2017年3月20日月曜日

河合雪之丞(俳優)         ・新しい名前で舞台に臨む

河合雪之丞(俳優)  ・新しい名前で舞台に臨む
1970年東京生まれ、1988年に国立劇場歌舞伎俳優研修を終了後、3代目市川猿之助さん(現在の市川猿翁さん)に入門し、2代目市川春猿を襲名します。
スーパー歌舞伎「ヤマトタケル」の弟橘媛などの人気女形として活躍しました。
ところが今年一月歌舞伎の世界を離れ劇団新派に入団し、河合雪之丞と改名しました。
新たな出発をした河合雪之丞さんに伺いました。

市川春猿を30年やってきたので、名前を呼ばれてもぱっと振り向けない様な感じです。
雪之丞と云う名前は、師匠の市川猿翁が市川團子から猿之助になる前に名乗ろうとしていた名前でした。
師匠からこの名前をあげますと、師匠から言われて頂きました。
河合武雄さんがいましたが、その方の名字を頂戴しました。
「華岡青洲の妻」の妻「加恵」の役を受ける。
大変でしたがやり甲斐のある役でした。
紀州弁で大変でした。(現代の和歌山弁とはまた違う昔の言葉で大変でした)
20代なかばから50代まで演じなくてはいけなくて、表現するのに苦労しました。
新しい麻酔薬を研究した華岡青洲の麻酔のために目が見えなくなってしまうと云う役。
目が見えない中の生活感みたいなものも出さなければいけないので難しい。

喜多村緑郎さん、大先輩の女優水谷八重子さん波乃久里子さんが居てくれていろいろ教えてもらったので心強かったです。
新派に移籍していただく時も八重子さんも久里子さんにも、ほんとうに心から迎えていただきましてありがたかったです。
2月が一転して喜劇「江戸みやげ狐狸狐狸話」を行います。
加恵」役とはまったく違った役をやらせていただいて、笑っていただける芝居も大好きです。

3歳のころかTVの舞台中継があると、その前に座って動かない子だったらしいです。
何か琴線に触れる何かがあったのではないかと思います。
歌舞伎に興味を持って5歳のときに初めて、歌舞伎座に連れて行ってもらいました。
小学校のころに親戚のかたが踊りのお師匠をやっていたので踊りもちょっと習いました。
理数系は苦手でした。
師匠の三代目猿之助の芝居が好きで見て居たのですが、見るよりもやる側になりたいと思ったのが中学2年の時でした。
中学卒業後、国立劇場の歌舞伎俳優の9期生の募集時期だったので受けようと思ったが、
親から反対されて、高校に行く事にして都立高校に受かったが1カ月で退学して研修養成所を受けて、2年間研修をしました。
日本舞踊も2流派、鳴り物、お琴、立ち回りの稽古、お茶、お化粧の授業、体操、発音発生の授業もあり、豊富な授業内容でした。
10人で受けて居ました。

三代目市川猿之助のところに入りたいと思っていたので、入門しました。
名前は「春猿」でいいねと言われて、それを受けました。
師匠は言葉少ない方で、日常会話はほとんどしませんでした。
見て覚えろと云う事と、愛情のある方で人間的にも大きな方でした。
師匠は古典歌舞伎とスーパー歌舞伎は両輪のように歌舞伎を支えていくんだよとおっしゃっていました。
軽井沢に師匠の別荘があり、100畳の稽古場があり、そこで1カ月間合宿をします。
一緒に寝泊まりして、一門は家族的な感じでした。
背も小さかったし細かったので女形が向いていると廻りからも言われたし、女形を選ぶ事になりました。
故人のリサイタルに「明治一代女」をやったのをきっかけに、やりませんかと言われて新派の作品をやらせていただき、何年か新派もやらせていただき、徐々に新派の魅力を掘り下げたいと思っていました。

二足のわらじをはくのも難しいので決断をして移籍する事に決めました。
師匠に言いに行ったらあんた合っているよと言われました。
「雪之丞」と言う名前をあげるからと云って背中を押してもらいました。
女優さんと一緒に女形をやる事は違和感はないです。
歌舞伎の女形と新派の女形は演ずる事では変わらないと思います。
お客様の目線に立って、芝居を作って演じて行くことは大事な事だと思っていてこれからどんどんやっていかなければいけないと思います。
八重子さんとの男役もやりましたので、立ち役をやる機会もあると思います。
「黒蜥蜴」を6月にやる予定になっています。(江戸川乱歩先生の代表作)
脚本を新しく書き下ろします。
ビジュアル的にもお客さんがあっと驚くものに仕上がる気がしていて、試行錯誤していろいろ考えています。