*まだ左手の親指先、人指し指先に常時痺れがあり、朝には掌にむくみがあり、揉んでいるうちにむくみが取れるような状況ですが、1~2週に一話程度選択して(無理しない程度で)ぼつぼつ再開しようと思います。
いつ完治するか判りませんが、例え完治しても以前の様に毎日とはいかないと思いますので、御了解下さい。
秋田
竹村牧男(東洋大学学長) 仏教は心の世界遺産
1948年生まれ 66歳 40年以上に渡って仏教の研究を続け、日本を代表する仏教学者のおひとりです。
高校時代から日本の文化の背景に在る仏教に意味を持った竹村さんは、東京大学文学部インド哲学科に進学、学生時代は座禅修行に打ち込みました。
その後文化庁の専門委員、筑波大学教授を経て、現在は東洋大学の学長を務めています。
子供時代は凄く貧しい家でした。
4つの時に父が亡くなり、母が働いて私たち4人の子供を育ててくれました。
仏教に興味を持ったのは、高校の国語の試験で唐木 順三の文章が出た時でした。
凄く美文調で非常に心に残る文章だった。
それから唐木 順三の本を読んで、道元、一遍とか、また様々な思想を学んだ。
岡潔の書物を読んで、すごく感激した。
心の問題とか、日本的な伝統の事、仏教の事を非常に熱く語っていて、心に響いた。
岡潔は道元とか、弁栄上人(浄土宗 光明主義を唱える)の念仏を実践された方です。
念仏を唱えて精神統一されて、そして数学の困難な問題を解かれたと言っても過言ではない。
仏教を勉強したいと思って、と言うことで東京大学の文学部に入って、インド哲学科入った。
駒場で坐禅のサークルに直ぐに入った。
毎月13日に中川 宋淵老師が来られて法話を聞いたり坐禅をしたりした。
秋月 龍珉先生が禅の私塾を開いていることを知って、神楽坂に通う様になった。
これが基盤に成っていると思う。
秋月 龍珉は日本の禅を世界に伝えた鈴木大拙に教えを受けられた方。
坐禅 調身調息調心 身体を整え、呼吸を整え、心を整える。
心を整える時には、緩やかに整えた呼吸を心の眼で見つめる。
心を集中してゆく、統一してゆく、そして三昧に入る。(精神統一された状況)
数息観→静かに自分の息を勘定する修養の方法
大学を出て出版社に務めたが、或る先生から手紙が来て、戻ってこないかと言われて、大学に戻って研究する事になる。
博物館、美術館で仏像展をすると、凄く賑わう。
意識しなくても、仏教の世界観、宇宙観とか、そういうものを呼吸しているのではないかと思う。
文化の中にそういったものが浸透して行って、知らず知らずのうちにそういうものの見方、考え方になじんでる。
大きく 大乗仏教(密教も入る)、小乗仏教(東南アジア等に広がっている)に分けられる。
日本の仏教は大乗仏教ですが、修行方法でかなり多様に分かれている。
念仏、題目を唱える、坐禅など 行、ないしは信仰の信 内容によってかなり宗派的に別れている。
インドから段々に伝わってきて発展するが、発展した最後の形態が伝わっているので、非常に高度な仏教が日本には残されていると同時に、末法思想があるが、お釈迦様の時代から離れるほど人間の能力の衰え、社会も濁ってくる。
修行方法が用意されているが、修行もなかなか出来ない、その修行ができないものがいかに救われるのかというのが日本の仏教の課題になっている。
深いが簡単な形で救われる道がいくつも用意されている。
日本仏教の独特な特徴だと思います。
唯識 世界は心が表しだしただけだという、考え方の思想があるが、実はこれが大乗仏教の共通の世界観になっている。
唯識の思想は非常に精緻な論理的な体系で語られている。
如来像思想 皆本来仏であるが、無明、煩悩に覆われていてそれを自覚出来ない。
発展した高度な教理を受け継いでると言うところに、奥深いものがある。
唯識 世界は自分の心が表しだしただけだという、外界にそのものとしての本体、あるものがあるわけではないという考え方。
例えば机、見える姿形として無いわけではない。 机、本体はあるか、ばらせば机ではない、燃やせば無くなるわけで、机と言う本体がある訳ではない。
言葉を使う事で無意識のうちに言葉に見合う、なんかそういうものがあると、永遠不変なものがあると、つい思ってしまう。
日常的にはそう思い込み、執着し、苦しんでいると言う様な事がある。
自分と言う存在もそう、自分と言う本体があると思いこんでいるが、本当にあるのかという問題になる。
かけがえのない主体が発揮されているが、常住(永遠不変なこと)なる自我があるとは言えない。
般若心経で 「色即是空 空即是色」
本体は持たないけれども、現象としてあるという意味合い。
空であるがゆえに色として成りたっている。 色は物質的な現象の事を意味する。
「受想行識 亦腹如是」
唯識は、我々があると思っているものが実は映像にすぎない、心が表しだしたものにすぎない。
心を、我々が自覚していない心の世界がある。
五感の感覚、意識、判断、未来のことを思ったり、過去の事を思ったりする、意識のさらに奥に末那識があり、更に奥に阿頼耶識がある。
末那識は常に自我に執着している。 寝ている時のも末那識が働いている。
夢は第六識の世界。
阿頼耶識は過去一切の経験を貯蔵している世界だと言われる。(無意識の世界)
生じては滅し、生じては滅しながら相続されている。その上に生死輪廻が行われている。
六道輪廻 地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上
生死輪廻は阿頼耶識の上に、それまでおこなった行為の情報が蓄えられて、その行為の善なる性質、悪なる性質によって、次の世にどこに生まれるかが決まってくるという。
阿頼耶識の中に世界に生きる個体、人間界なら人間界と言う世界と、人間としての個体が、阿頼耶識の中に又一定期間現れる。
寿命がくるとそれが消えるが、阿頼耶識は相続する。
また次の世の世界と生き物になる。
人間の存在は八識から成り立っている。(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識)
八識の中に人間としての世界も人間としての身体もある。
瑜伽行(ゆがぎょう)派と言う学派に於いて形成された。
自我に執着してとらわれ、物に執着してとらわれ、苦しみが生じている。
それを如何に越えて、しかも本来の命を如何に発揮するか、其れを導くために世界はこうなっているんですよ、だから執着している、いわれのないことでしょう、意味のないことでしょう、そこから解放されてくださいと、そういう意味で造られている。
自分とは一体何なのか、昔の人もそれを一生懸命追求してきた。
今の人の方が外のものばかり眼が奪われて、外のものばかり追いかけて、自分を見失っているのではないか。
小乗仏教は自分の問題の解決しか求めない。
大乗仏教はそれを批判した。 他者が苦しんでいる現実がある。
他者の事を放っておいていいのか、そもそも自分の存在は他者とのかかわりの中に成立している。
大乗仏教は自分はともかく他者の苦しみを何とか救いたい、減らしたいと、他者も自分も同じように自分を越える仏の命からもたらされた命であり、他者が苦しんでいるのなら何とか他者の為に働いて行くと言う思い、行動がでてくる。
お釈迦様は紀元前383年に亡くなられた。 仏教文学
「本生譚」 如何に人のために身をささげたか、とかそういった話になっている。
その中の一つにずっと以前,お釈迦様はうさぎさんだった、と言う話がある。
かわうそとか仲間がいて、或る日 バラモンさんが来るので、供養しようとそのための食べものを探してきましょうと言う事で、友だちはうまく探せて用意できたが、うさぎは探すことができなかった。
バラモンさんが来た時に、うさぎさんは供養するものが見つけることができなかったので、焚火を用意して、その中に飛び込むので私の肉を食べてくださいと、飛び込んだという話がある。
実はうさぎはお釈迦様の過去生だった、バラモンは実は帝釈天という神様で、飛び込んだ瞬間に姿形を現わして、受け止めて、お前は大変良いことをした、お前の善行は長く世に伝えなくてはいけない、月にお前の姿を書いておこうと、いうんで月にうさぎがうつったという物語がある。
イエスは皆に代わって苦しみを受ける。 代受苦
浄土教 阿弥陀様は皆を救いたいと、その為に一生懸命に、計りしれない長い間、苦行に苦行を重ねて仏になられて皆を救っている。
皆は南無阿弥陀仏と唱えるだけで救われる。 一種の代受苦の思想。
法華経の話の中の仏様にも、イエスの代受苦と似たような話がある。
仏教の一番根本は、無我 常住成る自我は存在しない。
かけがえのない命の働きはあると思うが、我々がしがみついている様な変わらない本体としての自分と言うものは無いという、無我の思想。
