六代目 中村東蔵(歌舞伎俳優・人間国宝)・ただただとにかく芝居が好きで
昭和13年東京生まれ、78歳。
23歳で歌舞伎の世界に入り女形と立役の両方を豊かに表現する歌舞伎俳優として活躍してきました。
以来 50年余り、ただただとにかく芝居が好きで、歌舞伎を演じ続けてきた中村東蔵さんに伺いました。
去年人間国宝に認定されました。
私でいいのかなあともやもやしていまして、責任とかを感じたくなく過ごそうかなと思いますが、そういう目を感じるような今日です。
「柳沢騒動」の桂昌院(徳川綱吉将軍の生母)役、相手が海老蔵さん(柳沢吉保役)、面と向かって芝居をしたのは初めてです。
23歳で初めて歌舞伎の世界に入りました。
父が医者(元日本医科大学学長河野勝斎)で9人兄弟の末っ子でした。
芸能方面に進んだのが4人、医者になったのは2人です。
2番目の姉が藤間紫で芸能界に入りました。
高齢出産でしたが、無事生まれました。
兄、藤間大助が藤間家(藤間流)に養子に行きました。
後に6世藤間勘十郎の妻になったのが藤間紫です。
そういう環境が出来たので小さいころから踊りなどをやっていました。
藤間さんの家に父と母も一緒に住んでいて、半分は医者の系統と半分は芸事で、別に所帯には成ってましたが。
色んな人が出入りして、お芝居に興味を持つ環境には有りました。(当時は5~6歳でしたが)
慰問があり、一緒につれて行ってもらったりしていました。
昭和20年8月15日に新潟に行っている時に、終戦を迎えたのを良く覚えています。
新国劇の芝居が有り、その中の一つに子役として出たのが、デビューで藤間の姉も新国劇に出るようになりました。
大菩薩峠、丹下左膳などの子役をやってとってもおもしろかったです。
感情をだす芝居は新国劇で辰巳柳太郎さんにいろいろ教えてもらいました。
島田正吾さんはまた違った教え方をして、子供役だが非常に大人扱いしました。
その二人の影響が非常に有りました。
藤間勘十郎さんのところに市村さんが松竹の助監督として入っていまして、「薩摩飛脚」という映画を撮っていたのですが、袴をはいてもきちっとする子役はいないかという事で呼ばれて映画デビューしました。(小学校6年の頃)
高校1年の時に主役、「神州天馬侠」 藤間勘左衛門と言う名前だったが、余りよくないということで藤間城太郎という名前で出ました。
早稲田大学に入って、TVが普及してきていましたが、芝居のグループを立ち上げました。
小さい時から歌舞伎が好きで、兄の藤間大助が歌舞伎に入っていて、中村藤太郎という名前で歌舞伎をやっていまして、成駒家 六代目 中村 歌右衛門の所の芸養子にしてもらいました。
不器用でもいいから格のある役者に成れと言うことは言われました。
教わる方にとっては厳しいということはいいことです。
女形はまず女に思われないといけないので顔のお化粧の仕方については良く怒られました。
見ただけで綺麗に見えなくてはいけない、着物を着るセンス等。
立役は二枚目は綺麗に見えなくてはいけないが最後は気持、気持ちが入っている事が役者としては理想だと思います。
その人物になるという、技巧を弄さないでというのが、一番難しいですが。
汗をかいてやっていると一生懸命やっていると言う事で手を叩いてくれるが、歳を取ってから汗をかいて、手を叩いてもらわなくてもいいじゃないかなあと、そこまでしなくて相手に訴えることができたらと思いますが、ついやり過ぎてしまうということは随分ありますが。
お客さんの反応はどうかということは難しい、まだ余り芝居を見たことの無い人に受けているのか、芝居を沢山見ていたお客さんだから受けてくれるのか、難しいです。
休みの日は寄席に行ったりしています。
今の人を見ないと昔の人と比較できないので。(歌舞伎でも同じだと思っています)
調べてみたら599の役をやってきました。(ほんのちょっとしかない役を含めて)
芝翫(しかん)さんとの一緒の舞台で、女郎の役をやったが、足がしびれてしまって立てなくなって、芝翫(しかん)さんにこっそり相談したが対応してくれなくて、なんとか自力で引っ込んだ時が有るが、芝翫(しかん)さんは残っていなくてはいけない立場だったんで、どうすることもできないと後から言われました。
歌舞伎をどうやったら見てもらうか、シネマ歌舞伎もあるようで、一つ興味を持つと次から次へと色んな役者をみて頂ければと思います。
好きなことをやっているのが、一番いい事ではないかと思います。
どなたでも嫌いなことが一つあるとは思いますが、嫌いなことをクリアすれば、後は好きなことばっかりなので、好きなことをやれるようになったら、人生一番明るくなるのではないでしょうか。