2015年5月7日木曜日

坂上和子(NPO法人・理事長)   ・病気の子ども達が輝く遊びを届けて

坂上和子(NPO法人遊びのボランティア理事長)     ・病気の子ども達が輝く遊びを届けて
もともと保育士でしたが、夫の病気でやむなく仕事を止めました。
子育て中心の生活をしていた時、元の同僚から声が掛かり、病院や家庭に出向く訪問保育士の仕事を始めます。
病気でも遊びを通して成長する子供たちの姿に心を動かされたと言います。
その後坂上さんは病院で子供達を楽しませる遊びのボランティアを始めました。
現在はボランティアからNPO法人の組織にして、新宿区を中心に東京と千葉の合計6つの病院でコーディネーターをしています。
6月で活動25年目を迎える坂上さんの道のりは決して平坦ではありませんでした。
こんごは入院している子供達に遊びだけでなく、入院生活そのものをよりよくしたいと活動している坂上さんに伺いました。

子供のベット数が27ぐらいあるが、その中で遊べる状態の子供が何人いるか教えてもらう。
現在ボランティアが70人いるが、4グループに分かれて、赤ちゃんがいれば保育士や育てた経験のある主婦などが、伺う。
病院のベッドで本を読んだり、歌ったり、おもちゃで遊んだりしています。
小学生ぐらいだとトランプなどしたり、遊んだりしています。
様々な年齢に合わせたおもちゃ、ゲームなどをしています。
30万円の助成を頂いておもちゃなどを買っています。
遊びを通して成長してゆく姿を見るという事はとてもこのボランティアのいいところであり嬉しい気持ちです。
母親からも凄く喜ばれています。

コーディネーター 学生、先生、音楽、絵、編み物等が得意な人、いろいろスキルをきちっと掴んでおき、子供とボランティア双方がマッチングする様にする。
病気の状態等を考えて優先順位を決めて、看護師、ボランティア、子供の様子を見て3者をコーディネートするのが私の仕事です、この仕事は現在私だけです。
30年前主人が入院 子供が小さく、子育て、介護、仕事をこなすのが大変で、子供が夜泣きをしたり、不安を体で表す様になり、体力も気力も限界に来ていて退職するしかないと思った。
天職だと思っていたが、保育に関する本などもすべて処分した。
国立国際医療研究センター (ボランティアを始めた)が 家の近くに有った。
小児がんで入院している子がいて、(悪性リンパ腫)1回行こうよと言われて、「ゆっくん」のところに行く事になる。
母親と親しくなるなかで、交流が始まるが(弁当を持って行ったり)、「ゆっくん」は亡くなってしまった。
2年半の付き合いだった。
この経験が凄く大きかった。

「歩みの家」(障害児の通園施設) 在宅訪問の非常勤の募集が有り、ある看護師から勧められる。
手話の学校にも行っていたので、一旦断るが、保健所、病院行ったりして子供や母親を助ける仕事で、地域とつないでゆく仕事であり、受けることにした。
週に3日 訪問保育士として仕事を始める。
発達の遅れの有るお子さんに対して、遊びの様子を見ながら、母親と障害の受容ができるように、保育園につなぐという仕事、病院などにも入って行った。
対象は長期であるというのが条件で、生まれた時からずーっと保育器にいる人がいた。
おもちゃで遊んだりするようになり、話をするようになり、友達と眼を合わせてにっこり笑う様になり、社会生活ができて、母やも感謝してくれました。
遊びを通して人と交わることが重要だと思います。

保育士、セラピスト等仲間がいてボランティアを立ち上げました。
婦長さんは、歩みの家の先生と遊んでいる子供達は普段の様子と違う、嫌いな薬を我慢して飲んだり、ストレスを発散している笑顔を見て、母親自身も明るくなったと言う事で、是非お願いしますという事で、遊びのボランティア誕生しました。
95年に「病院で子供が輝いた日」を出版して、読者から来てほしいと頼まれた。
1日2つの病院を回って、帰宅が夜10時を回ることがあったり、自分の子供に対して、家庭にしわよせがあったり、2000年に離婚したが、そのようなことが原因だったかもしれません。
46歳で大学に入学する。
人生仕切り直しをした。 
離婚を期に財産を4分割したら300万円有って、何かに投資できないかと思った時に、大学に行きたいと思って、昼夜開校制の明治学院大学、社会福祉学科に行く事になった。
働きながら大学に通う事にしました。

