2017年1月17日火曜日

松場登美(衣料雑貨メーカー社長) ・“里山の暮らし”が町を変える

松場登美(衣料雑貨メーカー社長)  ・“里山の暮らし”が町を変える
67歳、大森町には 10年前ユネスコの世界文化遺産に登録された石見銀山があります。
大森町には江戸時代の鉱山の最盛期には20万人が暮らしていましたが、今では400人余りに減っています。
結婚後、この街に移り住んだ松場さんは里山の暮らしの素晴らしさを活かせないかと考え端切れのパッチワークから始めた商売は今や東京、新宿など全国30か所余りに直営店をもつ人気ブランドに成長しました。
年商20億円、この会社に働きたいと県外から移住して来る若者も増えています。
人気ブランドに成長した原点となる、里山の暮らしとはどのようなものなのか、伺いました。

27年前、古民家を再生して店を始めました。(本店 古民家再生第1号)
江戸末期の建物です。(庄屋さんの家)
この街の景観を壊さない様な建物にしたかった。
土足では上がらないような形にしました。
石見焼にとっても心を魅かれて、器が呼吸するらしくて、漬け物を漬けたりとか、小鉢とかいろいろなものに使えます。
私は三重県出身です。
結婚して、この街に37年前に来ました。
若者も外に出てゆく時代で、若い夫婦が来ると言うことは珍しかったです。
自然が有り、歴史が有り、確かなコミュニティーのつながりがしっかりある、この3つが魅力でした。
子育てをしながら、端切れでパッチワークを作って、ワゴン1台を借りて行商して歩くことからの始まりでした。

大きな転機になったのは東京の大きな見本市に出す機会が有って、出展したのが転機だったと思います。
年商20億円、30店舗に成長、消費動向が変化し始めているのだと思いました。
どういう地域でどういう人がどういう思いで、デザイン、生産しているとか、ものの生まれてくるプロセスに興味をもって商品を買い求める人が増えてきたし、この傾向はますます強くなっていくと思います。
ここは余分な情報は入ってこないので、その分自分達が必要な情報とかクリアな情報が入ってくるのは幸せかと思います。
ファッション、いまや国内の総合衣料の97%は海外生産といわれる。
安価な価格で出来ると言う事で一杯出回っているが、環境にいいのか、負荷をかけるのではないかという危惧を持っています。
わが社は国内素材で国内縫製をしていて流行を追わない、その分長く着てもらえて喜んでもらっています。

古い家屋の持つ魅力、風が抜ける気持の良さ、国の重要的建造物の保存地区に指定されて30年近くになりますが、近代的な建物が無く、ここで暮らしていると、何が必要で何が不必要なのかという事がおのずと日々感じるようになります。
コンビニが無くても不便を感じません。
この街が持っている役割は重要だと感じています。
ホッとするとか、優しいねと言ってくれます。(子供たちが皆挨拶してくれます)
観光客も乗り合いのバスで来るような方法にして、最初は危惧する人もいたが、そんなことはなくて駐車場もなくこの街の品格があると思っています。
人口が少ないとかマイナスでとらえてきますが、今のこの街の人口(400人あまり)でも十分街としての機能は果たしていると思います。
外国の方もこの街に住みたいと言って、長期バカンスをしている方もいます。
500人ぐらいがいいと思っています。

定住希望地、1位山梨、2位長野、3位島根とのことです。(東京圏ではないのに選ばれている)
世界遺産登録されて、10年経ってやっと落ち着いてきて、ゆったりとした時間を観光していただける。
生地を東京で選ぶ目線と、ここで選ぶものとはちょっと違うんですね。
人間は環境に左右される生き物なので、少なからず影響が有ると思います。
便利さ、効率だけを求めない生活をやって無いと、思いが出てこない、自然とお客さまに見えてしまうので大事にしたい。
本当の里山は家畜が一緒にいる所だと思います、自然界と人間がうまくバランスを取っていた空間が里山だと思います。
持続可能な取り組みをして来たことが、評価された。
石見銀山、鉱山遺跡と自然との共生、文化的景観が入って、世界遺産になったのはとっても誇りに思っています。

今の若い人の意識は本当に素晴らしいと思っていて、若者は常にその時代に欠如したものを求めると、ある若者がいったんですが、欠如したものを求めてこの地に来たのだと思います。
ここに来た時にいろいろ周りから声をかけてくれて、或る若者はこの街に暮らしたいと言っていて、
彼がこの街に住んで日々どんな暮らしをしているかという記事を書いていて大好評です。
従業員は約150名、ここ本社が約50名です。
若い人は大森の街に住みたいと言う事で、町内会にも入って葬式とかいろいろな行事に参加しています。(20名ぐらい)
自分達の理想とする事業の経営と、自分達の理想とする人生の生き方をやってきた結果として街に貢献していたとすれば、とっても嬉しいことで、結果論しかないです、街に活力が生まれたとかは、街作りにつながったことは光栄だと思います。
昔は小学校の入学生がいないとかあったが、若者が増えてきて、この1年間で7人の赤ちゃんが生まれて、奇跡です。

小学校と幼稚園が一緒に発表会をするが、普通その家族しか見に来ないが、この街は自分の子供とか孫が出なくても見に来てくださる方がいっぱいいます。
子供の名前もみんな判りますし、犬さえも判ります。
あと5年ぐらいの間に次世代への継承を考えています。
この街だけに拘らず、日本の生活文化を守り、伝統的なものを守り、世界に向けて誇りをもって暮らしていける街になればいいと思います。
「人は人生の岐路に立った時に人の言葉よりも、いつか見た風景に励まされることが有る」といった詩人がいますが、そういう風景を次世代の人達に残していってやりたいと思います。