2016年11月26日土曜日

安田享平(盲人マラソン日本代表コーチ) ・人間の可能性

安田享平(盲人マラソン日本代表コーチ) ・人間の可能性
千葉県千葉県君津市出身の49歳、若いころはマラソンランナーとして活躍し、毎年元日に行われる
ニューイヤー駅伝で走ったこともあると言う方です。
安田さん、今は目の不自由な人がマラソンに取り組むのを支える盲人マラソンの日本代表コーチをされていました。
パラリンピックには1996年のアトランタ大会から関わり、今年行われたリオデジャネイロ大会でも現地に赴いて女子選手銀メダル、男子選手銅メダルをもたらしました、
人間の持っている力と可能性、そして私達はそこから何を学びどんなことが出来るのかお話しいただきました。

20年前、走っていました。
今マラソンに出ている人達は小学校中学校から走っているエリートですが、当時はそうではありませんでした。
私は野球をやっていまして、陸上部は有りませんでした。
長距離は得意でしたが、嫌いでした。
段々真面目に走りだして、君津市の駅伝大会に出ることになり、アンカーを走り、優勝して、区間賞も取り、初めて表彰をいただきました。
高校に行って陸上部に入って、インターハイが終わった後、高校3年生の夏に記録が出だしてどうしようかと思ったのですが、続けようと思いました。
新日本製鉄に入社して、3年記録がでなくて、4年目に記録が伸び出して、青東駅伝(青森-東京駅伝 全国規模の駅伝で今は無くなってしまった)に千葉県代表として出たりするうちに、自分の方が頑張っているのではないかと思うようになりました。
君原さんとかがいるチームに声をかけてもらえないかと、何とか合宿に参加させてもらって、初マラソンに出ることにもなりました。
オール新日鉄の合宿などにも参加して、順天堂大学でも練習をさせてもらう様になりました。

選手に求められる資質、
①おたくに成れ(一点集中力)、
②出る杭は打たれるが出過ぎると打たれないが、物凄く孤独になるので忍耐力が必要になる、
③継続は力なり。

パラリンピック
陸上競技、各障害ごとに別れている。
25クラスある。
脳性まひの車椅子は二つあり、脳性まひでも立てる人のクラスは4クラス有ります、低身長の人、足を切断した人とかにいろいろ別れています。
視覚障害では、3つに別れていて、T(トラック)-11,12,13 数字が大きいほど軽傷で、11は全盲クラスで伴走者が必要、12は手の形が判る程度から視力が0.03、13は視野が直径10度、弱視。
クラス別けは公認の資格が必要でその人たちが決定します。(平等にする)
100mを10秒5台で走る人がいて、本来は伴奏するのにタイム差が1秒無いといけないと言われているが9秒5台はいないので10秒2とか3の人がガイドをやります。
1500mは全盲で3分台で走ります。
日本盲人マラソン協会設立が1984年です。
初めて視覚障害者マラソンでパラリンピックに出場したのがソウル大会(1988年)
29歳の時に、突然アトランタ(パラリンピック)に行くように言われました。
柳川春己さんがバルセロナで日本代表になったが、伴走者が痙攣して失格となってしまいました。
伴走者は2時間30分台の方でした。
柳川さんが2時間50分ぐらいで走っていて、20分台の人でないといけないと言う事で、当時日本では100人ぐらいでした。
人がいなくて困っている時に私が目に留っていく事になりました。

最初に私は何にもできませんと柳川さんに謝って、手引きの仕方などを教えてもらって、群馬に行きました。
柳川さんがお風呂に入っていて、石鹸が無いと言う事で、コンビニに買いに行って、渡そうと思ったら、真っ暗な中で鼻歌を歌ってシャワーを浴びていました。
ロープを持って走ることは知らなくて何回やっても出来なくて、手を繋いで走って日本新で走りました。
柳川さんは日本人初の金メダルを取り、帰ってきました。
4年後は連覇の可能性もあるので、その時の一番いい人を選んでほしいと言ったのですがシドニーにも行く事になり、アテネで高橋勇市さんが又金メダルを取りまして、この時は私が一緒に走った福原良英さんが4位で、保科清さんが5位で1,4,5位という黄金時代でした。
国としてパラリンピックに力を入れようと動き出したのは実は2005年からでした。
これまでは自費、自腹、有給休暇、欠勤などで対応してやっていました。

オリンピックとパラリンピックが正式に一緒になったのは、2008年の北京からです。
その結果として商業主義の流れが入ってきまして、クラス別の100mの決勝がいくつもあっても駄目なので削って行く方向になりました。
盲人マラソンは真ん中の弱視のクラスに統合されて、全盲のクラスが無くなりました。
ルールは障害の重い選手は出てもいいことになり、その結果惨敗でした。
2008年監督で付いて行きましたが、16,19,21位で惨敗でした。
ここで始めてチームとして合宿するようになり、ロンドンでは4,5,7位となりました。
和田選手、高橋選手は全盲で5位、7位です。(全盲では1,2位の成績です)
リオでは銀、銅メダルという事になりました。
リオでは当日37度になりましたが、事細かく戦術を立ていてその通りに実行ました。
今は東京を目指して頑張っています。

指導者は必要なのか、上を目指すために練習量が増えていきます。
私は走る時で年間1万km、走る月で1000km越える様なことを10年間やってきました。
練習も強い人とやったりしますが、試合は結果が出ません、身の丈を越えてしまって駄目になる。
休めない、怪我しても駄目になるのではないかと、恐怖との戦いになります。
体と心に有する指導者が必要ではないかと思います
今は情報過多、色んな事が直ぐ判るが、自分の体なのに人に頼ってしまう。
その結果どうしたらいいのか判らなくなってしまうので、ぶれない指導者が必要。
指導者は①洞察力、②現場力、③行動力が必要。
強化、育成する壺
①意識改革(選手を鼓舞する)②自己記録の更新(選手に寄り添う)③チーム力の向上(陸上もチーム)
特に③は重要
a、年間を通じて安定した練習会をする、切磋琢磨
b、強化合宿の実施(一緒に練習して一緒に食べる、何を考えているか判る)
c、協力者の育成確保(次世代)

障害者スポーツとは、何かを考えてほしい。
①企業からの理解と支援とは? 社員にするの契約社員にするの?
②職場の受け入れた時のハード面、ソフト面どうなの?
③介助してくれる人達に対する支援はどうするの?
大学、学校、地域からの理解、支援は
①学校教育でパラリンピック、パラスポーツをどうやって伝えるか?
②指導者養成、普及活動はどうするか?
③部活動、どうするか?
④地域からの理解支援をどうするか?
⑤地域と共存するってどうするのか?

「障害は個性である、失った機能を数えるな、残った機能を最大限に生かせ(グットマン博士の言葉)
日本に約障害者は788万人いると言われる、1/17人が障害者です。(多いと思うか少ないと思うか)
「何ができないのではなく、何ができるかを見つけ出せ。」
ルールや道具を工夫することで、一緒にスポーツを楽しめる、これは大事なことです。
こういう事で人間の可能性を引き出せる。
物事に挑戦したり、目標を達成する事に年齢、性別は関係ない、ということ実は障害者スポーツは実践している。
今からでも挑戦はできる。
①スポーツは人と人を結びつける、誰とでも普通に接する。
②障害者スポーツを見て感動する、これは大事です。
③健康体で有れば何でもできる、そういう事に感謝を持つ。
④道具、ルールなどを工夫して共に生きる。(共生)