梅林厚子(自死遺族の会「アルメリアの会」代表) ・自殺は罪?
21764人、この数字は厚生労働省が出した平成28年度に自から命を絶った人の数です。
自ら命を絶つ行為を自死と云います。
福井県は平成27年度の調査で自殺死亡率が15.4人と全国でもっとも低くなっていますが、自殺率が低いためにかえって周りに相談できない人が多くいると云います。
福井県の梅林厚子さん60歳は20年前夫を自死で亡くしました。
娘二人を育てる一方で自分や周りを責める日々、何故夫は死んだのかを自問自答する毎日を続けたと言います。
やがて梅林さんは誰かにこの話をしたいと思い、遺族の人が語り合う場「アルメリアの会」を設立しました。
会を設立したからこそ気付いた自死との向き合い方について伺いました。
夫、梅林純一郎、当時40歳 ある日理由も告げず、家にも4日間戻って来ませんでした。
警察から電話だと云う事で、警察に来ていただけませんか、と一方的に言ってきました。
最初に「夫は生きていますか」と問い合わせたが、答えてくれませんでした。
警察に行ってすぐ報告を受けたわけではなくて、3時間以上は待たされました。
警察から夫が自死したと言うことを聞いた瞬間、心の中にあるものをどう思ったかなどはまったく覚えてないです。
崩れ落ちるように泣き叫んだ事は覚えています。
水が欲しくて水を飲んで一息したのを覚えています。
お通夜をしたり葬式をしたり、骨となって帰ってきたことなど何が起こったのか判らないまま時間だけが過ぎていって、涙だけは出るが、頭で考えるとか心で感じるとかと云うんではなくとにかく涙が止まらない。
なんで夫が死んだんだろうと云う事が堂々巡りでした。
職場関係、両親、などに夫が亡くなった原因を探すが、周りを責めれば楽なのかなと思っても楽ではなく、自分自身を責めても楽にはならなかった。
誰も攻めない方がかえって楽なのかなあとふっと思った。
平成9年の事で、自殺は世の中のタブーの事のように思っていて、自殺に対する偏見はあったと思います。
遺族と云う立場になって感じた事は、往々にして自殺する人は弱いとか、敗者というふうに取られがちです。
遺族は自分の体験を話したり文書にして社会に発信することで、自殺は弱い人がするわけではなく敗者でもないと云う事がわかっていただけるのではないかと思います。
今から7年前 平成20年に設立した自死遺族の会「アルメリアの会」。
会の中に支援の方が入っていると話ができないと云う意見をいただきました。
遺品の事を尋ねると、経験した方は答えが返ってくるが、支援して下さる方はかたづけてもかたづけなくても関係ないと云うような答えが返ってくる。
支援の方は元気になるようにといろいろアドバイスしてくれますが、はっきりいって私たちはアドバイスはいらないんです。
アドバイスがかえって重荷になってしまう事がある。
私が憔悴しきっているときに娘たちに「おかあさんを頼むね」と言われたらしいが、それを言われるのが嫌で仕方なかったと言っています。
私も大変なのにはっきり言って、お母さんの面倒を見れないと、はっきり私にいいました。
「頑張ってね」、といわれるが、必死に頑張っているのにまだ頑張れと云うのかと思う。
自分で解決するためには自分の前に起こった出来事をまず受け止める、受け止められたら、今度はどう生きて行くかと云う事です。
死にたいと思っている人たちはどこかで必ずサインを出しているが、それは結果論です。
問題が起こっていても彼はいつかは乗り越えるだろうと思っていて、サインだとは判らない。
何でもいいが声をかけて、切れない繋がりが出来ると、自殺の数は減るかもしれないし、私たち遺族もうれしいです。
当事者同士でも体験した事がそれぞれ違うので、理解し合うと云う事は難しいところがあります。
会を作ってぶつかった壁が亡くなった人との関係によってずいぶん違うと思いました。
