橋本惠司(石巻市立稲井小学校校長) ・子どもの元気で復興を
東日本大震災から間もなく6年、橋本さんは6年前津波に襲われ3階建ての校舎は全壊、児童一人が今も行方不明の石巻市立相川小学校へ校長として赴任しました。
石巻市立相川小学校は7人の児童が亡くなった吉浜小学校とともに校舎は残ったものの児童3人が亡くなった橋浦小学校に同居して一つの教室を3校の同じ学年が使い授業を始めました。
橋本さんは2013年、この3校が統合して新たに誕生した北上小学校の初代校長となり、現在は稲井小学校の校長をしています。
故郷無くして復興はありえない、その故郷を守るのには子供の元気が必要だと言います。
合同庁舎にいて、市内の小学校の状況は判りませんでした。
5日後、自衛隊のボムボートに乗って、住民を避難させて我々も避難したのですが、合同庁舎の5階から学校が見えるところもあって、微かに感じました。
被害の状況については知る事も出来ないような状態でした。
石巻市立相川小学校は屋上まで津波に襲われた学校だったので、新任の校長としてゆくのは不安でした。
最初行ったときに、たまたまイチゴを売っていて先生方の手土産としてそれを持って行きました。
この出会いを大切にしましょうと挨拶して、一期一会という事でこのいちごを買ってきましたと言いました。
職員も疲れた中、笑みがこぼれました。
相川小学校は桜の木も根こそぎ無くなり、白い校舎だけが残されていました。
ある母親が子供が行方不明なってしまって、何か学校の中で使っていたものがあるのではないかとノートとかを入れているのを見て、その母親のような気持ちと寄り添いながら石巻市立相川小学校として何かできないかと、考えていかなければいけないと思いました。
子どもたちは4月2日の学校再開までは避難所で暮らして、3つの学校のうち2校は津波で破壊されてるので唯一残された橋浦小学校に同居して、学校を再開することになりました。
一つの教室に3つの学校の生徒が入って、先生も一緒に3つの学校の先生が担当しました。
相川小学校でも68名のうち20名が4月21日には学校にこられませんでした。
学校に来られない子供に対して、2つの避難所での学習も職員が分担して行いました。
私の家も土台だけ残されて流されてしまいました。
家には母親がひとりでいましたが、チリ地震を経験している母親だったので、薬と財布だけ持って山に逃げてゆきました。
その後3時間半かかって体育館の方に逃げて行き、助かりました。
私は学校まで職員宿舎を借りてそこから通いました。
とにかく学校の教育が出来ればと思っていまして、運動会をやめた方がいいとか、やって子供たちの姿を見た方がいいとか議論がありましたが、あえて運動会を行いました。
練習が始まると、嵐が襲ってきてしまって、道路が寸断されてしまって4日間来られない状態もありましたが、2日前に開通して、1日だけ練習をして当日を迎えました。
大人も子供に負けないように復興に向かって進まなくてはいけない、そういう挨拶も伺い、やってよかったなあと改めて思いました。
運動会を一緒にやる事によって3つの学校の子供たちがひとつになれた気が凄くしました。
以前は3校独自の教育活動をしてきましたが、被害で一つの学校でやらざるを得なくなって独自の教育が出来ない寂しさが、教師、子供も感じていたが、たまたま支援に入ってきてくれた方々が居て、和太鼓を一緒にコラボしてみませんかと言われて、取り組みはじめていました。
それを見た他の2校の子供たちから大きな拍手を貰って、自分たちも認められていると感じて、自信が子供たちからも窺えました。
和太鼓、鼓笛隊を復活しようという事でインターネットでよびかけて楽器を提供してもらうことになって、復活させる事が出来ました。
学習面での自信にも繋がっていったと思います。
相川の地域の方にも見せようと云う事になって、11月に地域を廻りました。
凄く喜んでもらって地域の中に学校があると云う事が、その活動を通して知ることができました。
職員の方も被災したのですが、子供の教育にも向き合わなくてはいけなくて大変さはあったと思います。
3校の統廃合、それぞれ思いはあったと思いますが、相川小学校、吉浜小学校は自分たちの学校が無くなって取り壊しされる状態で建物が無くなってしまったので、辛さはあったと思います
橋浦小学校は学校はあるが学校の名前が無くなってしまうと云うと、やはり複雑な思いはあったと思います。
学校の名前は北上小学校に公募で決まりました。
北上川の恩恵を受けてきた地域であったと思います。
新しい学校らしくしようと云う事で、ドアをペンキで塗り替えたりする作業をしました。
2年目までは間借りをしていた校長、3年目から北上小学校の校長をしました。
どういう学校にしていったらいいか繰り返し議論したが、それぞれの学校の良さを生かしていったらいいなあと云う事で、3つの地域、学校の良さを取り入れた物にしてゆきました。
子供たちも2年間生活を共にしたのがよかった様で、良い形で引き継いでくれたと思います。
子供の成長を見るとその子にとっていい方向で6年間過ごしてくる事が出来たのかなあと思います。
ある面被災したから、被災した学校で生活したから、子供たちが感じられた部分はあったと思うので、辛かったと思うが是非残しておいてほしいと思います。
故郷を愛する子供たちを育てたいと云う取り組みをしてきて、それぞれに地域にこんな良さがあるんだと云う事をもう一回原点に立ち返って成長してゆく子供になって欲しいと思います。
復興にはどうしても故郷は必要だと思います。
子供たちが親の姿なり、地域の復興する姿、自然を見つめていく中で自分の故郷はこういうことなんだなあと、支えてきた人たちはこういう人たちがいるんだなあと云う事を感じてきた6年間だったと思うので、子供の成長にとって大きなものになるのではないかと思います。
谷川俊太郎さんに来ていただいて授業をしていただきました。
あ・い・か・わの言葉を使って
「新しい 命の可能性を私たちは作る」
凄く力強い言葉だと思っています。
「相変わらず、美しい自然を信じよう」
痛めつけられた海のなかで生活していかなければいけないが、認めて行く。
震災は子供たちにとって大きすぎる事だったと思うが、様々な体験をして卒業して行くが、一つ一つが見えない部分はあると思うが、力になっていく部分は凄く大きかったと思います。