小林麻美(アーティスト) ・これから人生第二幕
1953年東京生まれ、高校生のころからモデルとして活動を始め、1984年には松任谷由実さんがプロデュースした「雨音はショパンの調べ」が大ヒット、モデル、歌手としての人気を不動のものにしました。
又女優としても活躍し、都会的で洗練された雰囲気の小林さんの姿は数々のコマーシャルやファッション誌を飾っていましたが、1991年元ザ・スパイダースのリーダーで芸能プロダクションの社長だった田邊昭知さんとの結婚を機に芸能界を引退。
2016年の復帰するまでの25年間家庭に専念し、その動静が知られることはありませんでした。
この春半生を振り返る書籍が出版され話題となった小林さんに伺いました。
引退してから180度違う生活ですべてが新鮮ですべてが大変な生活でしたが、考えられない幸せな毎日を送っていました。
一冊の本にまとまり、子どものころに自分はユニークだったと思いました。
どん底もありました。
外見とは違う一面もあり、両方自分だったと思います。
私はちゃきちゃきの江戸っ子で、せっかちです。
当時はすぐそこまで海で大森の駅に降りると潮の匂いがしました。
料亭などもありまして、三味線の音と海の音が入り混じったような感じでした。
母親は美容師で姉が一人いて、父は技術者でした。
タイガースのファンクラブに入っていて、ロック系のバンドが好きでした。
スパーダースとブルーコメッツは年代的にはちょっと上でした。
中学3年の時に映画が好きで土、日には一人で必ず銀座で映画を観ていました。
プロダクションの事務所の方に声を掛けられて、怖くて母に公衆電話をかけて、母に代わってもらってというところからちょっとずつ話をいただいてという感じでした。
芸能活動はできない学校だったので高校に上がってから、女学生の友とかコマーシャルに出てみませんかということから始まりました。
新鮮でうれしかったです。
六本木、原宿、青山などでディスコに結構行っていたりしました。
洋服は好き母に作ってもらったりしていました。
歌手でデビューした時の同期は麻丘めぐみさん、西城秀樹さん、牧村三枝子さんとかです。
当時あまり何にも考えないで過ごしていました。
松任谷由実さんとは何かで知り合い、仲良く遊ぶようになりました。
30歳の時に突然「雨音はショパンの調べ」を歌ってみないかと言われました。
あっという間にレコーディングは終わってしまいました。
大ヒットするとは思っていませんでした。
武道館で歌ったのが最初で最後でした。
沢山の方に聞いていただいて気持ちよかったです。
中学1年の時に武道館へビートルズを観に行きました。
31,2歳ぐらいになると結婚とか女としてどう言う人生を歩むんだろうかと、漠然とした不安と焦りはありました。
田邊昭知さんとの出会いがありましたが、彼は結婚ということは自分の人生の中で考えないという人でしたので、女としての幸せはなんだろうということは考えていたのでそのギャップはありました。
20歳の時に35歳で年齢は15歳年上で師弟関係みたいな感じでした。
仕事の関係で父はあまり家には帰ってきませんでしたので、サザエさんのような家族という感じはありませんでした。
結婚前に赤ちゃんができて極秘出産でした。
母と叔母と彼しか知りませんでした。
一人で育てる覚悟はできていました。
その後結婚することになり感謝をしています。
子どもに取ってはこの形がよかったと思いました。
52歳と37歳だったので、すごい苦労もしたし、新鮮だったし、幸せな時間を子どもにもらったということは二人で感じていることです。
これを選んだ以上は仕事はやめるという、ある種のみそぎみたいな感じでした。
全て子ども中心で25年間表舞台には出ることはありませんでした。
子どもが帰ってきたらいつも「おかえり」と言ってくれるのが私の理想でしたが叶わなかったので、自分としては必ず子供が帰ってきたら「おかえり」と言いたかったので、それができたので幸せでした。
嫌なこともありましたが、振り返るとなんて暖かくて幸せな時間だったんだろうと思います。
25年間があっという間に過ぎてしまいました。
この仕事しかキャリアがないので、この中でトライして今の自分の年齢、体力、今の自分のやり方でやらせていただけたら楽しいと思いました。
自分の持っていたサンローランの服(200着ぐらい)を寄贈させていただき、そこからファッションショーをやっていただいたりして、私にもやってみませんかと言っていただきました。
今66歳ですが、自分でもびっくりしてしまって、これも現実なので、自分ができる事元のキャリアを生かせることで出来たらうれしいと思って第二幕を一歩歩こうかなと思ったので、キャリアを生かして頑張りませんかと言いたいです。
自分しかできないことは絶対あると信じているので、頑張りましょうと言いたいです。