2017年3月22日水曜日

徳永 進(野の花診療所医師)     ・柔らかに死を見つめる

徳永 進(野の花診療所医師)・柔らかに死を見つめる
*NHKの平成29年度予算と事業計画についての放送のため、中途からの放送となる。(話の流れが判らず、まとめがいまいちか)
人間の命は根本的に光を求めるし、最終的には地に落つ、と云う事の両方持っているのが種だなあと、そうやって廻っているうちに、一つの花をつけて新しい種になって、そんなものかも知れないなあと。
ホスピスケアになると亡くなることを、受け入れることを、大事に云うみたいですが、生きたいと云われたときに光りの方に自分が向かって生きた、それがすごくいいんですよ。

家族は患者さんの死が近づいてきたときに、お父ちゃんだとすると、「お父ちゃん死んだらいけん」と、死を受容しないように思えるが人間の声として新鮮であれもいいんです。
自分では動かせない節理の前に、人間である私たちが口にする言葉は自由なんです。
その言葉さえ私たちは受容しなさいとか共感しなさいとか云い過ぎて、真実性を描いた、現実を見据えなかったと云うか、型を持って来たと云う気がします。
もっと言葉を自由に、相反する言葉を死を前にして出せるのではないかと云う気がします。

不思議な生命力が隠されていて、どんなに老衰したおばあちゃんでも、点滴量が少なくなるので、その日が近いといっても意外と少ない量で生命が続く場合があるとか逆とか、いろいろあるので、判らないと云うのがあります。
死と云うのが何時かと云うのが多くの家族から言われるが、結論はそればっかりは判らない。
判らないと云う言葉は意外と大事です。
判らないから最後まで点滴注射するか、酸素マスクして会話できなくするか、判らないけど会話するか、その辺の見極めが大事だと思いますが。
死は来たなと云う感じはします。
若い人で46歳、腹水がたまったりして末期を迎えて、その人の場合は飲むのも食べるのも禁止になっていますが、のどをこっくんとするのはおいしいんですね。
今まで飲んでいた好きなジュースだとかを飲まれていたが、鼻から管を入れて胃へ入れてそれを出す、1日に1500cc出るんですが、それがお腹から出ると楽になって又お茶とかコーヒーが飲める様になります。
苦痛みたいですが、コックンと飲めるとうれしいと云って、それをやっていた人で、味噌汁を飲みたいと云って、味噌汁を作って、うまい味噌汁で彼も汁を飲んで、うれしい光景です。

なんかしたいと云う事の殆どはありふれた日常の一こまで、死をテーマにしていない時は
おいしいとかうれしいとか云っているんですが、そんなに大事には思わなかったが、ああ云う事が宝になって光るんですね。
どうせ死ぬんだったら味噌汁一口飲みたいと、死と対等の価値になるんですね。
足を拭いて欲しい、背中も拭いて欲しいとかもそうですが、死と対等の価値を持つんですね。

病院にいるとスタッフはパターンが病院パターンになって味噌汁を飲むとか、仕事をしていた店に戻るとか、息子に今後の人生にアドバイスするとかと云うチャンスを失いやすくて、治療を優先して死をなるべく長く伸ばそうとして、無残な形になることがあるかもしれないが、本人が選べば意外と自由な形は取りうる。
前は余りにもそれが無くて家族を放り出してマッサージして、呼ばれて入ったら亡くなっていてお別れですと云われて、そういうのが多すぎてそれを止めようと云って、ホスピスなどを作ったわけです。
いろんなものが整い過ぎた社会は、良くなった部分があるが、それが過ぎるといろんなものを失います。
ある程度整わないことが面白くて、これからの社会は整わない物をちょっと求めてと云うか、それをどうやって取り戻してゆくかですね。

確立化する傾向にある社会のなかで、死はまだバラエティーに富んでいる。
急死、救急車で運ばれて治療を受けて回復するとか、老いて老いてようやく死が来たり、死のバラエティーが今もあって確立化がしにくい。
がんの末期のホスピスケアで、確立化されているかと云うと一人一人異なっていて、一つの網に死を閉じ込める事は出来ない。
思い通りに行かないものが一人一人の中にあり、身体の事情、心の事情、経済の事情、今までの人生の形だったりいろんな要素があり同じものがない。
出来事がいろいろ起きて出来事をおたがいに工夫する、工夫すると云うことが大事です、
決めつけない。

死を迎えるにはどれでもいいが、最後に生命体が終わるが、俺はいやだと避け切った人はいなくて、死ぬことを受け入れて行く。
そしてみごとに死を遂げる。
無抵抗と云うか、身をなにかに任せた姿、無抵抗の姿を誰もが持っていて、凄いなあと思います。
死には啓意を持っています。
どの死がいいと云うことはないです。
色んな事を後悔するが、言葉を掛ける、返ってきた言葉も嬉しいし、背中をさすってあげたことなど、そういうことは心に残ります。
自分の心が不安や悔いの中にあるのか、心の和解と云うか、ほんわかとしたものが残るのか殺伐としたものが残るのか、出来たら死を前にしたときにほんわかとしたものを思いたい。

皮膚が触れ合うことがあった、それも一つの和解にも成りうる。
言葉を交わしあえたことも嬉しい。
94歳のおばあさん、息子を呼んでほしいと云う事で、息子さんに遺言の話をしたんですかと云ったら、「死ぬ前にお前と握手したかった」と云ったそうです。
わだかまりはもちやすいが解けて行くのは、言葉か、肌の触れ合いなどなんかがあった方がいい。
そこでつながるものがあったらいいなと思います。
命が素晴らしいのは死があるからで、死がない命は気持ちが悪い、命が命である唯一の根拠は死があると云うことです。
死は宝物で生きて居ることを照らし返してくれているのは死で、死をさげすんだり、嫌ったりするものではない。

そばにいて欲しいと云う気持ちはあるので、時間を割いてあげることは良いと思います。
近づきすぎると迷惑だなあと察知したら、ちょっと距離を置くと云うことも大事です。
遠くで思うことも大事だし、口に物を運んだり排泄の世話も大事ですが、誰にでもして欲しいと云う事でもないので、考えてどこまで人に近づくかは考えないといけないと思う。
専門職の人に任せることが多くなったので、自分たちの出来ることをしてあげると味わい深いものがあるので、接触すると云う事は嬉しい。
命はどこかに生きて行くのではないか、根拠のない当てずっぽうの云い方だが、野のスミレ、雲、星、魚などなんかで生きて行くんじゃないと否定できないことなので、共に又あると思えた時はほっとします。

父が亡くなる前にこう言ったんです、「今日は死なんけど誰ぞそばにいてくれ」と云って、翌日の夜に亡くなって、大学の先生で豪放に生きた父でしたが、「そば」と云う言葉がキーワードだったんですね。
言葉が支えになっているが確かかもしれませんね。