2016年11月2日水曜日

佐々木則夫(サッカー日本女子代表前監督)・“なでしこの力”を信じて(1)

佐々木則夫(サッカー日本女子代表前監督) ・“なでしこの力”を信じて(1)
山形県尾花沢市出身 58歳 今年3月まで8年余りにわたって女子サッカーの日本代表なでしこジャパンの監督を務め、2011年のワールドカップドイツ大会では優勝、ロンドンオリンピックでは銀メダル、去年のワールドカップカナダ大会では準優勝と、日本の女子サッカーを数々の栄光へと導いて来ました。
佐々木さんが監督として選手達を率いてきた陰には、社会人としての経験や、お父さんから貰った言葉が有りました。

監督という立場の先に目標が有るわけですので、そういったものが無くなって、少年少女、学生たちの次世代を担う人達の一助になれればいいと思っています。
ステップアップするためにも自分自身勉強、研究しているところです。
北京、ロンドンも最終まで行っていたので、他の競技はなかなか見れなかったですが、TVで応援する立場になってハラハラドキドキしてました。
見る側になって改めてスポーツの楽しさ、感動をさせてもらいました。
オリンピックが終わった段階で球技団体の中で結果が出せなかった経緯が有り、女子、男子サッカーも次の東京には力を付けて、頑張らなければいけないと痛感しました。

もともとはミッドフィルダーの選手でしたが、段々年齢がかさむと、声で指示する様になって、バック、スイーパーのポジションになりました。
日本リーグの2部でしたが99試合に出ました。
91年に引退し、指導する方に移行しましたが、仕事がメインで終わった夜にトレーニングしました。
薄暗い所で練習したり、自動車のライトで練習したりしました。
ナイター付きの設備が無かったので、土、日がメインの練習でした。
徐々に環境が良くなってきて、プロになる様なチームにも善戦するようになりました。
それがなでしこ率いるベースなんです。
世界大会に出れるレベルの中で、身長体重もない、フィジカルが無い、しかし協調性があり、まさしく私が率いていたNTT関東と似てるんです。
なでしこのコーチを依頼された時に、これまで指揮していたうちのチームに似ているなと思って、なでしこに行く事になりました。

少年時代は野ザルの様に本当によく走っていました。
稲刈りが終わったところで野球をやっていました。
演歌歌手になりたかったですが、そのあとは野球の選手になりたかったです。
小学校1年の最終学期に板橋の学校にいきました。
校庭がアスファルトで吃驚しました。
クラスの子は方言を面白がっていました。
「それで」を「うんで」と読んでしまったりしました。
3回転校してハングリー精神、我慢強さが結び付いたのかもしれません。
走りだけは早くて、僕に勝てる子はいなくて、一目を置いてくれました。
2回目の学校でサッカーを知りました。(小学校3年)
先生からサッカーをやらないかと言われて、技術は下手だったが足が速いので得をして、段々サッカーにのめり込んで行きました。

オリンピックか何かでサッカーって凄いなあ言うイメージが有り、サッカーが更に好きになって来て、かなり練習をして見る見るうちにいい感じになって来ました。
少年団に入れて習っていたら転校になり、次の学校ではサッカーが無い学校でした。
野球のネットをゴールに見立ててシューティングしたり、リフティングの芸を見せて仲間をつくって一緒にチームを作って、リフティングをしたりしていました。
中学に行って、これからサッカーができると思ったら、スキーで骨折したり、治ったころには試合で右肩の鎖骨を折って、治った頃運動会で鎖骨を又折って、公式戦には2~3回しか出られませんでした。
高校時代はサッカーをやりたくて帝京高校の門をたたきました。
とんでもないサッカー部で120人も部員がいました。
レギュラーに成れないのではないかと不安が有りましたが耐え抜きました。
小学校の時に作ったミニチームにいた人達が一緒に残っていました。
帝京高校のキャプテンになりました。
日本代表になりたいと言うよりも、将来指導者になりたいと強く感じました。
自分がチームを先生と共に動かしてゆく、指導すると言ったところに面白さを感じました。

大学のころに、サッカーの指導者の為には、様々な視点を広げて学ばなければだめだと父から言われました。
「歩歩是道場」という言葉が有って、何かを突きとめるときに、様々な視点を広げて学んで行く。
ごみが落ちていて、拾うおうかなあと思うのは簡単だが、実行しなければ始まらない、ごみがお前を指導してくれている、という様な事を言われました。
会社での24年間、いろいろな部署にいましたが、本当に為になったと感じます。
料金担当になったが苦情に対して何とか料金を払っていただけるように工夫して対応する。
旨く行かないときに工夫してトレーニングを又開始するとか、選手間、或いは指導者ともめるときに聞いてあげてしっかり返してあげる。
広報もやりました、メディアとの対応があったり、何かあった時に誠実に即座に対応することが大事です。
ロンドンオリンピックの時に南アフリカ戦に引きわけ、この勝負をどうしていこうか、会場も変わって、ファイナルを考えたら今日は引き分け狙いということを指示した。
サッカー界は予選の時に公平に同じ時間帯でおこなうが、情報をとりながら順位とかの狙いを付けるというのがサッカー界にはあるが、メディアに向かって私が引き分け狙いを途中からさせましたとか、私が盾になりました。(広報をやっていた時の知恵かもしれません)
如何にメダルを取るかという事を介した指示でした。

結婚して子供に恵まれたが妊娠4カ月で直ぐ入院になり、安静にしながら未熟児が生まれました。
半年後、妻が風邪を起こして脳膜炎を起こしてしまい、私は帰りも遅く土日も時間が取れず、そこから1年は入院をしていました。
サッカーも2シーズン休んで、家族と仕事に専念していました。
その後妻もよくなって1年だけプレイヤーをやっていいかとお願いして、1年やったらめきめき上手くなり辞める間が無くなってしまった。
それから2シーズン、3シーズンとなり今に至ってしまいました。
NTTで活躍してコーチ、監督もしました。
様々なことを経験したことが多かったと思います、自分としてはプラスになったと思います。
神様を恨んだこともありますが、誠実に受け止めるしかないと精一杯やってきました。
サポートの力も大きかったです。
与えられたもののなかでやる、それが次の扉を開くのではないかと、そういった経験から思います。
「知好楽」 論語、さまざまなプレッシャーとか色んな事が起こるが、それはあなたが乗り越えるから有るんだと、それを逆に楽しさに変えるぐらいに受けとめて、困難をクリアしてゆくと言う風な意味に思っています。