本橋成一(写真家・映画監督) ・格差社会から協力社会へ(2)
炭鉱を取材した理由は?
重森弘淹さん(著名な写真評論家)がやっている写真学校が有り、行きたくなって、2年の時に卒業制作を作らなくてはいけなくなって、悲惨な物を撮らなくてはと思い、炭鉱の事は何も知らなくて、「追われゆく鉱夫たち」(上野映信)という当時ベストセラーだった本を読んで、上野先生に話を聞こうと思った。
面識はなかったが、上野先生に所に行く。
私をあちこちに連れて行ってくれて、教えると言うわけではなくて、暗黙のうちに教えられた。
その後も通い出して、5年近くかけて撮ったのが、平凡社の太陽と言う雑誌に写真集を出して、それに賞を頂いたが、それが私の写真の原点になったと思う。
写真を撮る以前の、撮る側がどこに軸足をもって向き合うか、と言うのが一番大切なことだと言う事を上野先生から教わったと思います。
だれでも知らない人に写真を撮られるのは、嫌なものですが、決して貴方の事は裏切らないぞと言う事が写真を撮るときに思う事です。
相手が嫌がる時にはシャッターを押さない、どうしても撮りたかったら話しけかて、それでもわかってもらえない時は止めると言う事ですね。
3・11の時に若い人が写真を私のところに持ち込むが、悲惨な風景とか、壊れたものとかばっかりで、もうひとつそれだけではないものを撮ってほしいと思って、「又来年持ってきて」と言います。
なんかメッセージが込められるような、写真になるのではないかと思ったが、2年目だれも持ってきてくれなかった。
上野駅の取材、サーカスと一緒したりしたが、いろんなものが豊かになって行って、大事なものが無くしたんじゃないかと言う事がたくさんあって、そういうものを撮っておきたかった。
東京ではなかなか弁当を広げるところはないが、上野駅ではどこで弁当を広げても人の眼が気にならなくて、居心地がよくて、舞台になる様な、幕あいがたくさん生まれる場所だった。
写真集に出てくいる登場人物も、プラットホームに新聞紙を敷いてカップルがご飯食べていたり、東京駅ではなじまない。
列車での男女の別れなど、見ているだけでこの男女がどういう状況なのかと言う事が見える。
上野駅も建物がどんどん変わって来て、いろんな店が並んでたたずむ場所では無くなった。
新幹線の大宮駅ができる3年前しか撮る時が無いと思った。
合理的に模様替えをしてしまうと、そこでは生産性みたいなものになり、無駄っていいと思うんですが、駅って佇む所にしないといけないと思うが、段々と綺麗になってしまって、東京で唯一の広場だと思っていたが上野駅も変わってしまって残念だと思います。
サーカスの写真集も上野駅を撮った流れの中にある。
小沢昭一さんが「芸能東西」と言う期間限定雑誌を出された時に、写真ページを作ってくれて、その時にいろんな大衆芸能を含めて連載させてもらったが、その中にサーカスが有り、サーカス特集の時に長くサーカスに通って、写真を撮って一冊にまとめた。
サーカスのメンバーの人達とも親しくなった。
旅すると言う事がうずうずする。
移動して巡回してゆくという巡業の様なことも出来なくなってきた。
私が出会いたいと思ったのは70歳になっていても、芸をやっている人の生きざまが良いんですよ。
芸を見てると、決して派手で巧いというわけではないが、彼女の人生の物語みたいなものが芸の中に出てくる、そういうものに出会うことができた。
一枚の写真から、一本の映画から、見ている人がイマジネーションがわいてくるような、写真、映画が撮れたらいいなあと思います。
チェルノブイリの写真、映画 こんなに悲惨なものをこんなに綺麗に撮っていいのだろうか、という事を言われたことが有りますが、楽しそうな家族、綺麗な風景の中からいろんなことを想像して貰えればいいなあと思います。
「原爆の図」で有名な丸木位里・俊さんご夫妻の写真を撮っていた時代が有りますが、小学生を案内するが、或る子が「私は原爆を体験していないからよくわからないんですけど」と言ったら、俊先生は「原爆に会っていたら貴方はそこにいませんよ、でも貴方の持っている物の中に想像力という凄いものをもってるのだから、私たちの絵を見ていろいろと思って」とおしゃったことがあるが、子供はいろんなイマジネーションを浮かび上がらせるので、恐いと言うだけでなく核兵器は良くないって想像してもらうと良いなあと思います。
「ナージャの村」の映画から綺麗だけれど、新しいイマジネーションが涌く映画ができたらいいなあと思っている。(事故発生の5年後 1991年に製作)
ベラルーシ 高汚染地区で住んではいけないと言う強制移住地区、勧告地区の二つの地域を撮った。
りんごを収穫するところから映画は始まるが、とっても綺麗な映像。
放射能に依って故郷が無くなると言う事がとても悲しいことだった。(3・11でも同様)
「アレクセイの泉」映画 何故か泉の水は放射能を含んでいた。
地下水で100年 200年も溜まっていて奥に在るのが出てくるので汚染されていないが、だけど100年後も綺麗な水がわいてくるかと言ったらそれはだれも判らない。
どうして引っ越さないのと聞くと、お婆さんたちは私が命をお返しするときに、水をその村にお返ししたいでしょう、というが意味が判らなかった。
お婆さんたちは故郷のこの土地からは離れられないと言う。
アレクセイは村に残るが、その理由をこう言っている。
「村で生まれた者は、たとえ町へ出て行っても、いつも村に心を寄せている。
運命からも、自分からも、どこにも逃げられない。 だから、僕もここに残った。」
「もしかしたら泉が僕を留まらせたのかもしれない。
泉の水が僕の中に流れ、僕を引きとめている。
泉が人々に故郷に戻るよう引きよせているだろう。」とも言っている。
人間は70%水で出来ているので、おばあちゃんたちは水を借りていると言っている。
地球上で生物が使える水は0.003~0.006%と言われるが、ごくわずかで順繰り順繰りに飲んでは返し飲んでは返しして、命を皆保っている。
命を亡くす時に大地に70%返すわけで、「借りている」という言葉が謙虚、凄いなあと思った。
大地から受けた知恵、与えられた知恵、その辺が映画の中で言えたような気がする。
ニコライ老人
「天国はいらない、故郷がほしい」という。
役人がそろそろここを出ていきなさいと言うと、詩を朗々としゃべりだす、故郷はそのぐらい天国よりも農民にとっては、とても大切な聖地だと言う事を映画を撮っていて思いました。
事故後29年になるが、鉄骨とセメントで囲ったが(石棺)、ひび割れてそこから放射能が出てくる。
今、ドームを作っていて、すっぽりかぶせて100年持たせて、100年のうちにいまだに燃え続けている放射性物質を取り除こうという、計画で始まったばっかり。
地図から村の名前は抹消された。(住めない) でもそこは故郷ではある。
本来人間の持っている、触るとか、臭いをかぐとか動物的行動がどんどん削られてきている。
如何にも人間が一番すぐれている生き物だと思うが、それはちょっと思いあがりで、もっともっといろんな能力を蓄えた動物たちが沢山いる。
たまたま頭で考えたりすることに長けていたのが人間だったけれども、生きることに関してはそれぞれいろんな生き物たちが学んできたのだから、人間だけが優れていると言う事ではないと思う。