
その味わいや良さを見きわめる際に、今でも会社の新人時代に叩き込まれたある精神に立ち返るといいます。
それを支え続けてきた強靭な意志はどこから生まれ、人生手帳につづられた厳しい時代をどのように乗り越えたのでしょうか。
居酒屋は人生にとってどのような存在なのか、居酒屋さんでの楽しみ方など伺いました。
74歳になりました。
生まれは中国の北京です。
昭和21年3月3日に北京の日本人収容所で生まれました。
その18日後に引き上げ船に乗るために天津に行きました。
この子は持たないだろうといわれて、船のうえで死ぬと水葬なので父は私を包む日章旗を用意したらしい。
長崎の佐世保の南風崎に入港して、日本の土を抱かれて上陸しました。
父は教師をしていました。
教師は転勤がありいろいろなところに行きました。
自意識が芽生える頃(小学校5年から中学1年ごろ)居た、馬籠が一番思い出深いです。
新聞を作るのが好きで、村で見たこと、新聞からの引用で新聞を作って父親に見せて、それを父が読んでくれたりしました。
小学6年で新聞部に入って日刊紙を発行していました。
書くことは気になりませんでした。
絵を描くことも好きでした。
祖父までは松本で4代続いた松本箪笥の金工職人でした。
叔父も画家でした。
ものを作る血筋はあるのかもしれません。
父は外では飲みませんでしたが、家に若い先生を呼んで飲んではいました。
愉快そうにやっていていいものだと思っていました。
大学卒業後銀座の大手化粧品会社の宣伝制作室に入社しました。
そのころ銀座には居酒屋はなかったです、今でも少ないですが。
奥の奥に居酒屋をみつけ、そこで会社の仲間と飲むようになりました。
一番面白いのは、本当はこうだと仕事に真相を知ること、飲んで仕事の話に熱中することがこんなに面白いものだという様なことを知りました。
居酒屋は江戸のころからあり、そもそもの始まりは酒屋で桝で立って飲ませるところから始まり、塩から始まりそのうちに煮物をちょっとつけたりして、それが居酒屋の始まりだと聞きました。
座って飲ませるようになってきて、明治以降は本格的に料理も出すようになりました。
化粧品会社なので、美というもので訴えてゆくためには、大衆の喜ぶものを出したら足元を見られる、大衆の人たちから高めに見えるものものを見せないといけない、それがあこがれという一番いい共感になっていくんだということを叩き込まれて、志が高かったです。
僕に生き方の基本になっているかもしれない。
若い時には身につくものだと思います。
自分を律する基準を持つことは大切ではないかと思います。
バブルのころグルメブームがあったが、一回2万円のフランス料理を食べたということが自慢になっていた。
こっちはお金がないから、反発して本当においしいものは居酒屋にあるんだという、仮のテーゼをたてて、居酒屋研究会を立ち上げて始めたが、それは当たっていた。
高いものは美味しいのが当たりまえで、高いものを使わず、それを自分の手でどれだけ美味しいものが作れるか、これが料理じゃないかと思いました。
職人気質が一番の根本かと思います。
今は一人で飲みに来る客が増えてきました。
女性客も増えてきて、それも楽しいです。
リタイヤされた中高年のご夫婦で来るのも多くなりました。
居酒屋は今はとてもいいですよ。
居酒屋で根本的に変わらないものはなぜかに気付いてきました。
じっくりいる、それは心を満足させるためにいるわけです。
世間を見るのに居酒屋ほどいいものは無い。
人、土地、歴史、文化が居酒屋ほど集約しているところはない。
古く続いている居酒屋に行くと、その街の人柄、歴史、産物すべてがみられる。
一人で飲んでいるわけだから、自分を見つめているということにつきますね。
最終的に自分自身を肯定させる力を持っているのが居酒屋だと思います。
若い時に一人酒は駄目で、議論して、喧嘩して、謝って、そうう言ったことはとっても大事だと思います。
60歳を過ぎたら、自分を見つめて、いろいろあったんだけれど、これでよかったんだと導いてくれるそれが居酒屋の神髄だと思います。
自分が一番悩んで不安だったのは大学生の時ですね。
目指した美大に行けなくて、別の大学に行ったが駄目だということになり、悩んで4年を過ごして、何とか会社に行けたが、18~22,3歳までは本当に苦労しました。
東京という街が自分の勉強の場所でした。
60年代の新宿のアングラ文化は絶頂期でした、最前線のいろんな刺激を受けて自分で勉強していかないと駄目だと思いました。
一人で何でもやってきたということがとても大事です。
馴染みの店がいくつもあるので、行けるようになったら行こうというところがリストにしてあり20軒ぐらいあって、顔を出さないといけない、応援していきたいという使命感はあります。