2015年5月11日月曜日

大橋一章(早稲田大学名誉教授)   ・飛鳥仏に魅せられて

大橋一章(早稲田大学名誉教授)   ・飛鳥仏に魅せられて
72歳 早稲田大学文学部美術史を専攻した大橋さんは、ほどなくこの教室を作った会津八一さんを知りました。
書家、歌人、大学教授、奈良美術の研究者であった、会津八一は飛鳥になんども足を運び、仏教美術を研究してきた先人です。
その影響を受けた大橋さんは、飛鳥、白鳳、天平時代の美術作品の調査研究を重ねてきました。

法輪寺、三重の塔は昭和50年に再建されたが、飛鳥時代からたっていた塔は昭和19年に落雷で焼けた。
何となく高校時代に和辻哲郎さんの「古寺巡礼」、亀井勝一郎「大和古寺風物詩」を読んで、仏像、古い建物にあこがれる。
当時、スポーツもしたが本を読むことが一番好きだった。
法隆寺は作られて50年~60年で焼けてしまったが、再建される。
仏教美術は建物が無いと残らないが、その後1300年間はずーっと来ているので、その中で保存された文化財は現在まで来ているが、これを伝世古というが、法隆寺には伝世古がたくさん残っている。
それ以外の寺は、たいてい火災で焼けてしまって元通りにはならない。
一般の寺は一度火災に会うとほとんど文化財等なくなっている。
法輪寺の三重塔だけは現代までにつたわってきた。
仏像は650年前後の仏像が二体残っている。
様々な文献資料に出てたり、一つ一つ読み解いてゆく、これは本当に感動です。
判らないことを明らかにしてゆく事は人間なら誰でも持っている好奇心なので。

斑鳩を歩く様になって50年ぐらいになる。
昭和53年に早稲田大学専任講師になってから35年間では、毎月奈良に来ました。
「大和号」という夜行列車が有り、東京駅で夜に乗り、朝奈良の駅について、ひよし館と言う古い旅館に泊って朝から晩まで廻る。
高松塚古墳が見つかって、飛鳥ブームが起こりそれから自転車が使えるようになったが、それ以前は無くて全て足で歩いた。
「橘寺駅」だったが高松塚古墳が発見されてから「飛鳥駅」に名前が変わった。
明日香村は建物、田畑等、規制して風景を守ってきた。

仏教は古代日本人にとっては文明だった。
百済から日本につたわり、飛鳥寺が中心地に建てられ、大伽藍だった。
飛鳥大仏、我が国最初の仏師が作った本尊で、鎌倉時代に落雷のために飛鳥寺が全焼してしまうが、その時に全身に火を浴びてしまう。
そういう事から完全な姿では残っていない。
飛鳥大仏を造ったあと、法隆寺の金堂にある、釈迦三尊像を造るが、これは造形的には完璧だと言っていいぐらい、素晴らしい彫刻です。
今まで見てきた日本の古代の仏像、百済、中国の三地域の仏像の中で一番素晴らしいと思います。

会津八一先生は 明治41年に奈良を訪れて仏像、古い建築の美しさを見たときに、おそらく絶対的な美を探していたようだ。
欧米人は一番の根源にある美は、ギリシャ美術だと言っているがそういうものに代わるものは日本にはないのかと考えて、奈良を訪れて、そういうものを考えたのではないかと思う。
英語の先生をやりながら、書家、歌人でもあったが、才能もあったかもしれないが、努力の人だと思う。
書については小学校に入った時は、習字の時間は恐怖の時間だったと言われ、書けなくて泣いたと言う訳です。
左利きなので、右手に筆をもって書くわけですが、最初水平線、垂直線をそれこそ物凄く時間をかけて努力したそうです。

奈良に歌碑が20基ある。
歌碑を作るときにもうるさかった、この大きさの石はこの大きさの紙にどのあたりから文字を書くかとか、文字のデザイナーでもあった。
歌も万葉調のものと評価されるがそういう風に評価したのは斎藤茂吉だった。
くわんおん の しろき ひたひ に やうらく のかげ うごかして かぜ わたる みゆ」
(観音の 白き額に 瓔珞の 影動かして 風渡る見ゆ)
(本尊の十一面観音  瓔珞は仏像の胸の表面に垂らしている装飾など 冠から瓔珞が出ていて(ここでは宝冠から垂れている紐の様なもの)が、額に掛かっていて風が吹いて来て、冠の飾りの紐が揺れている様。)
昨年法隆寺に歌碑ができた。
ちとせあまり みたびめぐれる ももとせを ひとひのごとく たてるこのたふ
千年余り三度めぐれる百年を一日のごとく立てるこの塔)
聖徳太子1300年忌(大正10年)を祈念して詠ったもの
法起寺中宮寺にも三重の塔がある。(法輪寺を含めて斑鳩には3つの三重の塔が有る)

会津八一先生は芸術の眼をもっており、文芸の世界では才能があり、小学生の頃から俳句をやって新潟で子供の頃は良寛の歌に接していて、奈良にきて俳句から歌に変わってくる。
研究はあとから来た方が有利なので、会津八一先生には迫ろうという気持ちはいつも持っています。
研究も努力以外の何ものでもない、年に1つは論文を発表する様にしている。
研究はちょっとでも休むと駄目、毎年書かなければと自分に言い聞かせながらやっている。
退職したが、ぼけない限りは死ぬまでできる仕事だと思っていて、良い仕事を選んでいたと思う。
会津八一先生は学問と芸術の両分野に、そういう風にやってきたろうと思います。
会津八一先生は学問、書、歌も先生がいない、すべて自分の努力でやってきた人で、今の時代と違って凄い人だと思います。
屋根の四隅についている風鐸 (風輪の大きな様なもの)が鳴っているのが聞こえる。