2017年1月18日水曜日

岡村幸宣(美術館学芸員)    ・小さな美術館発 平和への願い(H28/8/7 放送)

岡村幸宣(原爆の図丸木美術館学芸員) ・小さな美術館発 平和への願い(H28/8/7 放送)
原爆の図は広島県出身の画家、丸木位里さんとその妻丸木俊さんご夫妻が原爆投下直後の被爆者の姿を描いた作品です。
丸木夫妻は原爆投下を知って広島に駆けつけ救護活動にあたりました。
そしてそこで目にした光景を32年の時をかけ15の作品に仕上げたのが原爆の図です。
作品を飾る場所として埼玉県東松山市に原爆の図丸木美術館を創設しまして、夫位里さん94歳と妻俊さん87歳で生涯を終えました。
ご夫妻亡き後バトンを渡されたのが当時26歳だった岡村さんです。
大学で近現代美術を学んでいた岡村さんは原爆の図から発信される力強い平和へのメッセージに共感し、16年間小さな美術館を守り続けています。
 
来年で開館50年になりますが、丸木夫妻は晩年ズーッと美術館の隣で暮らしながら絵を描いて、美術館に来た人たちとも気さくに話をされていました。
最初のころはお客さんは多くなくて、丸木夫妻の知り合いとか、戦争体験者などがきていましたが、70~80年代にかけて、全国的に修学旅行が広島長崎に行くのが増えて、被爆体験者の話を聞いて、その前段階として丸木美術館に来て原爆の図を見るというお客さんが増えて来ましたが、近年減っていって、いままた違った流れが出てきて、2011・3・11の東日本大震災で多くの方が亡くなって、原発事故などのことで、原爆の図を見ようとする機会が増えてきました。
等身大の人間の大きさで横は7mを超えて、実体験と重なってくるようなリアリティーがあったと思うし、今の若い方が見てもとても新鮮で、絵としてとても凄いと思う人もいろいろ感想を聞きます。
丸木夫妻も最初は広島に建てたいという構想があったようですが、探していたときにたまたま東松山市の土地を紹介されて、川の風景も気に入って山々も見えて、広島の太田川の流れと中国山脈の山々に似ていて、東京から引っ越してきました。
ここに美術館を建てようと思ったそうです。
川は灯篭流しもできて、川のほとりに美術館を建てたことは大成功だったと思います。

見た後の受け止めたものは圧倒されるものがあると思います。
1作目「幽霊」
被爆したまだ生きている人たちで、幽霊というタイトルでドキッとする。
丸木夫妻の原爆の絵にはきのこ雲、原爆ドームは描いていなくて、背景は余白で真っ白で人間だけを描いている。
絵の前に必ず文章が添えられている。
絵と言葉両方で見てもらいたい、そして広島の想像力を広めてもらいたいという思いが強くあったと思う。
「それは幽霊の行列、一瞬にして着物は燃え落ち、手や顔や胸は膨れて、紫色の水膨れはやがて破れて皮膚はぼろのように垂れ下がった。
手を半ばあげてそれは幽霊の行列、破れた皮を曳きながら力尽きて人々は倒れ、重なり合って呻き死んでいったのでありました。」
一瞬にして原爆は死の扉が開くので、生と死の中間にいる、幽霊のような立場に立たされてしまった、しかし生きている人たち、絵と言葉で鋭くあらわしているように思います。
たった一人きれいな顔で眠る赤ちゃんが描かれているが、丸木夫妻は思い、希望を込めたいという思いを絵の中に描きこんでいる。

「赤ん坊がたった一人で美しい肌のあどけない顔で眠っていました。
母の胸に守られて生き残ったのでしょうか。
せめてこの赤ん坊だけでもむっくり起きて生きていってほしいのです。」(未来が描いてある)
1950年に絵描いた。
米ソ大国が核実験の競争を始める時期で、朝鮮戦争もはじまり、また第3の原爆が使われるかもしれないという危機意識がある中でこの絵を描いています。(過去と未来を描いている。)
現在も未来の中にも含まれているし、今後の未来も描いている。

90年代半ば、現代美術を勉強しているときに、真逆のことを考えて実習でお世話になりました。
いきなり筍堀りを依頼されました。
その時に霧の向こうからおばあちゃんが歩いてきたがそれが、丸木俊さんだった。
挨拶して言葉を交わして去っていった、日本昔話の世界かと思いました。
展示会などもあるが誰がボランティアで誰がお客さんかわからないような壁のない筒抜けの場所で不思議だと思って、ボランティアで通うようになったのが丸木美術館との出会いで、原爆の図
を見る機会がありました。
絵は体験なんだということを原爆の図でなにか教えてもらったような気がしました。
いままで体験したことのないそれを体験する、突きつけられる、この先君は何をするのか、そういう機会だったのかと思います。

一旦常勤で働かないかと言われたが、その時は断りました。
ヨーロッパの美術館を色いろ見て回ったが、平和とか、その原点はその生活の足元にあるのではないかと思いました。
丸木美術館は大事な絵があって、守りたくて、いろいろ問題を抱えながらも曲がりなりにも時代を超えて受けつがれてきて守ってきた事はすごい大事なことではないかとわかってきた様な気がしました。
自分から働きたいということを言いました。
いろんな人たちが作品を見て、今の時代と重ね合わせて、自分がどう生きるのか、これからどういう世界を作ってゆくのか考え続けるという意味で刺激的な場所だとわかってきました。
人の痛みを想像することは難しいが、本当の意味で理解することは不可能だが、丸木夫妻はその痛みに近づこうとした。
原爆のことを考え続けてきた二人の生き方は、いま生きている我々の世代にとってもすごく重要なヒントになるのではないかと思う。

原爆の図がアメリカにわたって6月ワシントン、9月、10月がボストン、11月、12月がニューヨークと展示され1万人以上の人に見てもらいました。
1970年丸木夫妻が持って行ったが酷評されたとのことです。(見てる立場が違うので判る部分もあります)
アメリカの世代が若くなるほど、原爆が正しかったということは低くなってきている。
すんなり受け入れてしまうことにも物足りなさを感じました。(そんなに簡単に分かってもらっていいのかな)
お年寄りの退役軍人(94歳)が1日目には騒いで興奮していたが、2日目にもう一度来て静かに見ていた。
複雑な戦争の状況などに対する、葛藤、混乱とかを日本もアメリカも一緒に共有したいと思った。
学校である意味強制的に来ることがあるが、興味のない子供たちにも見てもらいたい。
ある先生が言ったことですが、原爆の図を見て笑った子がいたが、何故かを後で聞いてみて、自分の感情をどうしていいか判らなくて、その場を笑ってごまかすしかなかったと生徒は言った、ということだった。(それだけの衝撃があったんだと、先生は感じたそうです)

もう二度と未来の人におなじ体験をしてもらいたくないから丸木夫妻を描いた。
地球上の戦争、暴力にさらされる人たちの痛み、苦しみをどこかで食い止める力になる、あの絵はそれを見えないところで食い止めてきていると思う。
一番は、原爆の図をいつでもここに来れば見られるという原点をしっかり守っていきたい。
誰もが二度と体験したくない原爆ですが、原爆がどういうものかを伝えて行くか、必要な私たちの体験の場をここに残してゆくことが大切な役割だと思います。