無我と言うものを根本として、そこからあらゆるものを見てゆく、これは今後の時代を切り開く重要な原理になると、私などはそう思っている。
社会の仕組み成りたち、今非常に競争社会になっている。
なんか追い立てられている。
非常に行きすぎた個人主義に基づく競争原理がグローバルスタンダートとして世界を席巻しているのではないかと思うが、東日本大震災などで再び自覚されたように、人間の絆は大事じゃないかと、人と人とのつながりからものを見てゆく、考えてゆく、繋がりの中で成立し得ている自己、他者も含めてそういう視点は或る種、無我の思想につながっている。
鈴木大拙は真空妙有と言う言葉を言っている。
空の中から尽きない、無限の働きがでてくる。
見返りを求めたり、手柄を立てて名誉を求めたりとかにとらわれない、ただ無心に働く。
やってやったんだから報酬をくれとか、ついそういう事になりがちだが、本当に純粋の働きではない。
本当の自由の働きでもない、自由はまさに本来の自己の働きとして行うところに自由があるわけで
そういうところを重んじた。
他者のことをよく考えながら、自己のことも考えてゆく。
自分さえ成功すればいいと言うわけではない。
環境問題との関係から言えば、自然を大切にすると言うか、自然と共生する事も大事ですが、環境問題は世代間倫理という問題を引き起こしていると思う。
我々の世代だけで環境、資源を消費しつくしていいのだろうか、未来世代の人たちに豊かな環境を残さなくていいのか、我々は未来世代の人のためにどう行動すべきか、考えないといけない。
現にいる他者のために何をするかと言う事だけではなくて、いまいないのだけれども、未来世代の人のために何をすべきかを、真剣に考えなければいけない。
人間と人間の、空間的なだけでなく、時間的な繋がり、眼に見えない絆、其れが根本にあるんだと、その中でどう考えるのか、と言う様な事につながると思うんです。
宗教はいろんな捉え方があると思うが、己事究明 己を究明する。
仏教はそこに多くの材料を提供していると思う。
一番根本のレベルは、生死の問題
社会的にいじめを受けて皆から無視されたとか、自己が絶対的に否定されたとか、言う様な局面も無いわけではない。
悩みにどう対処すればいいのか、教えてくれていると思うが、悩みの根源、そもそも自己とは何か、の解答を下さるのが仏教ではないでしょうか。
哲学としての仏教という側面があるわけです。
宗教としての仏教 倫理としての仏教 この三部作を書きたいと思っている。
2014年11月25日火曜日
2014年11月15日土曜日
その後の状況
皆さまへ
症状は当初私が思っていたよりも、重くて、主にパソコン作業の悪い姿勢が原因で、脊椎にダメージを与えていた様で、現時点ではいつ頃再開できるかどうか、不明です。
何とか再開出来るようにとは思っているのですが、じっくり養生するしかないようです。
秋田
症状は当初私が思っていたよりも、重くて、主にパソコン作業の悪い姿勢が原因で、脊椎にダメージを与えていた様で、現時点ではいつ頃再開できるかどうか、不明です。
何とか再開出来るようにとは思っているのですが、じっくり養生するしかないようです。
秋田
2014年10月23日木曜日
今日から暫くブログを休みます。
今日から暫くブログを休みます。
理由は、最近左肩、腕などが凝っていた様で、手が苦痛を訴えていましたが、私は目をつぶって続けてきましたが、
しかし、先日 椅子に座って本を読んでいるうちに、居眠りをしてしまい、頭をカクンと前に下げたまま
の状態でしばらくいて、又後ろにカクンと1回頭を仰け反らし、これらが首の頸椎をちょっと痛めてしまった様で、弱り目に祟り目で、長い時間左手でキーボードを叩くのが、厳しい状況になってしまいました。
申し訳ありませんが、回復するまでしばらく休ませて頂きます。
(以前のものを読んでない方は、この機会に昔の投稿を読んでいただければと、思います。)
御了解下さい。
又、Kさんには或る時期から、私の誤字、脱字に見かねて、指摘して頂きまして(校正)、有難うございました。
この場を借りて御礼申し上げます。
再開の折は又よろしくお願いします。
それでは再会の折までみなさん 「御機嫌よう さようなら」
秋田
理由は、最近左肩、腕などが凝っていた様で、手が苦痛を訴えていましたが、私は目をつぶって続けてきましたが、
しかし、先日 椅子に座って本を読んでいるうちに、居眠りをしてしまい、頭をカクンと前に下げたまま
の状態でしばらくいて、又後ろにカクンと1回頭を仰け反らし、これらが首の頸椎をちょっと痛めてしまった様で、弱り目に祟り目で、長い時間左手でキーボードを叩くのが、厳しい状況になってしまいました。
申し訳ありませんが、回復するまでしばらく休ませて頂きます。
(以前のものを読んでない方は、この機会に昔の投稿を読んでいただければと、思います。)
御了解下さい。
又、Kさんには或る時期から、私の誤字、脱字に見かねて、指摘して頂きまして(校正)、有難うございました。
この場を借りて御礼申し上げます。
再開の折は又よろしくお願いします。
それでは再会の折までみなさん 「御機嫌よう さようなら」
秋田
2014年10月22日水曜日
楠 美津香(女優) ・一人芝居で演じる”超訳”シェークスピア劇
楠 美津香(女優) 一人芝居で演じる”超訳”シェークスピア劇
1962年東京生まれ、横浜放送映画専門学院(日本映画大学)を卒業後、お笑いの道に進みます。
コンビを組んで舞台に立ち、放送作家としても活躍しました。
シェークスピアに出会ったのは15年前、知り合いの舞台でマクベスを見て、言葉のおもしろさに魅かれました。
楠さんは37あるシェークスピアの作品全てを自分の言葉に表現し直してたった一人で何人もの登場人物を演じ、芝居を行っています。
マクベスを実際に見て興味を覚えた。
マクベスは情けなくて面白い人物だと思いました。
悲劇なんだけど、喜劇ですね、こんなに面白いんだったら、これをやっちゃおうと思った。
これが面白いのならシェークスピア37作品全部やろうと思って、その場で全部やりますと言って、全部やってしまった。
2000年から始めて、一つの季節に1つずつ作れば10年で37終わると言う計算のもとに行った。
参考にさせてもらってるのは、小田島 雄志先生と坪内逍遥先生です。
言葉はちょっと変えて、語尾を変えているだけ。しゃべりやすいように変える。
シェークスピアはあらゆるギャグを作った人だと思っている。
もともと皆が知っている物語だったりする。(ギリシャ神話だとか)
シェークスピアはギャグをそこに入れた。
喜劇から悲劇になってゆく、これは日本でいうと山田 洋次監督、最初笑わせてから泣かす、喜劇の王道、これをシェークスピアはやっている。
大衆演劇として作っている。
シェークスピアは手袋職人の子供として生れてからロンドンに行って、大ヒットの劇作家詩人になった人なので、二つの世界を知っている、庶民の世界と、王様が面倒みる劇団まで出世したので、庶民世界、国王貴族の世界も知っている。
庶民の笑える部分も作っているし、卑猥なところもいっぱいあるし、歌も出てくるしどこから見ても面白い。
言葉は美しいが下世話な世界をうんと描いている。
高校の時美術部だったが、2年の時に部長で周りにいなくて、一人だけだった。
お芝居をやらないと友だちに誘われて、やったら面白くて、横浜放送映画専門学院に行く事になる。
うつみけいこ師匠の漫才の授業があり、そこに来て、授業で組んだグループが受けて、TVまででて、1年やって駄目ならやめようと、始めたら仕事が来るようになって、やっているうちに解散したりして、そのうち舞台出るのは止めて、放送作家をしたりしているうちに、夫の一人コントを手伝ったり、台本作ったりしているうちに面白くなって、其れから一人コントを始めた。
物語をやりたいなあと思う様になって、講談の友だちの舞台を見ていていいなあと思った矢先に、マクベスを見た、これをやろうと思った。
最初1カ月で本を読んで、次に台本を作る、最後の1カ月でセリフをしゃべれるように練習をするという時間割でやっていました。
難しいのは神様の名前、悪魔の名前でこれが探し当てるのが大変だった。
一番好きなのが「ばら戦争」 連続した戦国絵巻 リチャード2世から始まって、ヘンリー4世、ヘンリー5世、ヘンリー6世 最後がリチャード3世で完結する。
(1455年から1485年の30年間にわたって「赤ばらランカスター家」と「白ばらヨーク家」とが王位をめぐって争ったのが「ばら戦争」)
リチャード2世の時はヨークとランカスターが国王を守っている。
