2016年11月19日土曜日

堀木エリ子(和紙作家)     ・手漉(す)きの伝統を現代に生かす

堀木エリ子(和紙作家)     ・手漉(す)きの伝統を現代に生かす
54歳 京都に工房を構える和紙作家、建築インテリア向けに基本サイズが2m70cm×2m10cm、畳3畳分、最大で11m×4mという大きな手漉(す)き和紙や立体の手漉(す)き和紙を製作、何枚もの和紙を重ねて後ろから光を当て文様を浮かび上がらせる等、これまでの和紙のイメージを変え数々の賞を受賞しました。
作品は成田国際空港第一ターミナル到着ロビーの照明のオブジェや、大阪の万博公園迎賓館の光壁、京都の上七軒歌舞練場の緞帳等のほか各地の公共施設、ホテル、大型商業施設などで展開しています。
2000年のハノーバー国際博覧会の日本館では手漉(す)き和紙で作った自動車を展示、実際に二人乗りで会場内を走らせ見学者を驚かせました。
高校を卒業して、銀行員として働いていた堀木さんはある偶然の出会いをきっかけに和紙の世界に入りました。
モットーは御縁とパッションと言います。
手漉(す)きの伝統を現代に生かす情熱を語っていただきました。

建築やインテリア用として作るので大きいです、畳3畳分で一枚漉きで漉きます。
10人掛かりで、職人5人スタッフ5人で作ります。
穴のある紙は水滴によって穴をあけてゆき、自然な形の穴があき、ひきこみながら紙漉きという作業をします。
紙の繊維にしては太い物が通っていますが、紙の原料のこうぞの茎(しろかわ)をそのまま使っています。
たたみいわしの様な感じで作ります。
水滴が一つ落ちただけで穴が開いてしまい損紙となってしまいますが、損紙として捨ててしまうのはもったいないと思って、全部に水滴を打てばいいのではないかというのが発想です。
殆どの時間はカッパに長靴をはいているか、ヘルメットに安全帯を占めて現場に行っていると言うのが多いです。
作品で照明を前から当てた時と後ろから当てた時とは全然違う。
障子は日本の美学そのものですが、太陽光線が介在して影が濃くなったり薄くなったり、紅葉の赤い光が障子越しに差し込むとか、室内から満月がそこはかとなく感じられると言うのが日本人の独特な情感とか移ろいの世界なんですね。
日本家屋から受け継がれてきた伝統の所以だと思います。

私たちが作る和紙は何層からも作られていて、表からの照明では表面の一層しか見れないが、裏からでは何層も浮き上がってきます。
照明のいろいろな組み合わせで移ろいを楽しんでもらえる。(現代のビルの窓のないようなところでも光の移ろいを楽しめる)
越前和紙を漉いていますが、越前和紙は美術紙が得意でした。
和紙の上に柄を重ねて文様を作っていくと云うのが越前では昔から行われていて、昔から二層で行われていたが、何層(3~7)迄も重ねて奥行き感を更に出します。
日本の和紙は薄く均一に漉けるということが可能になります。
多層に漉くと細かい泡が無数に発生するが、乾燥すると気泡が破裂してしまい和紙にならないので、職人さんはできないと云うんですが、全部吸えばいいと思ってストローみたいなもので吸えば泡が無くなることが分かり苦労しますが、そうすることによって泡の解消をしました。

面積が大きいので水を揺らすことができないので、揺らす原点に戻り考えて、繊維と水をすくって揺らすから繊維が絡まり、繊維が絡まるから繊維が強い、そのものを動かさないで、水と繊維を掬いあげて、水を道具の上で動かせば繊維は絡まると思ったんです。
技術を簡単にする、道具もその辺に売っているものを使って、若い人にも簡単にできる様に、未来に伝統を繋いでゆけるようにとも考えています。
最初、フェルトペンで手書きで書いて、その後コンピューターでスキャンして、出力して、原寸(10mとか)で出力して原寸で確認します、それが型紙になり、紙を漉いて行きます。
手漉きで漉くからこそ偶然性があり、偶然性が3割、こうしてやろうという人間の作為が7割で素晴らしいものが生まれてきます。
どうやったら3割の偶然性が生まれるかを考えて、10人指揮しながらやっています。