遺族会を立ち上げて色んな方々が来るようになって、子供さんを亡くされたお母さんがお見えになった時に、子供を身ごもって、生まれて、おっぱい飲ませて四六時中一緒にいて、そんな子供を自死という形で亡くされた思いは、夫を亡くした私には想像できない世界で、私以上にもっと辛いだろうと思いました。
人間って比べたくなる、比べる事が納得させる手段であったりする。
違いを認めると言う事がとっても大きな課題になりました。
穏やかになれる時は想いが一緒になった時にハッピーになるが、考え方がちょっと違うと、角が出来たりする。
大事な人の命を亡くした遺族としては同じだという、その一点だろうと思っています。
「アルメリアの会」を立ち上げた1年後、自死遺族の声を集めた文集を作り、自身も寄稿しています。
「・・・生きている事自体が非常に苦しいことだけれど、いっそ自分も死んでしまいたいと云う程、過酷な時間は子供を残しては死ねないその一念に尽きる、子供が夫の穴を埋めてくれるものでもない、何かがむしばむように深くなってゆくばかりであった。・・・
或る日コンクリートの割れ目から見事に咲き誇っているタンポポの花に目がとまった。・・・
こんなに小さな花がこんなところで生きている。・・・
夫の死と云う事がなかったら、このタンポポの花に目がとまらなかった事だろう。・・・
短くとも大地から凛とした茎をのばし、太陽に向かい黄色い花弁を精一杯広げ、誰にも綺麗といわれる事を望んでいる訳でもなく、堂々と生きている。
そんな一輪のタンポポを見て居ると涙が出て仕方なかった。・・・
時には嗚咽とともに鼻水とともにそんな時間を出発に生きてきた、生かされてきた。・・・
今私は生きている、そしてこれからも生きる、生かされ続けるだろう。
ここまで来れたんだもの、これからも何とかなるだろう。
涙のもつ素晴らしい浄化力を頼りに、一杯泣き一杯笑って亡き夫初めありとあらゆるものに見守られ励まされている事を噛みしめながら、一日一日味わって生きたい。」
3冊の文集がつくられる。
夢のなかでは生きてるじゃないかと、とてもハッピーで目が覚めると、現実を受け止めざるを得ないが、事実を受け止める作業をしていかなくてはいけない。
息子さんを亡くされた父親の文章。
「体も心ももう駄目だ、・・・何時も淋しくて淋しくて、悲しい、いとおしい、どこにいる会いたい どうしても会いたい、なぜかさびしくて涙が止まらない。」
私も泣いてばっかりいて、子供達も声をかけられない状況を作ってしまいました。
大人になったら泣く事が出来なくなってしまうが、「アルメリアの会」はありのままの自分を出せる場所、涙を流してもいいし、怒ってもいいし、沈黙してもいい。
自分の心の中を浄化する、自分の現実を受け留めると云う作業もさせていただいている。
若者に向けての活動、一度しかない命を自分らしく生きてもらいたいと思って中学・高校生にリーフレットを配布をして広報活動をさせてもらいました。
教育現場で命の事をしっかり教えることは大事なことだと思うが、デリケートな部分なので大人たちはオブラートに包んだようにあいまいな形で命を伝えることで、かえって命を大切にしないと云う事になると思う。
「自殺」、「自死」とかこういう言葉をしっかり使って、背景とかきちんと事実を伝えることが大事だと思っています。
自分から死を選ぶことは絶対いけないと、大人が自信を持って言わなければいけないと思う。
人に助けてもらう事は全く恥ずかしい事では無い。
困った時は困ったと言っていいんだとか、助けて欲しい時は助けてと言えばいいんだとか、小さい時から子供たちに伝えて行くということは非常に大事だと思います。
自分で解決できる事は世の中にそんなにないので、一人で抱え込まない。
辛い時間を生きているので楽になりたい、楽になるためには現実から逃避するしかない、そうなると亡くなった人の所に行ってしまいたいと云う事になるが、時間はかかるが現実を認めて、自分が生きて行くと云う事を考えていただければいいと思います。
自分で自分が楽になる解決策を得られるまで考える、それぞれ悲しみを受け止めながら、辛さを止めながら素晴らしい人生を送って欲しいと云うのが想いです。