リチャード2世はタイプが詩人で政治には向いていない。
ヘンリー4世という武党派の実力者に王位を奪われる。
ヘンリー4世の時代は活躍しないが、ここで活躍するのはハル王子(ヘンリー5世になる後継者)で、この人がめちゃくちゃ不良で、不良息子に悩むのがヘンリー4世の物語。
ハル王子はロンドンの繁華街で遊びまくっている。
父親が死んで後を継いだ時に、ガラッと豹変する、凄くいい国王に成ってしまう。
ヘンリー5世が英雄で、トップの条件です、これを見ればどんな企業もトップになれるという様な、ノウハウが書いてあるようなのが、ヘンリー5世の戯曲です。
ヘンリー5世は35歳で亡くなるが、後を付いたのがヘンリー6世、生後9カ月。
周り中が国王代行をやりたがる。
ヘンリー6世パート2でお互いにつぶそうという会議がずーっと行われる。
ヘンリー6世パート1の最後に出てくるマーガレット(フランス王シャルル7世の王妃マリー・ダンジューの姪)をサフォークが捕虜にする。
サフォークは悪いことをもくろむ人でマーガレットを自分のものにしたくて、国王と政略結婚させてしまう。
ヘンリー6世は戦争を止めましょうと行っているが、マーガレットだけが戦争遂行する。
リチャード3世の時に魔女の様になって出てくる。
パート3で道化役をやって行くうちに、ラストに行くうちに、俺が狙っているのは国王の座だと言って、手に入れるためだったら何でもやってやるという事で、言い始めて、リチャード 3世に成る。
8作品に渡って裏切り合戦、寝返り合戦。
リチャード3世は最終章なので、なんで争っているのかわからないというところが、最初から話をしていると全部判る。
「アテネのタイモン」 皆にプレゼントを上げて、タイモンのところにたかりに来て、執事がもう家にはざいさんがありませんということになるが、大丈夫僕には友達がいっぱいいるから、今までの貸しを返してもらうからと言う事で行くが、口実を作って返してはもらえない。
タイモンが宴会をするという事で皆が出掛けるが、お湯を並べて、皆にお湯をぶっかけて、馬鹿野郎と言って山に行ってしまって、人間嫌いになって暮らすという、面白いもの。
父親がお笑い番組が好きで子供のころから一緒にみていたが、その時に記憶したギャグが37作品の中に全部出ている。
自分でよくわかるのがギャグで、シェークスピアは庶民だったので、庶民が笑えるギャグが作れる。
散歩しながらセリフを練習をしたり、子供を砂場で遊ばせながら練習をしていた。
繰り返し繰り返ししてセリフをおぼえていった。
芝居と主婦業の両立は出来ていないと思う。
本番が有ると洗濯物が山の様にある。
近松門左衛門 人形浄瑠璃 出てくる男が情けないことは、シェークスピアと似ている。
女は観音様にみたいなものが出てきて、シェークスピアとは違う。
シェークスピアは歴史劇だが、歴史を借りてきているだけで、シェークスピアが面白く人物を作ってしまっているので、私がどのようなリチャード3世をやってもどれもそうかもしれないという事ですよね。
シェークスピアのテーマは再生、人が沢山死ぬが、又蘇る、円を描いているのがシェークスピアの世界、転落する人生と又上に上り詰める国王に成る、ホームレスに成る、また再生するというこの円です。
人生の中で起こることがちりばめられているのがシェークスピアです。
1962年東京生まれ、横浜放送映画専門学院(日本映画大学)を卒業後、お笑いの道に進みます。
コンビを組んで舞台に立ち、放送作家としても活躍しました。
シェークスピアに出会ったのは15年前、知り合いの舞台でマクベスを見て、言葉のおもしろさに魅かれました。
楠さんは37あるシェークスピアの作品全てを自分の言葉に表現し直してたった一人で何人もの登場人物を演じ、芝居を行っています。
マクベスを実際に見て興味を覚えた。
マクベスは情けなくて面白い人物だと思いました。
悲劇なんだけど、喜劇ですね、こんなに面白いんだったら、これをやっちゃおうと思った。
これが面白いのならシェークスピア37作品全部やろうと思って、その場で全部やりますと言って、全部やってしまった。
2000年から始めて、一つの季節に1つずつ作れば10年で37終わると言う計算のもとに行った。
参考にさせてもらってるのは、小田島 雄志先生と坪内逍遥先生です。
言葉はちょっと変えて、語尾を変えているだけ。しゃべりやすいように変える。
シェークスピアはあらゆるギャグを作った人だと思っている。
もともと皆が知っている物語だったりする。(ギリシャ神話だとか)
シェークスピアはギャグをそこに入れた。
喜劇から悲劇になってゆく、これは日本でいうと山田 洋次監督、最初笑わせてから泣かす、喜劇の王道、これをシェークスピアはやっている。
大衆演劇として作っている。
シェークスピアは手袋職人の子供として生れてからロンドンに行って、大ヒットの劇作家詩人になった人なので、二つの世界を知っている、庶民の世界と、王様が面倒みる劇団まで出世したので、庶民世界、国王貴族の世界も知っている。
庶民の笑える部分も作っているし、卑猥なところもいっぱいあるし、歌も出てくるしどこから見ても面白い。
言葉は美しいが下世話な世界をうんと描いている。
高校の時美術部だったが、2年の時に部長で周りにいなくて、一人だけだった。
お芝居をやらないと友だちに誘われて、やったら面白くて、横浜放送映画専門学院に行く事になる。
うつみけいこ師匠の漫才の授業があり、そこに来て、授業で組んだグループが受けて、TVまででて、1年やって駄目ならやめようと、始めたら仕事が来るようになって、やっているうちに解散したりして、そのうち舞台出るのは止めて、放送作家をしたりしているうちに、夫の一人コントを手伝ったり、台本作ったりしているうちに面白くなって、其れから一人コントを始めた。
物語をやりたいなあと思う様になって、講談の友だちの舞台を見ていていいなあと思った矢先に、マクベスを見た、これをやろうと思った。
最初1カ月で本を読んで、次に台本を作る、最後の1カ月でセリフをしゃべれるように練習をするという時間割でやっていました。
難しいのは神様の名前、悪魔の名前でこれが探し当てるのが大変だった。
一番好きなのが「ばら戦争」 連続した戦国絵巻 リチャード2世から始まって、ヘンリー4世、ヘンリー5世、ヘンリー6世 最後がリチャード3世で完結する。
(1455年から1485年の30年間にわたって「赤ばらランカスター家」と「白ばらヨーク家」とが王位をめぐって争ったのが「ばら戦争」)
リチャード2世の時はヨークとランカスターが国王を守っている。
リチャード2世はタイプが詩人で政治には向いていない。
ヘンリー4世という武党派の実力者に王位を奪われる。
ヘンリー4世の時代は活躍しないが、ここで活躍するのはハル王子(ヘンリー5世になる後継者)で、この人がめちゃくちゃ不良で、不良息子に悩むのがヘンリー4世の物語。
ハル王子はロンドンの繁華街で遊びまくっている。
父親が死んで後を継いだ時に、ガラッと豹変する、凄くいい国王に成ってしまう。
ヘンリー5世が英雄で、トップの条件です、これを見ればどんな企業もトップになれるという様な、ノウハウが書いてあるようなのが、ヘンリー5世の戯曲です。
ヘンリー5世は35歳で亡くなるが、後を付いたのがヘンリー6世、生後9カ月。
周り中が国王代行をやりたがる。
ヘンリー6世パート2でお互いにつぶそうという会議がずーっと行われる。
ヘンリー6世パート1の最後に出てくるマーガレット(フランス王シャルル7世の王妃マリー・ダンジューの姪)をサフォークが捕虜にする。
サフォークは悪いことをもくろむ人でマーガレットを自分のものにしたくて、国王と政略結婚させてしまう。
ヘンリー6世は戦争を止めましょうと行っているが、マーガレットだけが戦争遂行する。
リチャード3世の時に魔女の様になって出てくる。
パート3で道化役をやって行くうちに、ラストに行くうちに、俺が狙っているのは国王の座だと言って、手に入れるためだったら何でもやってやるという事で、言い始めて、リチャード 3世に成る。
8作品に渡って裏切り合戦、寝返り合戦。
リチャード3世は最終章なので、なんで争っているのかわからないというところが、最初から話をしていると全部判る。
「アテネのタイモン」 皆にプレゼントを上げて、タイモンのところにたかりに来て、執事がもう家にはざいさんがありませんということになるが、大丈夫僕には友達がいっぱいいるから、今までの貸しを返してもらうからと言う事で行くが、口実を作って返してはもらえない。
タイモンが宴会をするという事で皆が出掛けるが、お湯を並べて、皆にお湯をぶっかけて、馬鹿野郎と言って山に行ってしまって、人間嫌いになって暮らすという、面白いもの。