私は人間に大事なものは二つしかないと思っていて、御縁とパッション(情熱)だと思っています。
ディスコで名物おじいちゃんがいて、そのおじいちゃんから声を掛けられて、銀行員だったら、事務、経理が出来るんだろうと言われて、息子が京都で新しく会社を興すから経理として手伝ってほしいといわれて、たまたま手漉き和紙の商品開発の会社でした。
或る時、福井県武生に一緒行く事になり、そこは真冬でも暖房はいっさいなく、トロロアオイという樹液を使うので温度が高いと粘りが無くなってしまうので良くない。
水も氷水のようで、肘まで手を浸けて作業していて、その光景に衝撃を受けました。
その後その会社が2年間で会社は閉鎖してしまった。
機械製和紙とか洋紙の世界から類似品が出てきて、機械製和紙との価格差で駄目になってしまって、自分でやらないといけないと思ったのが24歳でした。

資金、知恵、経験、知識もなく、その中でやらなければ行けなくて、相談したところ一人知り合いが居ると言う事で、呉服問屋の人を紹介してもらい、25歳から始めました。
機械製和紙と比べて手漉き和紙の良さを探ってゆくと二つ見つかり、手漉き和紙は使うほど質感が増す、使っても使っても強度が衰えないと言う事でした。
祝儀袋は一回使うと捨てられてしまう、それをいかそうとしても駄目だと思って、インテリア建築だと言うふうに思い至たりました。
現代の家屋は大きく広くなっているので、大きく出来ないかと思って、新しく始める会社では畳3畳分と決めました。
デザインも紙漉きも会社経営もやってくれる人がいなくて、自分でやる様になりました。
最初知らなかったが、やって出来たことはいっぱいあります。(最初職人さんから抵抗も一杯ありました)

職人の精神性、白い紙が神に通じる、白い紙が不浄なものを浄化するという考え方。
祝儀袋、白い和紙の封筒にお金をいれてお祝い御礼を渡す、というのは御札を浄化してから人に渡すという事です。
障子を新しい綺麗な和紙に張り換えて、部屋の空気を浄化して、新しい年の神様をお迎えする行為なんです。
なのに海岸で取ってきた砂粒を入れたり水滴で穴を開けて色をいれるし、職人さんたちにとっては邪道だと言われるのは当たり前だと思いました。
説得は無理だと思って、兎に角継続だと思って通って、5年目ぐらいには段々理解してくれるようになってくれました。

1年目に3000万円ぐらいの赤字をだして、出ていけと言われました。
1年目でようやく大きな紙のことが理解され始めて、とにかく3年は継続してもらう様に説得しました。
しかし周り中からは作ること、経営など何にも知らないのだから、出来ないから止めろと言われました。
物作りの根底は、いつの時代も自然に対する畏敬の念と、命に対する祈りの気持ちから生まれてくるものだと、判りました。
土器は人形作りから機能を与えられて人の役に立つ物になったと云うことで、これを私の和紙に置き換えたらどうなるかと考えたら、人の役にはそのままだと立たないわけで、機能、用途をどう与えるかと考えた時に、燃えない、汚れない、破れない、色が変わらない、精度を上げると言う事に取り組まない限り、現代では役に立たないと云う事で、その仕事が始まりました。

私はプロの知識が無いが、プロとコラボレーションすることによってそれが実現してゆく。
だから御縁とパッションが必要になるわけです。
私達の立体の手漉き和紙は骨組みが無くて糊も一切使わない、紙を漉くという技術で行う。
道具を揺らさずに、水を動かして作ると言う手法です。
2000年のハノーバー国際博覧会の日本館では手漉(す)き和紙で作った自動車を展示しました。
二人乗りで会場を走りました。
和紙でないのは車を動かす機器とタイヤだけです。
愛知の自動車メーカーが次に愛知に来てくださいというキャンペーンの車として作った物で、2人乗りで最高時速が125km/hまで出て、会場は外なので雨にも、風にも、手垢にも、お尻の擦りにも耐えないといけない。
開発は大変でしたが、新しい事こそ未来への技術開発のきっかけがあると思っていたので、出来ないという考えはなかった。
「一番最初に出来ない」を捨てて、出来る前提でしか前に進めない。

私は要望に答えたいという思いがあるので、それを実現するのが目的です。
夢は東京オリンピックの聖火台を和紙で作りたい。
聖火は、祈りの明かり、ともしびが結集して、最後のランナーの火と一緒になって燃えるとか、素晴らしい聖火ができないかと考えています。