保阪正康(ノンフィクション作家) ・行財政改革(第37回)
田中内閣以後、2年おきぐらいで変わってゆく、三木武夫、福田赳夫、大平正芳、鈴木善幸。
そのあと中曽根内閣が行財政改革に取り組んでゆく。
昭和49年12月9日に三木内閣が誕生する。
昭和51年7月に田中前首相が逮捕される。
三木おろしの動きがあり福田内閣が昭和51年12月に誕生する。
官僚が考えている経済成長を福田さんは代弁していたので、経済的に縮める政策の代弁者と言う事が言えたと思う。
日中平和条約を締結。 昭和53年8月(日中友好共同宣言の6年後でスムースに進んだ)
10月に鄧小平副首相を迎える。
大平内閣 昭和53年12月7日誕生。
昭和54年2月 第二次オイルショックが起きる。
省エネルック、率先して対応を訴える。
昭和54年6月に東京サミット開催、エネルギーサミットとも言われた。
大平さんの読書量は政治家のなかでも抜群だったといわれる。(知性のある首相)
昭和55年(衆参同日選挙中に)亡くなる。
同日選挙で自民党が圧勝し、鈴木善幸が首相となる。
自分が率先して出るのではなくて有能な官僚、政治家を使ったと言う事が評価される。
行財政改革、行政にかかわる組織、人員、予算、管理、関係団体が膨れ上がってゆく。
放置しておくと際限なく増殖してゆくので、どこかでメスを入れないと、行政組織が平衡感覚を保てなくなる、限界に来ていた。
行財政改革を行う必要が有り(コストカッター)、しかし実際に行う事は大変で、官僚組織に手を付けるわけなので、明治維新と、太平洋戦争の後の2回しか行われていなかったので、差し迫った問題だといわれる。
第二臨調発足、会長が土光敏夫さん 行政管理庁長官中曽根康弘さん。
土光さんの名前をもって行財政改革が行われた。
石川島播磨重工、東芝などを立てなおした実績が有る。
増税なき財政再建、国鉄、米、健康保険、(3K)の赤字を解決する、地方行政組織をスリムにする、という事を要求し挑んでいった。
中曽根内閣が出来た時には、「田中曽根内閣」と揶揄されたが、中曽根さん自身は行財政改革には凄く積極的で、臨調分科会を作って、臨調方式を進める。
戦後政治の総決算、累積化している戦後の官僚組織、国鉄の赤字等を解消する為に、かなり強権的にやらなければ動かない、或る意味強権的に、議会外の臨調の組織を使いながら改革を進める。
国鉄にメスを入れる。
官房長官は後藤田正晴、後藤田さんは中曽根さんを大嫌いだと言っていたが、子供じゃないんだから仕事をすると言って、軍事的膨張する戦後見直しにはかなり歯止めを掛けたが、行財政改革には中曽根さんよりは積極的に働いたと言っていた。
国鉄の民営化は一番大きな問題で、結果的には成功しているので良かったと思います。
中曽根さんの行財政改革は土光さんの質素さ、後藤田さんの官僚出身で官僚を上手く使う、その二つの車輪で上手く廻って行って、車輪を回したのは中曽根さんだと思うが、車輪自体がそうとう使命感を持って廻ったことが成功の秘訣だと思います。
土光さんは80代になっていたと思うが侍というイメージがあった。
(朝食にメザシを食べている画像がTVにでる)
確固とした人生哲学が有り、臨調を進めていった。
国鉄の分割民営化、慢性的な赤字を抱えていることへの不満、国鉄職員の業務にたいする向き合い方に国民が不満を持っていたのは事実だったと思います。
経営側も労働組合側も(慣れ合い)反対していたが、そこにメスを入れていった。
昭和62年4月1日から国鉄が6つに分割民営化された。
体質がガラッと変わり、流れとしては民営化は国民も国鉄の経営側、労働組合側も納得して行ったと思う。
昭和50年5月16日 田部井さんが女性初のエベレスト登頂に成功している。
昭和52年9月3日 王選手が756号のホームラン世界新記録を達成。
昭和55年 山口百恵さんが引退。
昭和57年2月8日 ホテルニュージャパンの火災。
昭和57年2月9日 東京湾で日航機の墜落事故(逆噴射)
昭和58年4月 「おしん」放送(外国でも評判になる)
昭和58年10月12日 田中角栄に実刑判決