父親がお笑い番組が好きで子供のころから一緒にみていたが、その時に記憶したギャグが37作品の中に全部出ている。
自分でよくわかるのがギャグで、シェークスピアは庶民だったので、庶民が笑えるギャグが作れる。
散歩しながらセリフを練習をしたり、子供を砂場で遊ばせながら練習をしていた。
繰り返し繰り返ししてセリフをおぼえていった。
芝居と主婦業の両立は出来ていないと思う。
本番が有ると洗濯物が山の様にある。
近松門左衛門 人形浄瑠璃 出てくる男が情けないことは、シェークスピアと似ている。
女は観音様にみたいなものが出てきて、シェークスピアとは違う。
シェークスピアは歴史劇だが、歴史を借りてきているだけで、シェークスピアが面白く人物を作ってしまっているので、私がどのようなリチャード3世をやってもどれもそうかもしれないという事ですよね。
シェークスピアのテーマは再生、人が沢山死ぬが、又蘇る、円を描いているのがシェークスピアの世界、転落する人生と又上に上り詰める国王に成る、ホームレスに成る、また再生するというこの円です。
人生の中で起こることがちりばめられているのがシェークスピアです。
2014年10月21日火曜日
橋本正樹(大衆演劇評論家) ・大衆演劇の追っかけ男
橋本正樹(大衆演劇評論家) 大衆演劇の追っかけ男
43年前体調を崩して、自宅で療養中、自宅近くで見たたびしばいに人情ものに感動、しかも客が少ないのに汗水流して、熱演しているのに二度感動、大衆演劇に関わるきっかけになりました。
下町の玉三郎こと、梅沢 富美男さんが登場する17年も前のことでした。
最近は若い女性のファンが増え、客層も広まったと感じる、橋本さんに大衆演劇の面白さ、魅力、見どころなどを伺います。
昭和20年後半ぐらいから大衆演劇が下り坂になる。
昭和30年ごろからTV、映画などの影響を受けた。
昭和57年梅沢さんが出るまでの30年は沈みばっかりだった。
夢芝居が衝撃的だった。 紅白にも出場。
今は比較的安定期だが、東日本大震災で、ちょっと厳しくなる。
現在劇団は130~140あると言われる。昭和57年と比較すると倍増している。
梅沢さんの功績がある。
近畿圏に23ぐらいあり、そのうち大阪は13ある。
大坂のお客さは駄目なら、はっきりと駄目と言う。
一時期は700ぐらいあったと言われる。 JRの駅に一つはあったと言われる。
剣劇など 昭和10年ぐらいが盛況 戦後娯楽が無くて繁栄。
昭和46年に私は大衆劇に接する事になる。 (大学卒業後2~3年ごろ。)
そのころは劇場がつぶれて、駐車場、ボーリング場、スーパー等になって行った。
新聞を見て冷やかし半分で寿座に出掛けたが、お客は3人、その後多少増えたが、劇団人が15名ぐらい。
客が少ないのに、一生懸命やっていたのに、感動した。
大日方八重子?さんが女座長をやっていた。(座長の孫が大川 良太郎)
澤村章太郎が寿座に来て、四谷怪談をやっていて、5日間に分けての公演で、それを見て面白くて、寿座で見るのではなくて、追っかけるようになった。
藤山 寛美さんが大阪の朝日座に樋口次郎、大川竜之助 三河家桃太郎を呼んだと言う事があり、三河家桃太郎の演劇を見に行ったら、感動、ほれぼれする。
それを見て、大衆演劇を記録にして残さなければいけないと思った。
どうしたら信頼してもらえるか考えて、移動時の荷物運搬が大変なことなので、これだけお芝居、役者さんが好きで一緒に運びますという事で、やっているうちに、座長さんがこれは本気なんだと理解してくれた。
劇団に密着して取材をする。 密着したのは20劇団ぐらい。 取材50劇団 合わせて70劇団。
東京はあっさりした劇、九州は大熱演する、(福岡、熊本が主流 大きな劇場がある)
関西は器用で、サービス精神がある。(ショーも関西から始まった 役者が歌ったり)
こんな汚処を調べに来て、なんで撮るんだと言われて、怒られたが、座長が芝居のこと、生活のこと調べてくれるのは嬉しい、いいこと悪いところ見て、見たうえで貴方が良いと思ったら書いたらいいと言ってくれた、この言葉が無かったら、終わっていたかもわからない。
書かせて頂くと言う気持ちで書かせてもらっている。
毎日芝居の内容が変わるが、台本はない。 休憩時間や、終わってから座長が役振り、音響やれとか指示しながら、小道具はこうだとか、色々指示する。
通しの芝居の練習などはしない。
赤ん坊、子供のころからずーっと舞台に上がっているので、知らず知らずにセリフの呼吸とか言うのを座長になる人は心得ている。
子供は転校転校で、教科書が違ったり大変で、付いていけなくなったり、学校を休みがちになったりする。
「浜で3年、ドサ1年」 道頓堀の事を「浜」と言った。
道頓堀で3年修行して、ドサ周りで1年廻ってこい、そうしたら芸が達者になる。
大衆演劇の魅力?
素直な気持ちになれる。 構えるのではなく等身大の自分で見られる。
判っているすじなのに、泣けるんですね。
安い入場料で楽しめる。 努力してお客さんに楽しんでもらおうというサービス精神がある。
役者さんが身近かに、お客さんに対応してくれる。
最近は若い女性のファンが増えてきている。
43年前体調を崩して、自宅で療養中、自宅近くで見たたびしばいに人情ものに感動、しかも客が少ないのに汗水流して、熱演しているのに二度感動、大衆演劇に関わるきっかけになりました。
下町の玉三郎こと、梅沢 富美男さんが登場する17年も前のことでした。
最近は若い女性のファンが増え、客層も広まったと感じる、橋本さんに大衆演劇の面白さ、魅力、見どころなどを伺います。
昭和20年後半ぐらいから大衆演劇が下り坂になる。
昭和30年ごろからTV、映画などの影響を受けた。
昭和57年梅沢さんが出るまでの30年は沈みばっかりだった。
夢芝居が衝撃的だった。 紅白にも出場。
今は比較的安定期だが、東日本大震災で、ちょっと厳しくなる。
現在劇団は130~140あると言われる。昭和57年と比較すると倍増している。
梅沢さんの功績がある。
近畿圏に23ぐらいあり、そのうち大阪は13ある。
大坂のお客さは駄目なら、はっきりと駄目と言う。
一時期は700ぐらいあったと言われる。 JRの駅に一つはあったと言われる。
剣劇など 昭和10年ぐらいが盛況 戦後娯楽が無くて繁栄。
昭和46年に私は大衆劇に接する事になる。 (大学卒業後2~3年ごろ。)
そのころは劇場がつぶれて、駐車場、ボーリング場、スーパー等になって行った。
新聞を見て冷やかし半分で寿座に出掛けたが、お客は3人、その後多少増えたが、劇団人が15名ぐらい。
客が少ないのに、一生懸命やっていたのに、感動した。
大日方八重子?さんが女座長をやっていた。(座長の孫が大川 良太郎)
澤村章太郎が寿座に来て、四谷怪談をやっていて、5日間に分けての公演で、それを見て面白くて、寿座で見るのではなくて、追っかけるようになった。
藤山 寛美さんが大阪の朝日座に樋口次郎、大川竜之助 三河家桃太郎を呼んだと言う事があり、三河家桃太郎の演劇を見に行ったら、感動、ほれぼれする。
それを見て、大衆演劇を記録にして残さなければいけないと思った。
どうしたら信頼してもらえるか考えて、移動時の荷物運搬が大変なことなので、これだけお芝居、役者さんが好きで一緒に運びますという事で、やっているうちに、座長さんがこれは本気なんだと理解してくれた。
劇団に密着して取材をする。 密着したのは20劇団ぐらい。 取材50劇団 合わせて70劇団。
東京はあっさりした劇、九州は大熱演する、(福岡、熊本が主流 大きな劇場がある)
関西は器用で、サービス精神がある。(ショーも関西から始まった 役者が歌ったり)
こんな汚処を調べに来て、なんで撮るんだと言われて、怒られたが、座長が芝居のこと、生活のこと調べてくれるのは嬉しい、いいこと悪いところ見て、見たうえで貴方が良いと思ったら書いたらいいと言ってくれた、この言葉が無かったら、終わっていたかもわからない。
書かせて頂くと言う気持ちで書かせてもらっている。
毎日芝居の内容が変わるが、台本はない。 休憩時間や、終わってから座長が役振り、音響やれとか指示しながら、小道具はこうだとか、色々指示する。
通しの芝居の練習などはしない。
赤ん坊、子供のころからずーっと舞台に上がっているので、知らず知らずにセリフの呼吸とか言うのを座長になる人は心得ている。
子供は転校転校で、教科書が違ったり大変で、付いていけなくなったり、学校を休みがちになったりする。
「浜で3年、ドサ1年」 道頓堀の事を「浜」と言った。
道頓堀で3年修行して、ドサ周りで1年廻ってこい、そうしたら芸が達者になる。
大衆演劇の魅力?
