2017年3月23日木曜日

林 駒夫(人間国宝・桐塑人形作家)  ・人形に込める古都の美

林 駒夫(人間国宝・桐塑人形作家) ・人形に込める古都の美
林さんが作る桐塑人形は芯となる木彫り人形に桐のおがくずと糊を練った桐塑と云うものを肉付けして作るもので、華麗でふくよかな柔らかな表情を見せて居ます。
林さんは江戸時代から続く料亭の8人兄弟の末っ子、子供のころから古典文学、狂言、文楽、能、歌舞伎など様々物を見て、幅広く伝統芸能に興味を持ってきました。
京都の高校を卒業後、京人形師、十三世面庄・岡本庄三に人形の製作方法を、能面師の北沢如意にも学びました。
昭和48年代20回日本伝統工芸展で日本工芸会総裁賞を受賞、そして平成14年66歳の時に重要無形文化財桐塑人形保持者に認定されました。

基本的には仕事は起きてから始めて、寝るまでやっています。
やりだしたら何時間でも出来ます、飽きません。
壊してもう一度納得するところから又始めたりして、時間はいくらあっても足りません。
平成14年66歳の時に重要無形文化財桐塑人形保持者に認定され、それから14年になります。
若い時の方が対応できるけれども、老い期には老い期の花の美しさがある。
何時も最高のコンディションで歳を重ねることはできないけれども、若いころに見えない事があると信じて日々過ごしています。

桐塑人形
粘土状の物を木にあらかた彫ったものにつけていって形を整える。
桐の木のおがくずを精製して糊で練って、それをモデリングしてゆく。
基本的にはつけるが、つけたものを削る方がシャープな力が出てきます。
江戸時代から続いている処方。
そこに紙を張ったり、布を張ったりしますが、その間に胡粉(ごふん)(蛤の殻、牡蠣の殻などを精製したもの)を塗る作業があります。
にかわをといで合わす。
人形一体作るのには3カ月はかかります。
何を作るかが大変で、2年、3年、10年もかかる時があります。
能の老女が月の光のなかで佇んでいる物を作りたいと思ったのが、40年前で作り上げたのは3、4年前です。
頭の中で浮遊していて段々形になり、自分に近づいたときに作品の基にする、そういうイメージです。

デッサンはしない、頭の中で立体的に動きます。
次にどう進むかは作品が言ってくれます。
原形ができる頃に次に行っていいよと云ってくれます。
時間がないから次に行こうとこっちが思って進めると、必ず後で失敗します。
美しい形はお能、能の構えの形が基本になってます。
10代の終わりごろから能楽堂で一日中スケッチしていました。
立ち姿で一番美しいのは、静止して形のなかで僅かな所作で深い意味が出ると云う能の動きにあこがれていたので、段々そういう方向に偏っていったのではないかと思います。

稲荷大社の奉納で中学生の頃初めて能を見て、不思議なおもしろいものだと思い虜になりました。
観世流の凄い役者さんだった。
日本舞踊、歌舞伎もそうですが、美しい形で決まる時は演じている人間は無理な姿勢になっていて、でも美しい形を出す。
それを形にしたいと思いました。
構えて強い形で見えない月の光とか、花が散っているとか、雪が積もっているとか、そういうことを、見えない世界を抽象的な形で作り上げられたらいいなと思っていたことは確かです。

江戸時代から続く料亭の8人兄弟の末っ子でした。
御所と京都府庁との間に家などがあり、戦争の時に国の命令で、取り壊して強制疎開となり、蔵があろうが何処かへ行ってくださいということで商売が続けられなくなりました。
料理、部屋、床の間などの季節感を表すが、人形も季節感を表わす、そういった環境の中にいました。
季節感の変化が子供心に面白かった。
本は当時高価なものだったが、蔵の中の古い本などを一杯読んでいました。
その本の中の物を頭に描いたりしていました。
京都の町中なので、ごっちゃな歴史の中で暮らしていました。
最初は市村羽左衛門_(15代目)、2月堂で見ました。
その時の精一杯の美しさの世界を見ることが出来て、そして私の場合は年中お祭りでした。
高校で能楽部を作ろうと云うことになり、ハマりました。

高校卒業後、就職をしないでいまして、母方が京都で友禅の家だったので手伝ってほしいと云う事で、(挿し友禅)そこで仕事をするようになりました。
自分でイメージして色を塗る作業をしていましたが、後から考えると結果的にいい仕事をしていたと思いました。
仕事をしていて楽しかったです、文様、色、着物に対する知識が蓄えられました。
頭の中にある形を家に帰って夜中に人形を作っていました。
着物のブームが下火になってきて、人形の方に吸い込まれるような感じで、自然の流れで人形製作のほうに入って行きました。
能面を描くことが好きで描いていましたが、北沢如意先生が教えてくれるところがあるので行かないかと人形の同門の人から言われて、行ったらのめり込んでいきました。

能面師になったらとも言われた。
さまざまな演技に耐えられる顔、それが物凄く勉強になりました。
いろいろやって回り道をしているような感じだったが、一つの道に行く事の一つ一つだったと思う。
必要なもの全部がコツコツ頭の中に積み立てていったような気がします。
昭和39年代11回日本伝統工芸展に初出品、初入選だった。
改めて出品しだして、3回目に昭和48年代20回日本伝統工芸展で日本工芸会総裁賞を受賞。
平成14年、66歳の時に重要無形文化財桐塑人形保持者に認定。
認めていただいたことが嬉しかった。
京友禅の森口華弘先生が、「あんたなあ指定をうけたということは喜ぶ事と違う、あんたの持っている考えて居ることを次の時代へつなぎなさい、それは本当に難しい大変な事を預けられのだし、嬉しいとか有り難いとかいうてる場合ではない」といわれました。
すべてが今よりも、もっともっといいものであってほしいし、もっともっと形ではなく精神的に高いもの、写実ではなくて抽象的なもので何かが正確に相手に伝わるものがいいと思います。