2017年3月2日木曜日

加藤寛幸(国境なき医師団日本会長)  ・僕が国境を越える理由

加藤寛幸(国境なき医師団日本会長)  ・僕が国境を越える理由
国境なき医師団は1971年にフランスで設立され日本事務局は1992年に開設されました。
世界28カ国に事務局があり活動資金の90%以上を民間からの寄付で賄う非営利団体です。
紛争地域、災害現場、エボラ出血熱など感染症が広がる地域といった過酷な状況下で、医療、人道援助を続けています。
国境なき医師団の活動と自らを駆り立てるものは何かを伺います。

父親が航空関係の仕事をしていたこともあって、パイロットを目指して高校3年生まではその気でいまして、視力に問題があり諦めざるを得ない状況になり、そのあと途方にくれて、大学に入ってからも目標が見つからず過ごしていました。
体調を壊して入院することになり、そこで改めて医学部を目指すきっかけになりました。
理系に決めたが大学を辞めて、医学部を目指して受験勉強を始めました。
島根医科大学を受けて合格し、小児科を目指す事にしました。
小児科の中もいろいろあるのですが、あるときに国境なき医師団の映像を見ることになり、これだと感じました。
やせ細った子供とそれに寄り添っている国境なき医師団の人で、その映像が本当に僕とそういう子供たちをつなぎまして、自分で出来る事があればそれをやらなければならないと、そういう気持ちになりました。

東京の病院に就職して、国境なき医師団に医師として参加するためには4年間の実務経験が必要なのでトレーニングを重ねたが、面接を受けて当時の英語の力では無理だと言われてしまった。
大学病院の先生がオーストラリアに留学するチャンスを下さって飛びつく様な形でオーストラリアに留学を決めました。
そんなに英語がしゃべれないのによく来たなと言われてしまいましたが、生活の中での会話、英会話の学校に通ったりしながら、何とか喋れるようになりました。
戻って来てから、英語も多少自信も付いていたので、合格出来るのではないかと思ったが、医療の範囲をもっと広げる様にということで結果的には不合格だった。
タイの学校に留学して半年間熱帯病の勉強をして帰国したのが2001年でした。
3回目だとは相手もわかっていて、何とか合格することができました。(10年かかりました)

諦めなければいつか夢は叶うと信じていて、長かったような気がするが今思うと必要な時間だったのかもしれません。
2003年スーダンへ 今世紀最大の人道的危機とまで言われたダルフール危機を抱えていたスーダンへの派遣でしたが、ダルフールではなく首都の孤児院でした。
捨てられた赤ちゃんが命を引き取るまでそこで収容されていて、ほとんどは孤児院で命を落としていた。
赤ちゃんをただ看取るような場所だったので、考え方にギャップがあり理解してもらえないところもあって孤立しているような状況でした。
10年準備をして臨んだ活動と言うこともあって張り切り過ぎていたこともあり(休みも返上して仕事をしていた)、ほかのスタッフとの関係についても厳しく当たっていたようで、現地のスタッフから日本に帰るかというようなこともいわれて、子供たちを助けるのには何をすればいいのかを考え直すなかで、現地の人たちとお互いの理解を深めていくことが必要だと思いました。

一緒に子供たちを診ていこうという姿勢を示したことが分岐点だったと思います。
徐々に子供たちが助かっていって現地の人達も少しずつ変わって行きました。
6か月いましたが、短いようで長かったです。
帰国するときは自分では精一杯やったと思います。
次にインドネシア、パキスタンに行きました。
インドネシアはハシカが大流行して子供たちがバタバタ亡くなっている島があり、そこに行って診療すると同時にハシカの予防接種をする活動で2カ月強の活動で、パキスタンは地震への救援活動でカシミール地方での診療を行いました。
日本で必要とされる小児科医でもありたかったので、腰を落ち着けるという思いもありました。(6年間)
その間、国境なき医師団として日本の中で出来ることも探してやっていました。

2011年3月、東日本大震災で参加しました。
外国で活動してきたことを誰かの役に立つのではないかと思っていまして、参加をしてとてもうれしかったです。
宮城県から岩手県の沿岸沿いを北上しながら避難所をまわってニーズを調査、赤十字などのチームも入っていたので、ニーズをしっかり見つけ出してニーズにこたえていこうと活動をしました。
海外での活動が生きたと思います。
2014年南スーダン リーダーとして行って見ると非常に過酷な厳しい現実が待っていました。
マラリヤ、戦闘による負傷者、コレラ、毎日赤ちゃんが生まれ、圧倒されてしまいました。

満足できるような治療のめどすら立たないまま、帰国する事になってしまった。
7歳の女の子が診察室に入ってきて、顔から首にかけて黒く焼けただれている状況で、喘ぐような呼吸をしていた。
3日間炎天下を歩いてやってきた、とのことだった。
こんな現実があるのにもかかわらず、自分自身は日本での仕事と 国境なき医師団での仕事をバランスよくやっていこうとしていたことが恥ずかしく思って、日本で働いていた病院を辞めることにしました。
アルバイトをしながら活動をしていこうと決めました。
将来のことを考えると眠れなくなるようなこともありますが、国境なき医師団のために生きていると思っています。

エボラが大流行したシエラレオネにすぐに飛びつきました。
現地に入るまではかなり怖かったです。
防護服を着てはいるのですが、その時も怖かったです。
体を綺麗にしてほしいということで体を洗うのですが、手袋を二枚付けてやるのですが、高い熱が手袋越しに伝わってきて、その時にストンと恐怖心が無くなって、相手にするのはエボラではなくて眼の前の患者なんだと切りかえることができて、恐怖心を覚えることなくなることができました。
2014年11月に入ったのですが、8,9,10月は関心が高い時期ですが、11月は関心が薄れて来ていて、スタッフが足りない中で、2組の兄弟が来て自分がよくなると兄弟の面倒をみると言い出して、治療センターにとどまって、兄弟の面倒を見ていました。
そんな状況には納得いかない思いがあり、世界にエボラが広がって自分たちに危害が及ぶ事を恐れての活動であって、そんなふうに考えると絶望的な気持ちになったのを今でも覚えています。

日本にも多くの患者がいるのに、なぜ外国に行くのかと言われることもあるが、何とかしたい、何とかしなければいけないと思っていて、現地に待ってくれている人がいるということが、僕を駆り立てている、活動に参加しなければならないと思わせる要因だと思います。
元気になって帰って行く子供たち、両親などの笑顔を見ることが一番の幸せだと思います。
国境なき医師団に参加したいと思ってからもう20年以上経って、あまり世界の状況はいい方向に向かっていないが、自分たちに何ができるのか、精一杯活動して行くのは勿論ですが、日本の皆さんに現地の状況を知っていただきたいという思いは強く持っていて、子供たちに僕が観てきたこと、感じてきたことを伝えて行きたいと思っています。
地図には国境線が引かれているが、現地には引かれていなくて、国境線で支援を分けていたり厳しい状況を作りだしていたりして、そんな中で国境線を越えて、支援を必要としている人達のそばに行ってどう活動していけるか、自分自身への挑戦でもあり、状況を皆さんに伝えていかなければいけないとも考えています。