素直な気持ちになれる。 構えるのではなく等身大の自分で見られる。
判っているすじなのに、泣けるんですね。
安い入場料で楽しめる。 努力してお客さんに楽しんでもらおうというサービス精神がある。
役者さんが身近かに、お客さんに対応してくれる。
最近は若い女性のファンが増えてきている。
2014年10月20日月曜日
山崎まゆみ(ノンフィクションライター) ・長岡の名花火師に惚(ホ)れこんで
山崎まゆみ(ノンフィクションライター) ・長岡の名花火師に惚(ホ)れこんで
新潟県長岡市出身 世界や日本各地の温泉を訪ねて、多くの著書に纏めてNHKラジオでもその魅力を伝えています。
最近では地元長岡で伝説の花火師と呼ばれる、嘉瀬誠次さんを取材して「白菊」と言う本を出版しました。
白菊は花火の名前です。 新潟市とハバロフスクの姉妹都市と成って25周年を迎えるのを記念して、1990年にアムール川花火大会が開かれました。
そこで嘉瀬さんがシベリアで散った戦友たちへの鎮魂の意味を込めて打ち上げたのがきっかけで生まれました。
その後白菊は12年前から長岡花火大会のスタートを飾る平和への祈りを込めた花火として復活しています。
長岡の花火で育った山崎さんは、嘉瀬さんとこの花火周辺での取材を続けて、7月に1冊本にまとめました。
山崎さんにとっては「ラバウル温泉遊撃隊」に続いての戦争関連の本と成りました。
花火に寄せる思いや、嘉瀬さんたちの取材から感じたことなどを伺います。
温泉エッセイスト 今年で18年温泉に入り続けている。 年に半分温泉地にいる。
雑誌社から要請があったのですが、両親が子供に恵まれなくて、子宝の湯に通って私が授かったと言う事を幼少のころから聞いていたので、御縁かもしれないと思ってスタートしたのがきっかけです。
温泉地数では3000か所以上あるので全ての温泉地には行っていませんが、有名なところは一通り行っています。
混浴をテーマに廻っていたが、こんなに楽しい体験で有れば世界中の人と混浴しようと思って、先ずはアジアの各国から始めました。
アジア各国の温泉をめぐっていたときに地元の年配の方と一緒に入る機会が何度となくあって、暑い国の私たちが温泉に入る様になったのは、第二次世界大戦中に日本軍がこの温泉に入ったのを見て日本軍が撤退した後に入る様になった、日本人から教えてもらったと各地で聞いた。
日本兵を癒した温泉として、パプアニューギニアのラバウルに温泉があることを知ってラバウルに行ったのがきっかけでした。
ラバウルは激戦地で壕もあるし、戦争の体験を語る人もいる。
タブブル湾、タブブル山(日本名 花噴山) がありタブブル湾全体が花噴温泉と名ずけられた。
昭和17年日本軍が作った地図があり、飛行場のあった目の前に在る。
日本人と温泉を考えるきっかけにもなり、戦争の体験された方々を聞くライフワークと成るきっかけにもなりました。
「白菊」 主人公 嘉瀬さん 小さい時から嘉瀬さんを知っていました。 伝説の花火師。 92歳
8月2,3日開催 100万人の見物客。
嘉瀬誠次さんは戦争の体験者、シベリア抑留の経験者
嘉瀬さんは近所の人で、父の友人 趣味の仲間 加瀬さんも私のことを知っています。
長岡の花火を見ると、感情が迫ってくる、切なくなって涙がこぼれおちてしまう。
これは一体何なんだろうとの疑問があって、嘉瀬さんに聞いてみようと思ったのがきっかけでした。
他にも沢山の声も同様に聞きました。
嘉瀬さんは千島列島で闘っていて、松輪島で終戦を迎えて、シベリアに3年抑留された。
「白菊」はシベリアで散った戦友たちへの鎮魂の花火。
1989年名古屋で世界デザイン会議があり、嘉瀬さんも花火師(世界的にも有名で世界各地で花火を打ち上げている)としてパネリストとして呼ばれて、司会者に嘉瀬さんが、次に世界で花火を上げたい土地はありますかと言われて、シベリアで亡くなった戦友のために、鎮魂の花火を上げたいと言うのがきっかけだったそうです。
嘉瀬さんの思いを何とか遂げてあげたいと周りの人が思って、いろんな方を経由して、NHK新潟放送にも伝わってきた。
新潟市とハバロフスク市が姉妹都市の記念すべき年であり、嘉瀬さんの思いを何とか遂げようと、鎮魂の花火を上げることができた。
NHK新潟を通じて全国に放送された。
旧ソ連の現地のTV局も行政も動いた。
嘉瀬さんの言葉がとても胸に沁み渡って、何かお力になりたいと思った。
1990年 アムール川の花火大会を実行されたプロデューサーの大井純さんが「これは大井企画の私の仕事ではなく、男大井の仕事である、何故か、嘉瀬さんの抑留と言う体験の荷を少しでも軽くさせてあげたいと言う気持ちで必死でした。」と言う言葉を聞いて私も記録に残さなくてはと思ったのが、本にする理由でした。
当時、日本もソ連も交流したいと言う時期だったようです。
嘉瀬さんは何故シベリアに行きたいと思ったのか?
