2016年11月5日土曜日

北川フラム(アートディレクター)   ・私にとっての良寛

北川フラム(アートディレクター)     ・苦しきは人を隔てる心 私にとっての良寛
新潟県の南部、信濃川が流れる地域は越後妻有と呼ばれています。
この自然豊かな山里に突然現代アートがやってきたのは2000年の事。
大地の芸術祭_越後妻有アートトリエンナーレ、過疎と高齢化が進むこの地域をアートの力で再生したいと3年に一度行われています。
その仕掛け人北川さんです。
人と人、人と地域を結び付けるのが本来の美術の力だと言う北川さん、そう考えるように至った背景には、江戸時代の禅僧、良寛の影響があると言います。
北川さんが美術に取り組む上で大切にして来た良寛の思想とはどんなものなのか、伺いました。

平成の大合併があって、3200ぐらいあった市町村を800ぐらいにしたいという国の希望があって、この6市町村を一緒にしようという動きがあり、想定合併の市町村で仲良くやれないかという計画があり、そこの責任者に指名されて、農村は捨てられようとしている、人口は過疎になってゆく、若者はいない中で、頑張ってきたが、将来のことを考えるのも厭なものでした。
農業を辞めろ、街の中に来い、というような訳で、自分でやってきたことに誇りを持つ、地域の特色自然の中で生きてきたことは凄いことなので、意味あることだと言う事ができないだろうかと思いました。
アーティストはそこの場所の面白さを発見する能力は極めて高いと思っています。
自分の作品がある場所、作品の奥に広がるものを見せたいという思いです。
自分があることによって地域が分かる仕組みを作り出す。
作っていくときになると、地域の人々は助けあう、一緒にやりだす。
アーティストの作品だけではなく、集落の人の作品になるわけです。
算数などとは違って、美術だけは人と違って面白いと褒められる。
田舎の色々な人達はそれぞれの場所で違う生き方をしていて、それが認められることとつながりみたいな事があって、これが今、越後妻有、瀬戸内海の離島の中でも、地域の持っている寂しさ、色んな違いが人の中にある違い、多様な人がいて多様な価値がある中でどう生きていくかが良いと思われないと、よくわからない平均的な者とか、中心に切られてゆく、そういう事が今美術と田舎が持っている中で繋がってきたという風なことがあります。(内容がちょっと理解出来ない)
人と違う事を肯定する、それは良寛の考え方に繋がるものがある。
良寛の根本にあるものは、人と人を隔つる心、意地悪、ひがみ、人を差別する中で起きてくる。
生まれながらに人間は差別されてるって、良寛は知っているわけです。
だからこそ、へだつ心になってはいけない、偉い人と会っても子供と会っても同じように接する、それがやれて行くわけです。

良寛は江戸時代の後期、越後出雲崎の名主の家に生まれました。
当時干ばつが続き、一揆が頻発していて、生家は次第に没落、良寛は18歳の時に家を飛び出し出家して、34歳まで岡山県の禅寺で修行、その後諸国を行脚、39歳で故郷に戻りました。
すでに父親は自殺していました。
帰国した良寛が身を寄せたのは国上寺の五合庵、ここを拠点に托鉢をしながら修行生活を送りました。
この頃法華経を徹底的に読み込みました。
良寛の心をとらえたのは、誰もが等しく仏の心を持っているという教え、身分などいかなる差別が無いと言う人間平等の教えです。

当時、良寛は今の社会がひどいと思っていたと思います。
良寛にあるのは怒りと無常観だと思います
いかに、関わってゆく世界の中でその人たちに迷惑をかけないでさわやかに挨拶出来ると言うやり方を良寛が考えたと思えるわけです。
だから子供と遊ぶ時にも、子供達が帰った後でもずーっと鬼の役割をしているとか、誠実に付き合うわけです。
良寛がそうなるためには猛烈な格闘があったと思います。
越後出雲崎に居ながら日本中の優れた本等を手に入れて、仏の道、人間にとってありたい状態を最後まで追及してゆく事は並みでは出来ないと思います。
よくなろうとする時に人間なんて解脱できないと思っていて、猛烈に何かに向かって行こうとしない限り、行こうとしている時に向けた力みたいなところで人と繋がる良さが出来るんじゃないかと、そういう様な良寛を考えているんです。