中高年で勉強するのは楽しいものだなあと思いました。
社会福祉士の資格が取れたこと、NPO論でボランティア活動をNPOにしてゆく授業があり、それがNPO設立につながって行って、大学に入ってよかったと思う。
2006年にNPO法人を設立。
提出する書類、会計もきちんとしなければならず、仕事量が大変多くて、難しくて、家計も大変で貯金通帳も10万円も切ってしまって、大変だった。
交通費200円も払うのが大変で、自転車を利用して賄ったりした。
雨の中自転車で家に帰って来て、タオルで顔を拭いたりしたが、雨なのか、涙なのか判らないほど
泣いたが、泣くだけないたらすっきりして、雨がやんで夕日が射してきてとっても美しい夕焼けだった。(涙ながらに話をする)

学生の時に「夜と霧」を読んで、ユダヤ人の人たちが収容所で憔悴しきっている生活をしていても夕焼けをみて、なんて綺麗なんだろうという風に語り合うシーンがあるが、それを思い出して、絶対に私には明日があると、その時は何のこれしきと自分に言い聞かせて、自分の人生の第3幕は始まったと思います。
大学の先生が、今後2年間の生活を寄付させてくださいと言ってきてくれた。
もっと病院の仕事に邁進してほしいと言われた。
その他に企業から寄付があったり、ホームページを作ってくれる人もいて、広報はとても大事で、活動が理解されるようになってきた。
製薬会社の人が400万円を4年間継続して、私たちに頑張ってほしいと応援してくださった。
子供のころから崖っぷちに立たされた経験があるが、その都度不思議と人に助けられたと言う事が有ります。

小学校2年に母が亡くなり、葬式もしないし、焼き場で灰になった母親を抱いて、その歳で無常と言うものを感じて、これは受け入れるしかないという経験をする。
父はアル中で暴君みたいな人で父も蒸発して、いなくなり親戚の家を転々として、子供ながらに遠慮する生活をして、兄が中学生になって、妹と3人で1960年上京した。
学校の帰りにデパートをふらついていて、エスカレーターに頭を巻き込まれるという大きな事故が有り、それがきっかけで児童養護施設に入ることになる。(5年生の時)
カトリックのシスターが経営する施設で、サンティイナ・グロッシというイタリア人の施設長で、手を大きく広げて「お待ちしていましたよ、貴方がたは神様の大事な子供で安心してください」と言って私を抱きしめてくれて、「大事な子供」と言われたことが、私の頑張りの根本ではないかと思います。
(涙ながらに話をする)
よその子供の為に体を張って守ってくれる大人は、私にとっては出会ったことが無かった。
眼の前にいるこの方たちは、そういう方だったという事は体験として凄く人生を変えるような出会いだったと思います。

施設では大人も入れて、乳児から高校生まで300人ぐらいの大所帯だった。
毎朝ミサがあり、演劇、精神的な強さを養うために登山、キャンプ、スポーツ等積極的に取り入れていた。
子供達が自立する、精神的に強くなる、人に対して優しくなる、運命が受け入れられるようにと言う教育を徹底してやってくれました。
シスターたちは子供達のために日夜貢献してくれて、非常に大きな愛と言うものを感じることができた。
日本の孤児救済のために懸命に働いてくださるという姿は本当に大きいものでした。
私の今の核になっています。
家族は小さくなっていて、病気になっても十分に子供に付き添えないという様な状況が入ってきたり、看護師さんも決して大人数で当たっているわけではないので、もっと病院が市民と一緒に入院している子供達の入院環境を作っていく様な、システムが整っていけばいいなあと思っている。
アメリカ、カナダに視察に行っているがボランティアが病院にたくさん入っている。

300床程度でカナダでは1200人のボランティアを抱えているが、日本では100人程度ではないかと思う。
日本ではなかなか病院にはボランティアを入れる事はない。
むこうではボランティアは病院の宝だと言っています。(駐車場、食事等がただになる特典がある)
海外のレベルに近づけたい。
1000万円の寄付をしてくださった方がいて、「お婆ちゃんの家」のような部屋の家賃にして、病院の近くで、そこでサラダとか弁当を作ってお母さん達にはこぶとか、子供が集まったり、付き添いのお母さんが一休みできる様な場所が有ればいいなあと思います。
病気は人を選ばないし、少しでも子供の笑顔がみたいと思うので、いろんな分野の人たちと一緒によりよくしていきたい、そういう病院にして行きたい。