鈴木康友(元プロ野球選手・コーチ) ・【スポーツ明日への伝言】白球を追う喜びを忘れずに
天理高校時代には甲子園で活躍し、プロ野球ではしぶといバッティングと堅実な守備の内野手として15年間プレイした鈴木さん、2017年に血液の難病の骨髄異形成症候群MDSを発症しました。
しかし臍帯血移植とその後の闘病によって高校野球の指導ができるまでに回復しました。
今年の新型コロナウイルスの感染拡大という状況に加え、今またグラウンドに立てる日を
待っています。
予選、甲子園での試合がなくなるということを聞いた時には絶句しました。
(奈良県五條市出身、昭和34年生まれ、天理高校時代には甲子園に4回出場、2年生のころから4番を打って強打の大型内野手として注目を集める。
昭和52年のドラフト5位で巨人に入団、3年目に一軍でデビュー、内野のユーティリティープレイヤーとして活躍、その後西武ライオンズ、中日ドラゴンズ、西武と移ってプロ野球選手としては15年活躍。
1992年に引退後、西武、巨人、オリックス、東北楽天、福岡ソフトバンクでコーチ、茨城ゴールデンゴールズや独立リーグの富山、徳島で監督、コーチを務める。
2017年に体調を崩して闘病を続けて2018年3月8日に臍帯血移植を受けて6月末に退院。
10月には立教新座高校のコーチを務め、去年から野球評論、解説者としても復帰する。)
2017年倦怠感があり、ノックを10本打っても息がはあはあして、おかしいと思いました。
検査をして発覚したのが4月の末で、骨髄異形成症候群MDSということで目の前が真っ白になってしまいました。
血液を補充すれば元気にはなるが、ずーっと続けていかなくては行けなくて、リスクはありましたが、移植することに決めました。
臍帯血移植はあかちゃんがうまれたときにお母さんとつながっているへその緒のなかに造血幹細胞があり、それを点滴で移植してもらいました。
当時2歳の男の子の赤ちゃんのA型の血液だといわれました。
血液型もO型からA型になり、誕生日も二つあることになります。
移植して自分の体に定着するまで3週間ぐらいかかりますが、その間が苦しくて、抗がん剤の副作用と新しく入ってきた白血球が攻撃するので、自分の体の中で戦争が起きるわけです。
食事が余り出来ないで吐いたりして、高熱が10日間ぐらい続いて、こんなところでは絶対死ねないと思っていました。
家族のバックアップがなければ大変で、いろいろ迷惑をかけたなあと思います。
2018年の6月末に退院して10月になり、身体を動かしたいなあと思ってるときに、長男がかつて所属していた立教新座高等学校野球部の非常勤コーチに就任しました。
まだ学生のコーチは初めてなので緊張したり、新鮮な感じがしました。
84kgだったのが今は64kgで20kgやせました。
埼玉でベスト8当たりを目指しましたが、その一歩手前で強豪校に3-2で負けてしまいましたが、感動しました。
小学校3年から野球を始めました。
長嶋さん、王さんの全盛のころでジャイアンツファンでした。
中学でも近畿大会で優勝してトップになりました。
8校ぐらいの高校からお誘いがあり全部見にゆきました。
天理高校の練習を見に行っていたときに、女子マネージャーが時間を計って交代という風にいっていたりして、雰囲気がいいなあと思って天理高校に決めました。
山口投手は智弁学園で山口投手とはライバルでした。
3年の時の夏に決勝で完封負けしてしまい甲子園に行くことはかないませんでした。
ドラフトで巨人に入団することになりましたが、実は神宮を目指そうと思っていました。
12月の末に長嶋さんが来て口説かれました。
プロ野球は15年間過ごしましたが、野球で仕事をするということは大変だと思いました。
ベンチにいることが多かったので、監督、コーチのことがいろいろ勉強になりました。
高校生に対しては、人生においていいことと悪いことは交互にきて、いきなり来ることもあるし、そのことに一喜一憂しないで長い目で見て頑張っていってほしいと思います。