肝付兼太(声優) ・時代を創った声(8回目)
先日亡くなられた肝付兼太です。
10月20に肺炎のため亡くなられました。(9月19日にお話しを伺っています)
NHK「お母さんと一緒」の「じゃじゃ丸」や「ドラえもん」のスネ夫等長年演じてこられました。
初めてレギュラーを頂いたのがおばけのQ太郎で、その関係でドラえもんが始まった時も、最初日本TVで始まってジャイアンでした。
TV朝日に映ってスネ夫になったんです。
家族といる時より長かったです。
先生のキャラクターはそれぞれの代表なんですね、凄く良いバランスです。
26年続けてやっているうちは自分もスネ夫になり切った様な感じでした。
26年目に終わると言った時に物凄く淋しかったです。
みんなもドラえもんの誕生日には同窓会をやろうと言っていましたが、なかなか集まれなかったです。
藤本先生はドラえもんは出来れば未来永劫続けていきたいと言っていまして、引き渡すなら今ではないかと26年目にバトンタッチしました。
終わってしまって、最初はTVを見るのが厭だった。
じゃじゃ丸は16年。
オーディションを受けに行って、運よく受かりました。
藤子不二雄先生の作品の中で最初に演じたのが、1965年放送のおばけのQ太郎のゴジラ、ジャイアンの様な虐めっ子。
緊張して最初楽にできなかった。
歌を歌う場面があり指定された曲でなくて、降ろされても仕方がないと思いながら、はやった歌を変えて歌で歌ったら、先生は喜んでくれました。
セリフを何とか言葉にしなければいけないと言う事ではなくて、もっと自由なイメージを持たないとアニメーションて膨らまないですね、それで楽になりました。
アドリブをするようになって、藤子先生の作品に多く出る様になりました。
アドリブは番組を壊してしまう場合もあるので、出鱈目だと駄目です。
「のびたのくせに生意気だ」という言葉も手を叩いて先生は喜んでくれました。
子供のころはラジオッ子でした。
「話の泉」、「二十の扉」、「三つの歌」とか、ラジオドラマとかを聞いていると、絵が無いだけにイメージがわきます。
スタジオに見に行って、仕事が将来ここで出来れば良いなあと思いました。(中学1~2年の頃)
演技の勉強をしなければいけないと思って、劇団に入りました。
デパートに就職して、10月まで働いて辞めて、失業保険をもらいながら演技の勉強を始めました。
(22~23歳)
NHKの「婦人の時間」があり、先輩が出られなくなり代役をやることになり、クリーニングの御用聞きの役割をしました。(デパートを辞めた後の仕事でした)
アルバイトも色々やりました。
映画のオーディションを受けて、受かって、アルバイト先の医者の先生達から選別をもらったり奥さんから背広をもらったりしました。
有楽町で6人ぐらいで靴磨きのアルバイトもしました。(半月)
或るお客が歯医者の先生で、それが元でアルバイト先が変わって歯医者の先生のところに行くようになりました。
アルバイトをやって、人に会って話すことが楽にできるようになりました。
TVでアニメをやるようになって、結構出演するようになりました。
当時は声優という言葉が無くて、声優としてはっきりしていたのがNHKの放送劇団でした。
セリフだけおっかてしまうと通りいっぺんで全然詰らなくなってしまって、自分の想像力とイメージを持つ事は演技することと一緒です。
苦労、大変だったと言う様なことは感じなかったですね。
歌は苦手だったが「お母さんと一緒」で何年も歌っていると譜面が読めるようになりました。
何でもいいから物にして行くと言う、気力は持った方がいいですね。
自分でも劇団を持って、年3回の公演しています。
稽古は嘘をつかない、と相撲で言いますが芝居でも同じです。
延べ700人以上を指導してきました。
早い人は1回来ただけで辞めてしまう様な人もいました。
誰でもそうなんですが、勉強し始めた人が結果を求め過ぎる。
そうすると消えて行ってしまう。
10年頑張れと先輩から言われましたが、何をやりたいのか自分がしっかり判ればそんなに焦ることはない、と思います。