自分は生きて帰れたけれども、生きて帰れなかった戦友たちにたむけの花火をあげたい、抑留中にお世話になったお婆ちゃんにお礼をしたい、との思いだったように感じます。
抑留中に凄くお腹が減っていて、収容所の近くの民家を訪ねた時におばあちゃんからパンを貰ったと言った様な、大切な思い出があるそうで、お礼がしたいと言っていました。
抑留中での寒さ、飢え マイナス30℃
昨年2月 追体験しようと思ってハバロフスクに行った。
黒パンとスープ 黒パンも1つの黒パンを何分割にして周りの人とに分けていた。
仕事は港を作る仕事、森林伐採の仕事。
朝起きてこない人がいるともう固まっている。(明日は我が身と思った)
花火玉をソ連に持ち込むのが大変だった。
爆弾を持ち込むと認識してしまうので、花火であることを説明する事が大変だった。
筒も大砲の様な感じなので、同様に大変だった。
昨年2月に行った時に、当時のことを市民に聞いてみたが、あんなに綺麗な花火は見た事が無いと、言っていました。
嘉瀬さんのことも覚えていて、尊敬していました。
2002年から「白菊」が復活した。
長岡市に1945年8月1日に空襲があり、多くの方が亡くなっているので、その遺霊のため、援護復興の意味で長岡花火大会があり、原点に立ち直ろうと嘉瀬さんの考案で「白菊」が打ち上げられることになる。
午後10時30分に空襲が始まったことで、同時刻に「白菊」が打ち上げられる。
心に訴えかけてくる花火だと思います。
純白さに苦労されたと言います。 シンプルで凄く綺麗な花火です。 思いをはせる時間がある。
日本人が遺骨収集でやって来た時に受け入れをされている女性に取材しました。
日本人墓地にお参りに行くが、大半はまだまだ土の中に在りそのままの状態です。
田中さんは、ハバロフスクから内陸に入ったところに住み暮らしながら、土饅頭に眠っている友のために歌を歌う。(田中さんは65歳までは日本に住んでいたが、奥さんが亡くなり移り住む。86歳)
戦争を体験された方のしょっているものの大きさを、語られることが多くて、亡くなった戦友の事をしんみりと話しますが、しょっていると言う言葉がぴったりすると思います。
世界の温泉を旅する中で、現地のお爺さんお婆さんの話を聞いて興味を持ったのがスタートだったんですが、戦争の事は本当によく覚えていて、多くの方があなたに語っておこう、と言う様な事を口にされた。
時を経て語ることができない方でも、あなたに託してゆくよと言う様な言葉を下さる。
わたし自身も記録としてバトンを受けた、託されたと思う様になり、きちんと私の仕事として、記録として残すのが、話してくれた戦争体験者へのお礼と言う気持ちで執筆しました。
本を読んで、是非私のお爺さんお婆さんの話を聞いていただきたいと言う様な反響を頂きます。
悲しい経験なので、いままで語れなかった、でも語らずに逝く事は出来ない、語るから皆に伝えてくれと訴えかけるようにおっしゃいます。
2004年出版 新潟県近隣の紹介の本は書いた事はあるが、キチンと読み物として故郷のことを書いたのは初めてです。
戦争体験の聞き書きもライフワークとしてやっていこうと思ってますが、温泉のことも書きたいと思っている。
身体の弱っている人にこそ温泉に入ってもらいたいと思います。
新潟県長岡市出身 世界や日本各地の温泉を訪ねて、多くの著書に纏めてNHKラジオでもその魅力を伝えています。
最近では地元長岡で伝説の花火師と呼ばれる、嘉瀬誠次さんを取材して「白菊」と言う本を出版しました。
白菊は花火の名前です。 新潟市とハバロフスクの姉妹都市と成って25周年を迎えるのを記念して、1990年にアムール川花火大会が開かれました。
そこで嘉瀬さんがシベリアで散った戦友たちへの鎮魂の意味を込めて打ち上げたのがきっかけで生まれました。
その後白菊は12年前から長岡花火大会のスタートを飾る平和への祈りを込めた花火として復活しています。
長岡の花火で育った山崎さんは、嘉瀬さんとこの花火周辺での取材を続けて、7月に1冊本にまとめました。
山崎さんにとっては「ラバウル温泉遊撃隊」に続いての戦争関連の本と成りました。
花火に寄せる思いや、嘉瀬さんたちの取材から感じたことなどを伺います。
温泉エッセイスト 今年で18年温泉に入り続けている。 年に半分温泉地にいる。
雑誌社から要請があったのですが、両親が子供に恵まれなくて、子宝の湯に通って私が授かったと言う事を幼少のころから聞いていたので、御縁かもしれないと思ってスタートしたのがきっかけです。
温泉地数では3000か所以上あるので全ての温泉地には行っていませんが、有名なところは一通り行っています。
混浴をテーマに廻っていたが、こんなに楽しい体験で有れば世界中の人と混浴しようと思って、先ずはアジアの各国から始めました。
アジア各国の温泉をめぐっていたときに地元の年配の方と一緒に入る機会が何度となくあって、暑い国の私たちが温泉に入る様になったのは、第二次世界大戦中に日本軍がこの温泉に入ったのを見て日本軍が撤退した後に入る様になった、日本人から教えてもらったと各地で聞いた。
日本兵を癒した温泉として、パプアニューギニアのラバウルに温泉があることを知ってラバウルに行ったのがきっかけでした。
ラバウルは激戦地で壕もあるし、戦争の体験を語る人もいる。
タブブル湾、タブブル山(日本名 花噴山) がありタブブル湾全体が花噴温泉と名ずけられた。
昭和17年日本軍が作った地図があり、飛行場のあった目の前に在る。
日本人と温泉を考えるきっかけにもなり、戦争の体験された方々を聞くライフワークと成るきっかけにもなりました。
「白菊」 主人公 嘉瀬さん 小さい時から嘉瀬さんを知っていました。 伝説の花火師。 92歳
8月2,3日開催 100万人の見物客。
嘉瀬誠次さんは戦争の体験者、シベリア抑留の経験者
嘉瀬さんは近所の人で、父の友人 趣味の仲間 加瀬さんも私のことを知っています。
長岡の花火を見ると、感情が迫ってくる、切なくなって涙がこぼれおちてしまう。
これは一体何なんだろうとの疑問があって、嘉瀬さんに聞いてみようと思ったのがきっかけでした。
他にも沢山の声も同様に聞きました。
嘉瀬さんは千島列島で闘っていて、松輪島で終戦を迎えて、シベリアに3年抑留された。
「白菊」はシベリアで散った戦友たちへの鎮魂の花火。
1989年名古屋で世界デザイン会議があり、嘉瀬さんも花火師(世界的にも有名で世界各地で花火を打ち上げている)としてパネリストとして呼ばれて、司会者に嘉瀬さんが、次に世界で花火を上げたい土地はありますかと言われて、シベリアで亡くなった戦友のために、鎮魂の花火を上げたいと言うのがきっかけだったそうです。
嘉瀬さんの思いを何とか遂げてあげたいと周りの人が思って、いろんな方を経由して、NHK新潟放送にも伝わってきた。
新潟市とハバロフスク市が姉妹都市の記念すべき年であり、嘉瀬さんの思いを何とか遂げようと、鎮魂の花火を上げることができた。
NHK新潟を通じて全国に放送された。
旧ソ連の現地のTV局も行政も動いた。
嘉瀬さんの言葉がとても胸に沁み渡って、何かお力になりたいと思った。
1990年 アムール川の花火大会を実行されたプロデューサーの大井純さんが「これは大井企画の私の仕事ではなく、男大井の仕事である、何故か、嘉瀬さんの抑留と言う体験の荷を少しでも軽くさせてあげたいと言う気持ちで必死でした。」と言う言葉を聞いて私も記録に残さなくてはと思ったのが、本にする理由でした。
当時、日本もソ連も交流したいと言う時期だったようです。
嘉瀬さんは何故シベリアに行きたいと思ったのか?
