2017年1月19日木曜日

外間邦子(対馬丸記念館語り部)  ・姉たちの無念を伝える(H28/8/22 OA)

外間邦子(対馬丸記念館語り部)  ・姉たちの無念を伝える(H28/8/22 OA)
昭和19年8月22日、夜10時23分 学童集団疎開の子供たちを乗せて沖縄から本土に向かっていた対馬丸がアメリカの潜水艦に撃沈され、鹿児島県悪石島沖の871mの海底に沈没しました。
対馬丸撃沈事件を検証するため、遺族たちの希望で2004年8月22日、那覇市に対馬丸記念館が開館しました。
対馬丸記念館の語り部の外間邦子さん78歳の、二人のお姉さんが対馬丸に乗っていた為今も海底に眠っています。
両親もすでに亡くなった外間さんは当時小学校生だった二人の姉たちをはじめおよそ800人の無念さを知ってもらおうと、記念館開館時から語り部になった方です。

学童疎開は小学校3年生から6年生までなので私は5歳だったので、船には乗りませんでした。
私も一緒に行きたいと地団駄踏んで泣いたのを記憶しています。
憧れの大和(本土)にいけば汽車にも乗れる、桜も見られるということで、知らない友達とも一緒に勉強できると、説明を受けて疎開を決心したと思います。
サイパンが陥落して沖縄が戦場になると云うことで、戦う島にという計画が進められていた。
来年3月には戦争が終わっているということで、半年間の疎開ということで説明を受けていた。
私は両親と一緒に北部(ヤンバル)に疎開しました。
昭和19年8月22日、夜10時23分 対馬丸はアメリカの潜水艦ボーフィン号に魚雷3発を受けて撃沈されて、鹿児島県悪石島沖の10kmの沖合に沈みました。
那覇の港からずーっと潜航してつけていたということです。
対馬丸は建造30年の老朽船で一番船足が遅かったらしいです。
子供たちが約800人で大人も800人ぐらいの家族が乗っていました。(1661名)
名前が判明しているのが1480名ぐらいでした。

平成9年に船が871mの海底に沈んでいるのが発見されました。
船としては100年近くなので、ワイヤーをかけても壊れてしまうということで、船の引き上げも遺骨の収集もあきらめて記念館をつくって対馬丸の歴史を伝えていきたいということになりました。
10万人の疎開の計画があったので、県民に判ると疎開計画に支障がきたす、沖縄での戦いに対して支障があるということで、かん口令がしかれて、対馬丸に乗ったことも、沈んだことも生き残ったことも一切話してはいけないということで、対馬丸を話せなかった。
いまだに聞かないでくれという人が何人もいましたが、記念館ができてそれから徐々に語りだします。
5名ほどですが、わずかな方が語り部として、現在います。
「訓導」といわれ、先生方が子供たちの疎開を勧め、自分が助かって、その辛さもあり戦後教職を退いています。
記念館の裏に対馬丸の亡くなった方の犠牲者を祀った塔がありまして、そこへ学童と一般の方の刻銘がしてあります。
記念館は対馬丸の形に似せてあり、屋上が甲板のようになっています。
撃沈されてから60年目に記念館ができました。
シンボル展示としてランドセルを展示しています。
3隻の疎開船のうち、ほかの船に荷物が積んであったので、ランドセルがのこっていました。
写真が多いのは声なき声を聞いてほしいという思いです。
魂をこちらに来てもらって無くなった未来を、今の子供たちと一緒に平和作りをすることで、対馬丸の子供たちの未来が取り戻せるのではないかという思いもあり、記念館をつくりました。

6月は平和月間なのでひと月平和の学習があり、語り部として出かけて学校に行って子供達に対馬丸の子供たちのメッセージを届けることにしています。
いろいろ感想文をいただいたりしています。
平和は思っているだけでは来ない、今の私にできることを私はやりたい、今自分はどういうふうに生きたらいいかというような、これからの未来作りに自分はどう向き合っていくかとかの思いを書いています。
対馬丸の子供たちの無念さを今の子供たちに伝えて、平和の心を育てる、対馬丸の子供たちの役割と思って毎年 語り部として6月に学校訪問したりしています。
姉たちの気持ちになった時に、絶対に子供たちの運命を奪うような戦争があってはいけない、だから二度とそういう風な思いを子供たちに味あわせたくないと思って、姉たちからしっかりやれと言われているような気がします。
記念館に私は育てられたのかなあと思います。
ここで展示に関わって学んでいくうちに伝えていかなければいけないと思うようになって、お見えになる方と語り合う、学校を訪ねてゆくというように段階を踏んで関わってきました。
2年前両陛下が来られて、同じ時代とのことで、15名の、生存者、遺族の方々と親しくお話し下さいました。
私には展示館の事を聞かれるかと思ったら、両親のことを聞かれました。(どんなに心を痛めたかという内容など)

戦争の悲惨さをよりもっと感じてほしい。(対馬丸の被害者 0~15歳までが1016名)
1016名の子供たちの声を伝えなければということで年齢を刻みました。
森羅万象、生きとし生けるものすべて、自然を含めてのすべてのことを伝えていきたいという思いが一番ありました。
今の時代はラインだったりスマホだったり、顔の見えないコミュニケーションが多いが、否定はしないが、でも隣に座っている子供たちに関心を持って労りだったりいろんな関わりを持って行き、それが対馬丸の子供たちが一番やりたかったことではないかと、今に生きる心根、今の日常からどういう風に平和とかかわるか、平和を日常的なことから気づかせてゆくというか、子供たちに平和のありがたさを伝えていきたい。
記念館を通して子供たちとのつながりを続けていきたい。