2015年5月15日金曜日

安原修次(植物写真家)        ・私の人生二毛作、野の花写して30年

安原修次(植物写真家・日本野の花の会主宰)       ・私の人生二毛作、野の花写して30年
昭和11年群馬県中之条町生まれ、中之条高校を卒業後、砂糖製造工場に就職、或るときに映画「二十四の瞳」を見て感動し、先生になることを決心します。
働きながら受験勉強して、千葉大学教育学部に入学します。
大学卒業後千葉県内の小中学校で教鞭を取り、48歳の時に一大決心をして野の花を撮影する植物写真家になります。
「野の花は地域皆の宝」と言うのが、安原さんの永年の思いですが、野山に花が咲くころには軽自動車に乗って全国各地を回って花の写真を取り続けています。

少年時代、親が冬炭焼をしていてときどき手伝いをしていたが、熊が出る様なところで家から1時間ぐらいかかるが、恐くはなかったし、楽しかった、いろんな動物に出会えるから。
それが今の仕事に非常に生きてくる。
未知のところに登るのがわくわくしていた。
映画「二十四の瞳」を見たら、涙がボロボロ出てきて、俺は先生になるんだと思って、教員になりました。
あの映画を見なかったら自分の人生どうなっていたのかわからない。
親は「お前なんか先生になれるか」と言われて、猛勉強した。
地元の群馬大学は滑ってしまったが、千葉大学には受かった。
授業料免除を申請して、授業料は免除になり奨学金を貰えた。
最初、小学校3年生を受け持ち、日曜日には子供達と自然の中で一緒に遊んだりした。
子供からもいろいろ教わった。

趣味で写真を撮るようになって、からすうりの花を何時咲くのか調べたら、夜咲くのが判って、写真を子供に見せたら、子供が吃驚して夜一緒に見ることにした。
自然の不思議、花の不思議を子供達と一緒に学んだ。
夜7時半ごろから咲き始めて、白い色でレースのような花が咲く、開いた時は10~15cm、朝になるとしぼんでしまう。
子供達には日記を書かせるようにして、花の絵を描かせた。(文章が考える力、絵が見る力を養うことができる)
48歳で教員を辞めるが、収入が無くなるし、生活が大変になるとは思ったが、野草ブームで、綺麗な花、珍しい花は取られてしまうので、残念でしょうがなくて、記録に残さないといけないと思って、
清水の舞台から飛び降りる気持ちで決心をした。
船橋の先生をやっているころに1冊自費出版したが、結構評判が良かった。
「風車」 クレマチスの原種で絶滅危惧種で校舎の裏の雑木林で咲いていたので吃驚した。
10年ほど前に市の花に指定された。

①政令都市を12都市、都市周辺と ②普通の山野との二つに大きく分けて、この30年間写して纏めてきた。
30年間続いたと言う事は、花が楽しいんです、それが本にすると、他の人に喜んでもらえる。
「野の花は地域皆の宝」ですよと、訴えてきた。
阪神淡路大震災の2年後に、神戸の花の本が出来て、被災者の人に大変喜ばれたが、その体験が残っていて東日本大震災の時に、最初は花を見ると言う様な事は出来ないが、2年経つと心の余裕ができてきて、花を見るゆとりができてきて、3年前が三陸、2年前が浜通り、の2冊を作った。
三陸は津波に耐えた「はまなす」、福島では「浜昼顔」
花は人の心をいやしてくれる。
「大津波 原発事故にも 負けず咲く はまひるがおに 生きる力を」

三陸の場合にはすぐ近くまで護岸工事が始まって、はまなす等は厳しい。
浜昼顔の海岸は工事で掘り起こさないでほしいと、野田村ではお願いして大丈夫でした。
2万枚近くの絵ハガキを作って、仮設住宅に配ったりしてきた。
本は学校に寄付したい。
野山を歩く事は健康にもいいし、精神的なもの、綺麗だなあと思うと疲れも忘れる、だから花は有難いと思う。
健康は大事なので腕立て伏せを歳の数だけ行う、79回。
たわしで皮膚を擦ることもやっている。(医者に聞いてクリームを塗ってやっている)
食べ物は大事なのは玄米は原則、薬草茶も飲んでいる、自然の恵みを享受している。

花を通して皆さんに喜んでもらったり、本を作って後世の人に見てもらって、少しでも役立てばいいと思います。
北陸、白山の草花を撮って本にしたいと思っている。
「今日もまた どんな花と 出会えるか 心浮き浮き 3時に眼覚め」
花は恋人と思っている。