2017年3月14日火曜日

駒井 修(「語りつぐ会・いわて」副会長)・軍事ハガキに託した父の思い

駒井 修(「戦中戦後を語りつぐ会・いわて」副会長)・軍事ハガキに託した父の思い
駒井さんは1937年生まれ 79歳、幼いころは父の勤務地の大阪ですごしましたが、戦争が激しくなり昭和19年ごろ母親の出身地盛岡に疎開しました。
父親の光男さんは二度目の出征で南方派遣され タイのカンチャナブリの連合軍捕虜所の副所長になりました。
オウちゃん元気ですか、など片仮名の字が読めるように成長した修さんにあてた父、光男さんからの軍事はがきからは戦場にいてもいつも子を思う父の姿が見えてきます。
終戦後、海外から兵士が次々に帰国する中、待ちわびる駒井家に知らされたのは戦犯となり処刑の知らせでした。
死刑の執行は昭和21年3月14日でした。
修さんは意味も判らず名誉の戦死かと母に聞き、叱られて、号泣する母の姿は今も目に焼き付いています。
二度と戦争はしないで欲しい、戦後72年戦争体験を語る事がすくなくなる中で、自分が体験した辛い活動に取り組んでいます。

「戦中戦後を語りつぐ会」が10年になり、今年80歳になります。
結婚して子供もが出来父親になって、父親の気持ちがだんだんわかってきました。
母親に名誉の戦死かと聞いたのに、黙って聞いていた。
日本軍の捕虜になったスパイ行為ラジオ事件があって、それを摘発して自白をさせるために厳しい取り調べをして、イギリス人の2人が亡くなり。6人が重傷、その責任を認めたと云う事で死刑判決になった。
十分な調査もせずに日本人戦犯を絞首台に送るのは考えもので、最大の注意を喚起すると云う、マレーの新聞があった。
事実を伝えたいと云うのが私の気持ちです。
最初の頃のはがき、子供あての葉書 昭和17年10月24日 釜山から
みんな元気ですか・・・(運動会の事などをがんばりなさいとか、良い子になってくださいと云う文面)

後半になると場所も日付けも判らなくなってくる。
姉の書いた絵を褒めたり、タイの事なども書いている。
私は身体が弱かったので最後には必ず身体を気をつけるようにとの文面がある。
私へはすべてカタカナで書いてありました。
幼稚園に行くときには注意していくようにとか、元気で過ごして欲しい、私の夢を見たとかと云うよう事などの内容、昭和18年ごろのはがき。
母親から手紙を書くように言われて、この手紙さえなくなればと思って、手紙を焼いてしまった事がありました。(子供の頃で何も分からなくて)
手紙は毎週のように来ていました。
兄と姉が亡くなっているもので、父親は私の体が弱いのが心配でその事をよく書いてきました。

戦争が厳しい状況になって、内地だけは美しく穏やかであれと祈る心中である。
心も体も強くしておくように。
今年は憎い敵機がほうぼうに来るのでお花見もないでしょう、勝つまではみんなで働いて一生懸命頑張りましょう。・・・と云うような内容のはがきが来ていました。
軍の機密事項に関わってきていて、居場所が書いていないものになって行く、昭和20年3月27日最後の葉書。
「1月にもらったはがきでみんなが元気でやっている様子がしのばれてうれしい、僕は元気で働いている、こちらは心構えができて居るので何が来ても安心である。・・・子供らにもよくこの事を教えて強い子供とするように、・・・子供にも修にも僕の顔を忘れるなと云ってくれ、・・・くれぐれも体を大切に。」
母は48歳で亡くなりました。(私が高校生の時)

私のような体験は数おおくあるとおもうが、忘れないうちにいやな事も話した方がいいと思って、それを伝えておかないといけないと思いました。
裁判記録なども取り寄せました。
元英軍将校の故エリック・ロマックスさんにたどり着けたのが永瀬さんのおかげで、話してくれるようになりました。
映画「戦場にかける橋」の舞台となったカンチャナブリの捕虜収容所の父は副所長をしていました。
そこで通訳をしていたのが永瀬隆さんで、永瀬さんを主人公にした映画が出来ました。
エリック・ロマックスさんに謝罪したいと思いました。
私の様な人はイギリスにもいるなと思いました。
エリック・ロマックスさんは2012年12月に亡くなられましたが、その前に逢う事が出来ました。

父に代わって心から謝罪したいと云う事について理解できず、5年かかってやっと会う事が出来たが、それを押したのは奥さんだった。
戦争で戦後トラウマとなり50年ぐらい苦しんでいたようだ。
別れる時に「いくら振り返っても過去は変わらない、嘆き悲しむのは辞めて未来のために今をしっかりと生きていきましょう、それがあなたのすべきことだ」とロマックスさんから貰ったカードに書いてあり、いつも心の中に入れている。
戦争と云うものは勝っても負けてもみじめなものだと、判ってくれる人があるのではないかと思っています。
最初に逢う時には何も言えなくて、垣根越しにロマックスさんに向かって一歩一歩歩いていきましたらロマックスさんが手を出してくれました。
謝罪の言葉を言おうと思ったが、言葉が出なかった。
ロマックスさんから東日本大震災の後に大丈夫か、原発は大丈夫かとの電話がありました。
ロマックスさんに対し、不戦の誓い、恒久平和を願ってというのが私が送ったコメントの締めくくりです。
父に導かれてああいうところまで行ったんだなあと思いました。

遺族会があって、岩手県で当時戦犯関係の12人がいて、一般の戦死者の遺族と分けられました。
それから見かえすみんなの顔が違ってきました。
謝罪する事によってもやもやとしたものが無くなり、戦争と云う物をしないようにしないとだめだと思い、話したい叫びたいと思ってます。