自分は生きて帰れたけれども、生きて帰れなかった戦友たちにたむけの花火をあげたい、抑留中にお世話になったお婆ちゃんにお礼をしたい、との思いだったように感じます。
抑留中に凄くお腹が減っていて、収容所の近くの民家を訪ねた時におばあちゃんからパンを貰ったと言った様な、大切な思い出があるそうで、お礼がしたいと言っていました。
抑留中での寒さ、飢え マイナス30℃
昨年2月 追体験しようと思ってハバロフスクに行った。
黒パンとスープ 黒パンも1つの黒パンを何分割にして周りの人とに分けていた。
仕事は港を作る仕事、森林伐採の仕事。
朝起きてこない人がいるともう固まっている。(明日は我が身と思った)
花火玉をソ連に持ち込むのが大変だった。
爆弾を持ち込むと認識してしまうので、花火であることを説明する事が大変だった。
筒も大砲の様な感じなので、同様に大変だった。
昨年2月に行った時に、当時のことを市民に聞いてみたが、あんなに綺麗な花火は見た事が無いと、言っていました。
嘉瀬さんのことも覚えていて、尊敬していました。
2002年から「白菊」が復活した。
長岡市に1945年8月1日に空襲があり、多くの方が亡くなっているので、その遺霊のため、援護復興の意味で長岡花火大会があり、原点に立ち直ろうと嘉瀬さんの考案で「白菊」が打ち上げられることになる。
午後10時30分に空襲が始まったことで、同時刻に「白菊」が打ち上げられる。
心に訴えかけてくる花火だと思います。
純白さに苦労されたと言います。 シンプルで凄く綺麗な花火です。 思いをはせる時間がある。
日本人が遺骨収集でやって来た時に受け入れをされている女性に取材しました。
日本人墓地にお参りに行くが、大半はまだまだ土の中に在りそのままの状態です。
田中さんは、ハバロフスクから内陸に入ったところに住み暮らしながら、土饅頭に眠っている友のために歌を歌う。(田中さんは65歳までは日本に住んでいたが、奥さんが亡くなり移り住む。86歳)
戦争を体験された方のしょっているものの大きさを、語られることが多くて、亡くなった戦友の事をしんみりと話しますが、しょっていると言う言葉がぴったりすると思います。
世界の温泉を旅する中で、現地のお爺さんお婆さんの話を聞いて興味を持ったのがスタートだったんですが、戦争の事は本当によく覚えていて、多くの方があなたに語っておこう、と言う様な事を口にされた。
時を経て語ることができない方でも、あなたに託してゆくよと言う様な言葉を下さる。
わたし自身も記録としてバトンを受けた、託されたと思う様になり、きちんと私の仕事として、記録として残すのが、話してくれた戦争体験者へのお礼と言う気持ちで執筆しました。
本を読んで、是非私のお爺さんお婆さんの話を聞いていただきたいと言う様な反響を頂きます。
悲しい経験なので、いままで語れなかった、でも語らずに逝く事は出来ない、語るから皆に伝えてくれと訴えかけるようにおっしゃいます。
2004年出版 新潟県近隣の紹介の本は書いた事はあるが、キチンと読み物として故郷のことを書いたのは初めてです。
戦争体験の聞き書きもライフワークとしてやっていこうと思ってますが、温泉のことも書きたいと思っている。
身体の弱っている人にこそ温泉に入ってもらいたいと思います。
2014年10月19日日曜日
鎌倉幸子(国際ボランティア会) ・移動図書館、被災地を走る
鎌倉幸子(シャンティ国際ボランティア会) 移動図書館、被災地を走る
1973年昭和48年青森県弘前市生まれ 地元の高校を卒業した後、アメリカの大学に留学し、福祉と国際協力を学びました。
1999年3月にシャンティ国際ボランティア会の職員と成りました。
この会は1981年カンボジア難民キャンプに図書館をつくることを目的に創立したNGOで、鎌倉さんは1999年から8年間カンボジア事務所で本の出版や図書館活動に従事しました。
現在は広報課長兼東日本大震災図書館事業アドバイザーとして、活動しています。
東日本大震災の発生直後から鎌倉さんたちは現地に入り、炊き出しや物資配布など救援活動を繰り広げました。
その中から本を読みたいという被災者たちの声にこたえようと移動図書館のプロジェクトを立ち上げました。
スタートしてから3年余り、現在は岩手、宮城、福島3県の市や町の45か所を廻っています。
鎌倉さんはこの体験を「走れ移動図書館」と言う本にまとめました。
移動図書館誕生のいきさつ、本が持つ力などについて伺います。
2011年7月17日、岩手県の陸前高田からスタートしました。
避難所から仮設住宅に移るタイミングだった。
知っている方が移れるわけではなくて、知らない方同士が住んでいて、コミュニティー作りの一つとして本のある空間を作って使っていただければと思いました。
現在5台の移動図書館があります。
最初1台軽トラックを借りて、スタートした。(脳から汗をかけと言われて何とかしようとした)
1~2カ月後は、移動図書館に集まった時に知り合いと、ばったり再会したと言う様な事もあった。
仮設住宅は台所が狭いので、その中で料理をどう作るのかとか、料理の本など要望がある。
シャンティ国際ボランティア会の広報課長でもある。
福祉の勉強をしたいと思って、雑誌をみて、アメリカに行こうと思って渡米した。(1991年)
ウエストバージニア大学で福祉を勉強、バーモント州の大学院で国際協力を勉強する。
国際情勢が激動する中、国際協力の知識を積んで仕事ができたらと思って、大学院に入りました。
国際協力の内容は幅が広くて、自分がどこの国で何をすればいいかわからなくなってしまった。
カンボジアから来た留学生との出会いが、カンボジアに足を向けさせた。
その友だちは戦争で両親を亡くした戦争孤児だと言う事を聞いた。
ポルポト政権下での悲惨な経験を色々と話してくれた。
それを聞いた時に友人のことを、何も知らなかったことに対して、悲しくなってしまった。
友だち付き合いを表面上の付き合いでしかなかった事に気付いた。
カンボジアでお手伝いできることがあれば、復興の支えられる仕事があれば紹介してくださいと尋ねたら、その人の居た孤児院の近くに図書館があり、そこで勉強したり、相談に乗ってくれて、その友だちが言っていたのは「図書館は人を選ばない、孤児、戦争経験しようが、お金持ち、どんな辛い思いのひとでも、扉を開いてくれる、本は逃げない。」と言う事だった。
その図書館を運営していた団体が、シャンティ国際ボランティア会と言う日本の団体なのでもしカンボジアに行くのであれば、シャンティ国際ボランティア会に行ってはどうかとの話でした。
その友達が、自分が留学して勉強できるのも、難民キャンプの図書館があったからだと言う話を聞いた時に、一人ひとりの長い人生を考えた時に、自分の人生があるのは図書館だという言葉を聞いて、図書館の可能性を追って見たいと、カンボジアに渡りました。
大震災発生後、救援活動を始める。
能登、三宅島の経験があるので、3月12日には団体の中で決定した。
3月15日にスタッフが現地入りしてスタートした。
炊き出し、物資の支援 最初緊急支援をしていた。
4月3日に私は現地入りしましたが、まだ図書館、本では無いと思っていた。
「食べ物は食べたら無くなりますが、本は読んだ記憶が残ります、だから図書館員として子供達に記憶に残る本を届けていきたい」と或る知り合いになった気仙沼市の図書館員の方(山口さん)がぽつりと言ったんです。
私はカンボジアの女の子を思い出して、「お菓子は食べたら無くなちゃうけど、絵本は何度でも読めるから好き」、と言った言葉が蘇ったんです。
東日本大震災の悲惨な現場、内戦を経験したカンボジア、でも辛い時だからこそ人は本を求める瞬間があるという事をその時確信しました。
気仙沼市の図書館員の山口さんが「こんな時だからこそ、今、出会う本が一生の支えになると言う事を信じています。」と言ったんです。
「どん底を経験した人が、一冊の本を手にとって、その一冊の中の1ページ、1行、たった一言の言葉が背中を押してくれたり、ちょっと1歩踏み出そうとする機会になったら、その本がその方のこれからの一生のお守りになるに違いない、だから沢山の本を持って、手に取る機会を作ってゆくのが、これからの図書館だ」と山口さんは言っていました。
現地で出来る事業を何か考えなさいと言われた。
岩手県滝沢村が移動図書館を独自で走らせていた。
読みたい本が読みたいところに無い、廻してゆく事で読みたい本が読みたいところにある、と言う事で移動するしかないと思った。
段々日が経つうちに、子供達が支援物資を貰いなれるのが怖いと言う事が聞かれ始めた。
移動図書館は借りたものを返す、皆のものは大切に使うと言う、基本的な日常生活の約束事を、守ってゆくと言う様な練習、訓練になるのではないかと言う事で、移動図書館と言う事になりました。
5月に入り、避難所から仮設住宅に入ってゆくのではと言う事になり、今後は炊き出し、物資支援とかと同じ活動ではないだろうと言う事で、調査をしました。
岩手県の図書館、本屋が壊滅的な被害を受けていたという光景だった。
図書館が復興するまで移動図書館と言う形で沿岸部を廻ってゆこうと言う事を5月の調査でまとめて、審議してもらって、大変困難ではあったが6月6日に岩手事務所を立ち上げる。
スタッフ、運転手を探して、7月17日に初運行になった。
最初子供たちが来てくれて、その後大人たちも来てくれた。
女性は編み物、料理、エコクラフトの本 男性は園芸の本 手を動かさないと暇を持て余してしまうし、悪いことを思い出してしまう。 手を動かしていると生きている実感を感じる。
