保阪正康(作家・評論家) ・昭和史を味わう (第16回)太平洋戦争の日々(2)
特攻隊員とその遺書
特攻隊員の遺稿、手記を色々読んできたが、彼らがどういう想いでこの戦略に参加したのか、ずーっと疑問に思ってきたが、軍事の問題ではなく、日本人の文化、死生観と関わり合う問題という様な気がする。
3つの視点
①特攻作戦とは具体的にどういう作戦なのか。
②この戦略はどうして採用されたのか。(他の国に例のない作戦)
③参加した特攻隊員たちは何を考えていたのか。
①特攻作戦とは具体的にどういう作戦なのか
日本は軍備では連合国とは全く話にならないほどの開きがある。
軍備の差を人間で埋めてゆく、人間が爆弾になる。
人間が操作してぶつかってゆくので立派な物を造る必要が無く、戦費が無い日本が経済的に考えてもこういった武器しか作れないと言う事で行われた人間爆弾だと思う。
昭和19年10月25日、特攻隊第一陣 海軍兵学校の70期生関行男隊が最初に行く。
関さんは、「こういう作戦を取るようであれば日本ももう終わりだな」と言った、と言われる
フィリピン・レイテ海戦の時に出掛ける。
それ以後、沖縄戦まで続くが、延べ4000人が特攻作戦に従事したといわれる。
100%の死と言うのは、軍事作戦の上では全く常識外れ、有り得ない作戦だと言われる。
軍事指導者たちの責任になる、いろいろ問題を含んでいるところ。
②この戦略はどうして採用されたのか。(他の国に例のない作戦)
一般的には海軍の第一航空隊司令長官中将大西瀧治郎が考えたといわれるが、必ずしもそうではなく、連合艦隊がドンドンアメリカと対抗できなくなる。
体当たり攻撃しかないのではないかと、自然に海軍の中で声が上がってきた。
決断はそのポジションにいた人が決断するわけで、それが大西瀧治郎だった。
戦争を終わった後で大西氏は自決している。
大西氏が亡くなったことに依って大西氏だけが、特攻作戦を主導したと言う様な形になっているが
ちょっとそれは違っているのではないかと思う。
陸軍も特攻作戦に呼応して行くが、陸軍は志願にしようとするが、現実には命令で本人が断れない状況に追い込まれる。
③参加した特攻隊員たちは何を考えていたのか。
学徒兵、昭和18年学徒出陣 大学教育を受けていたが、途中でやめて軍に入った人達。
少年兵。(志願兵)
重要なのは陸軍士官学校、海軍兵学校とか軍人の中からは特攻作戦には従事させなかった。
ここに国の指揮官たちの意識があったと思う。
「きけわだつみの声」
特攻隊の手記、遺族の話も聞いているが、涙なしに語れないことが多い。
慶応義塾大学経済学部学生だった上原良司さん 特攻隊として亡くなる。
遺書などを書き残しているが「きけわだつみの声」にも一部掲載されている。
自分を自由主義者であると、軍事国体制に納得していないという形の遺書になっている。
しかし、この時代に生まれた以上、命令を受けたからにはそれに従うという遺書が残っている。
歴史への遺言だと思う。
「生を受けてより20数年、何一つ不自由なく育てられた私は幸福でした。・・・御両親様に心配をおかけしたのは兄弟の中で一番でした。 それが何の御恩返しもせぬうちに、先立つ事は心苦しくてなりませんが、忠孝一本、忠を尽くすことが孝行する事であるという日本においては、私の行動をお許しくださることと思います。
私は明確にいえば自由主義に憧れていました、日本が真に永遠に続くためには自由主義が必要であろうと思ったからです。
これは馬鹿な事に聞こえるかもしれませんが、それは現在日本が全体主義的な気分に包まれているからです。
しかし真に大きな目を開き、人間の本性を考えた時、自由主義こそ合理的な主義だと思います。」
京都大学学生 林市蔵さんの遺稿 林さんも母親もクリスチャンだった。
父を早く失い母親一人の手で育てられた。
遺稿はクリスチャンとしての信仰で書かれている。
「お母さん とうとう悲しい便りを出さねばならない時が来ました。・・・お母さんのことを思うと泣けてきます。 安心させることも出来ずに死んでゆくのがつらいです。・・・私もいつも傍らにいますから、楽しく日々を送ってください。お母さんが楽しまれることは私が楽しむことです。
全てが神様の御手にあります。
神様のもとにある私たちにはこの世の生死は問題になりませんね。私はこの頃毎日聖書を読んでいます。・・・私は聖書と讃美歌を飛行機に積んで突っ込みます。
私はお母さんに祈って突っ込みます。 お母さんの祈りはいつも神様が見そなわしてくださいますから、私は讃美歌を歌いながら敵鑑に突っ込みます。」
本来検閲で残らないが密かに母親に送っていた。
クリスチャンとして天国で母と会おうと言っているところは、この遺書の重いところでうね。
聖書と讃美歌を積んでいって、讃美歌を口にしながら航空母艦にぶつかって行くという事ですからその覚悟と言うものは信仰の中で矛盾を抱えながら亡くなって行ったんだと思いますね。
国民向けの特攻隊に向かう一般兵隊の人の時のラジオ放送が二つ有るが、上記2人とはだいぶ違うニュアンスです。(陸海軍が公認した国民向けの放送であろう)
特攻隊員の突っ込む間際の記録があるとは海軍の参謀達から聞いている。
無線機がON状態になっており、記録はあるが燃やしてしまったと言うが、個人記録メモは残っていて、「今日もまた、海軍の馬鹿野郎といって散華するものあり、いかなることが有っても部外秘」
最後に恨みの言葉で亡くなって行った。
こういう書けない事はいくつもあったのかと聞いたらあったと、こういう書けない事はいっぱいあったと、言っている。
時代の中で作戦に自分が加わることの悲しさを言っていったものもいる。
特攻隊員のかなりの人は心の中では納得できないと、思いながら、仕方ないのかと呟きながら亡くなって行ったと思う。
冷静にこういった作戦は正しかったのか、こういった作戦に依って人はどれだけ傷つくのか、こういった作戦は日本の伝統的文化、死生観に反するのではないか、と言う問題意識を持たなくてはいけないと思う。
軍の上層部の命令した責任は重い。
特攻隊の人たちは、自分たちを最後にしてほしいと、自分がこうやって亡くなる事によって、日本が平和になり、日本はこれを生かして世界に誇れるような国になってくれと書いていますので、その気持ちをくみ取らなければいけないので、単なる英雄としてのみ見るのは、彼等に失礼だと思う。
或る老人が私を訪ねてきた人が来て、人払いして話をしてくれました。
特攻の知覧での整備兵で、勇躍果敢に出撃する人はほとんどなく、失神したり、失禁したり、呆然自失、涙を浮かべたりしているのを見ましたと。
それを私は飛行機に乗せたんです、そのことによって罪の意識は捨てきれないで戦後生きてきましたと言っていました。
特攻作戦にかかわった人達は皆苦しんで生きている、その苦しみを我々は忘れてはいけない。
特攻と言う作戦は軍事的には問題だったということを前提にしながら、より精密に見てゆく事だと思う。