黒口縣市(さぬき市在住) ・94歳、元・整備兵が語る戦時体験
戦時中は整備兵として、搭乗員、機長を陰で支える 任務で木更津、サイパン、テニアン、ラバウルの間などをとびまわっていました。
今年は戦後70年、長く沈黙していた昭和18年12月27日の空輸作戦での不時着体験を語っていただきます。
最初は40人集まった戦友会も20年前には人が集まらなくなって、中止した。
機械いじりが好きで、戦車、飛行機か考えたが、飛行機関係の整備兵になった。
故障したものを直したり、維持してゆくためにいろいろ掃除、燃料補給、点検などを含めた仕事。
96式輸送機 輸送専門のセクションにいた。
両翼に4000L ドラムカン20本分ぐらいを供給する。
「大空の迷子」著書執筆
17年1月に海軍にはいって、2年後の出来ごと(昭和18年12月27日)
木更津からラバウルまで行く予定の飛行コースで、5機編隊の艦上爆撃機を運んでいく予定だった。
テニアン島経由でラバウルまで行く予定で有ったが、発見されない様に低空飛行で進んでいたが、天候が悪くて、飛行経験のない兵隊ばっかりで、一旦戻って来て、再び向かうが、雲の上では天候は良いが、発見される可能性がある。
運搬する飛行機は燃料容量が少なくて、燃料切れで落ちてしまった。
誘導の一番機と我々の飛行機がはぐれてしまった。
落ちてしまった飛行機を探すために海面近くを飛んだが、一番機が我々を確認出来なかった。
我々二番機はぐるぐる回っていたために方向が判らなくなってしまった。
夜になって、燃料が少なくなってきて、無線機も連絡が取れない状態になってしまっていた。
私は整備兵で何も言えない立場だったので、何も言えなかった。
島が見えたらその近くに降りようとしていたが、降りたところが八丈島の近くだった。
島のどの程度の位置に降りるかと言う事が問題だったが、良い位置に着水する事が出来た。
遠すぎても潮に流されるし、近過ぎてもトラブルが起きる可能性がある。
機長ほか艦上爆撃機運搬用整備員等14名が搭乗していた。
艦上爆撃機は落ちてしまったので、その搭乗員は亡くなってしまった。
八丈島の漁船に助けられる。
この事故については話す気にはならなかったが、戦争中のことを知っている人がいなくなっているから一遍話した方がいいと思って話すことにした。
我々二番機4人と、一番機4人に対して臭いものにはふたをしろ言う事で、木更津の輸送機隊から南方の司令部の輸送機隊に転勤したわけです。
19年5月 赤十字マークが入った船が台湾の高尾から佐世保への病人の最後の引き上げで、敵の潜水艦にやられない様に、対潜哨戒の仕事もあった。
やっぱり戦争は無い方がいいと言うのはつくづく感じます。