絵本(孫への読み聞かせ)、歴史小説(困難を乗り越えてきた事に活路を見出す) 等々。
「言葉を失う」と言う言葉 本当に存在するんだなと思うシーンがある。
言葉を取り戻すお手伝いを本ができるのかなあと感じます。
「いわてを走る移動図書館プロジェクト 立ち読み、お茶のみ、お楽しみ」
平泉が世界遺産に登録された時に「いわて」を使用
「走る」、は共に伴走してゆきたい。
「立ち読み、お茶のみ、お楽しみ」 は移動図書館を作る時に徹底的に話し合った。
一人の時間を作りたいが、部屋でポツンといるのでは社会から遠のきそうだったり悪いことを考えてしまうので、本だったら、立ち読みができるし、お茶を飲んで楽しむのもいいと言う事から、使いました。
「いわてを走る移動図書館プロジェクト 立ち読み、お茶のみ、お楽しみ」 というキャッチフレーズを作りました。
本は衣食住満たされた後に、必要なものと言われるが、本の持つ力は生きる力を助けるためにつながっていると感じています。
人が生きていく上で、情報が必要だと思いますが、じっくりと自分のペースで読み進められるのは本だと思っています。
前に進みたいが、前の方向がどっちかわからない、何かしたいと言う思いになった時にそれを助ける本の存在は、足元を照らすランプになるのではないかと思う。
仮設住宅も3年になると辛い。
今後自分がどこに住むかわからない中で、すこしでも朝聞こえてくる鳥の声を知りたくて、その鳥の本をかりるの、ここの生活は辛いかもしれないけど、楽しんでいきたいという様な声を頂いた時に、辛い生活を何か支えられるものを、提供できるのではないかと感じています。
1973年昭和48年青森県弘前市生まれ 地元の高校を卒業した後、アメリカの大学に留学し、福祉と国際協力を学びました。
1999年3月にシャンティ国際ボランティア会の職員と成りました。
この会は1981年カンボジア難民キャンプに図書館をつくることを目的に創立したNGOで、鎌倉さんは1999年から8年間カンボジア事務所で本の出版や図書館活動に従事しました。
現在は広報課長兼東日本大震災図書館事業アドバイザーとして、活動しています。
東日本大震災の発生直後から鎌倉さんたちは現地に入り、炊き出しや物資配布など救援活動を繰り広げました。
その中から本を読みたいという被災者たちの声にこたえようと移動図書館のプロジェクトを立ち上げました。
スタートしてから3年余り、現在は岩手、宮城、福島3県の市や町の45か所を廻っています。
鎌倉さんはこの体験を「走れ移動図書館」と言う本にまとめました。
移動図書館誕生のいきさつ、本が持つ力などについて伺います。
2011年7月17日、岩手県の陸前高田からスタートしました。
避難所から仮設住宅に移るタイミングだった。
知っている方が移れるわけではなくて、知らない方同士が住んでいて、コミュニティー作りの一つとして本のある空間を作って使っていただければと思いました。
現在5台の移動図書館があります。
最初1台軽トラックを借りて、スタートした。(脳から汗をかけと言われて何とかしようとした)
1~2カ月後は、移動図書館に集まった時に知り合いと、ばったり再会したと言う様な事もあった。
仮設住宅は台所が狭いので、その中で料理をどう作るのかとか、料理の本など要望がある。
シャンティ国際ボランティア会の広報課長でもある。
福祉の勉強をしたいと思って、雑誌をみて、アメリカに行こうと思って渡米した。(1991年)
ウエストバージニア大学で福祉を勉強、バーモント州の大学院で国際協力を勉強する。
国際情勢が激動する中、国際協力の知識を積んで仕事ができたらと思って、大学院に入りました。
国際協力の内容は幅が広くて、自分がどこの国で何をすればいいかわからなくなってしまった。
カンボジアから来た留学生との出会いが、カンボジアに足を向けさせた。
その友だちは戦争で両親を亡くした戦争孤児だと言う事を聞いた。
ポルポト政権下での悲惨な経験を色々と話してくれた。
それを聞いた時に友人のことを、何も知らなかったことに対して、悲しくなってしまった。
友だち付き合いを表面上の付き合いでしかなかった事に気付いた。
カンボジアでお手伝いできることがあれば、復興の支えられる仕事があれば紹介してくださいと尋ねたら、その人の居た孤児院の近くに図書館があり、そこで勉強したり、相談に乗ってくれて、その友だちが言っていたのは「図書館は人を選ばない、孤児、戦争経験しようが、お金持ち、どんな辛い思いのひとでも、扉を開いてくれる、本は逃げない。」と言う事だった。
その図書館を運営していた団体が、シャンティ国際ボランティア会と言う日本の団体なのでもしカンボジアに行くのであれば、シャンティ国際ボランティア会に行ってはどうかとの話でした。
その友達が、自分が留学して勉強できるのも、難民キャンプの図書館があったからだと言う話を聞いた時に、一人ひとりの長い人生を考えた時に、自分の人生があるのは図書館だという言葉を聞いて、図書館の可能性を追って見たいと、カンボジアに渡りました。
大震災発生後、救援活動を始める。
能登、三宅島の経験があるので、3月12日には団体の中で決定した。
3月15日にスタッフが現地入りしてスタートした。
炊き出し、物資の支援 最初緊急支援をしていた。
4月3日に私は現地入りしましたが、まだ図書館、本では無いと思っていた。
「食べ物は食べたら無くなりますが、本は読んだ記憶が残ります、だから図書館員として子供達に記憶に残る本を届けていきたい」と或る知り合いになった気仙沼市の図書館員の方(山口さん)がぽつりと言ったんです。
私はカンボジアの女の子を思い出して、「お菓子は食べたら無くなちゃうけど、絵本は何度でも読めるから好き」、と言った言葉が蘇ったんです。
東日本大震災の悲惨な現場、内戦を経験したカンボジア、でも辛い時だからこそ人は本を求める瞬間があるという事をその時確信しました。
気仙沼市の図書館員の山口さんが「こんな時だからこそ、今、出会う本が一生の支えになると言う事を信じています。」と言ったんです。
「どん底を経験した人が、一冊の本を手にとって、その一冊の中の1ページ、1行、たった一言の言葉が背中を押してくれたり、ちょっと1歩踏み出そうとする機会になったら、その本がその方のこれからの一生のお守りになるに違いない、だから沢山の本を持って、手に取る機会を作ってゆくのが、これからの図書館だ」と山口さんは言っていました。
現地で出来る事業を何か考えなさいと言われた。
岩手県滝沢村が移動図書館を独自で走らせていた。
読みたい本が読みたいところに無い、廻してゆく事で読みたい本が読みたいところにある、と言う事で移動するしかないと思った。
段々日が経つうちに、子供達が支援物資を貰いなれるのが怖いと言う事が聞かれ始めた。
移動図書館は借りたものを返す、皆のものは大切に使うと言う、基本的な日常生活の約束事を、守ってゆくと言う様な練習、訓練になるのではないかと言う事で、移動図書館と言う事になりました。
5月に入り、避難所から仮設住宅に入ってゆくのではと言う事になり、今後は炊き出し、物資支援とかと同じ活動ではないだろうと言う事で、調査をしました。
岩手県の図書館、本屋が壊滅的な被害を受けていたという光景だった。
図書館が復興するまで移動図書館と言う形で沿岸部を廻ってゆこうと言う事を5月の調査でまとめて、審議してもらって、大変困難ではあったが6月6日に岩手事務所を立ち上げる。
スタッフ、運転手を探して、7月17日に初運行になった。
最初子供たちが来てくれて、その後大人たちも来てくれた。
女性は編み物、料理、エコクラフトの本 男性は園芸の本 手を動かさないと暇を持て余してしまうし、悪いことを思い出してしまう。 手を動かしていると生きている実感を感じる。
絵本(孫への読み聞かせ)、歴史小説(困難を乗り越えてきた事に活路を見出す) 等々。
「言葉を失う」と言う言葉 本当に存在するんだなと思うシーンがある。
言葉を取り戻すお手伝いを本ができるのかなあと感じます。
「いわてを走る移動図書館プロジェクト 立ち読み、お茶のみ、お楽しみ」
平泉が世界遺産に登録された時に「いわて」を使用
「走る」、は共に伴走してゆきたい。
「立ち読み、お茶のみ、お楽しみ」 は移動図書館を作る時に徹底的に話し合った。
一人の時間を作りたいが、部屋でポツンといるのでは社会から遠のきそうだったり悪いことを考えてしまうので、本だったら、立ち読みができるし、お茶を飲んで楽しむのもいいと言う事から、使いました。
「いわてを走る移動図書館プロジェクト 立ち読み、お茶のみ、お楽しみ」 というキャッチフレーズを作りました。
本は衣食住満たされた後に、必要なものと言われるが、本の持つ力は生きる力を助けるためにつながっていると感じています。
人が生きていく上で、情報が必要だと思いますが、じっくりと自分のペースで読み進められるのは本だと思っています。
前に進みたいが、前の方向がどっちかわからない、何かしたいと言う思いになった時にそれを助ける本の存在は、足元を照らすランプになるのではないかと思う。
仮設住宅も3年になると辛い。
今後自分がどこに住むかわからない中で、すこしでも朝聞こえてくる鳥の声を知りたくて、その鳥の本をかりるの、ここの生活は辛いかもしれないけど、楽しんでいきたいという様な声を頂いた時に、辛い生活を何か支えられるものを、提供できるのではないかと感じています。
登録:
投稿 (Atom)