良寛のヒューマンな思いが伝えられているが、親戚の子供がどうしようもない子であったが怒れない訳ですが、その時に良寛は涙を流すだけだったが、涙が落ちるのには物凄い葛藤と喜怒哀楽が無いと涙は流せないと私は思っています。
良寛は不条理と闘ってきたが、たまらなさの中に、呆然とし、怒っている居る自分をどう見るかという視点を持っている。
「痛ましいかな 三界の客 何(いつ)の日か是、歇頭(けつとう)ならん 遥夜、熟(つらつ)ら思惟するに 涙流れて収むる能(あた)わず
(痛ましいことだ この世の人々は いつ悟りを開く事が出来るのだろうか 長い夜の間この事を深く思っていると 涙が流れて止めようもなかった)
人を隔てる心が苦しいと言う事と、人間の尊厳。
良寛は人間て平等だなんて全然思ってないと思う、みんな違うし、違いがあることのすべてを受け入れる、ということをどうしようかという事がある、そこの良寛の格闘が凄いと思っている。
劣っているものこそ、その人の尊厳ではないかと良寛は思っていたんだと思います。
肩書き、お金、そういったものに良寛は嫌ってゆく、それが良寛の持っている人間観だと思います。

30歳で同人誌を作り出して、その時に父は良寛に対して勉強していて、父に良寛像を書いてもらう様にしました。
北川省一は良寛の研究家として知られてきました。
省一は人生のどん底の時、良寛に出会い救われたといいます。
自分と同じように困難な状況にもがき苦しみながら、最終的にあらゆるものを肯定すると言う良寛の生き方でした。
父は労働運動、農民運動ををやりながら、社会的には失敗してゆき、世の中の流れとは違って組織にもいられなくなり、自分で思っていたことが何も社会化されないという中で、相当精神的に厳しい状態にあったと思う。
暗かった時代に自分の生活を立て直してゆくときに、良寛に出会ってから、普通に言われている良寛ではない良寛があるから響いてきたわけです。
ことごとく失敗する中でどうやって生きていくか、という良寛の文章、歌の中にそれがワーッと見えてきた、だから良寛によって自分は生きれると思って、良寛を研究して行ったと思う。
父を通して良寛を知ったということは良かったと思います。

良寛は体力の限界が来る60歳近くまで五合庵で過ごしました。
経を読み、読書に励み、思索にいそしむ清貧の生活、しかし、俗世間と隔絶していたわけでもありません。
子供達と遊んだり、村人たちと酒を酌み交わすこともありました。
苦悩を背負いつつ、こだわりを徹底的に捨てた先に見出した良寛の悟りの境地です。
「生涯身を立つるにものうく、騰騰(とうとう)天真(てんしん)に任す。嚢(ふくろ)には三升の米、爐辺(ろべ)には一束の薪(たきぎ。だれか問わん迷悟の跡、なんぞ知らん名利(みょうり)の塵(ちり) 夜雨、草庵の裏(うち)、双脚、等閑に伸ばす」
(生涯立身出世しようという気にはならず、自由自在あるがままに任せてきた 袋の中には三升の米 炉端には一束の薪があるのみ 迷いや悟りの業績など気にかけない 名声や利益などという塵すらない 雨の降る夜中 草庵の中で両足をのびのび延ばしている)

半年雪の中で一人で過ごし、春を待つ気持、人から来る手紙に対して本当に尋常ではない喜びや期待を持つわけです。
良寛の人恋しさにつながっている。
雪は大変ですが、雪が持っている白い抽象的な世界、この落差みたいなものの中で捉えていった世界観は良寛の中にあって、透明な世界みたいなものを良寛は持っていたんじゃないかと、そういうものに惹かれます。

「花咲けば待つには久しひさかたの雪ふみわけてわが出でて来し」
(花が咲き始めて雪が消えるのが待ち遠しくて、雪を踏み分けて山の庵を出て来たことだ)

大地の芸術祭_越後妻有アートトリエンナーレ
村人たちは最初は遠巻きに見ていましたが、一緒にやるようになりました。

(あまり理解できないことがいろいろあり、上手く纏められませんでした)