長谷川健一(酪農家) ・我が”飯舘村”を語り継ぐ
61歳 仮設住宅で避難生活を続けています、
震災まえは牛50頭を飼い、4世代8人の大家族で暮らしていました。
原発事故で家族はばらばらとなり、今は妻のはな子さんと両親の4人で暮らしています。
事故の記憶を風化させたくないと、全国を回って自らの体験を語り継ぐ活動を行っています。
本来5月下旬は牧草を刈り取る作業が有り一番忙しい時期になります。
一番自分でも困るなあと思う事は牛を忘れてゆく事、酪農をやっていたことを忘れない様に思っているが、忘れてゆく事が恐い。
地震の時は畑が波のように揺れて、あわてて家に帰ったが、牛が叫び声をあげていた。
飯館村は地震、津波の被害はなかった。
浜通りの人、浪江町等の津波の被害の人々が避難してきて、炊き出しなどして対応していた。
3月11日から停電になってしまっていて情報が伝わらなかった。
原発事故で大丈夫ではないと判ったのが、3月14日だった。
3月15日説明会をするため皆が集まったが、その日は雨でその後雪になってしまったが、その日が実は一番放射能が高い時だった。
子供は絶対に外へ出すな、肌を露出するな、必ずマスクする、玄関先で服を脱ぐ様に、、風呂に入って体を綺麗に洗う様に、外の野菜などは食わないように、いろいろと指示を出した。
飯館村の酪農家は駄目になるなと、直感した。
新しい子牛の牛舎が出来たのが前年(2010年)の12月だった。
息子も牛のコンテストのチャンピオンになったりして、それも励みになっていた。
牛を処分する順番を決めるのが、切ない思いが有った。
牛には番号が付けてあり、年老いた牛、おなかに子供が入っていない牛、等から処分を決めざるを得なかった。
しかし、良い牛が生きられる保証はなかった。
息子が一人で最後だからと言って、新しいロープを牛のために作っていたが私もぐーっとくるところが有った。
牛は放射能で汚染している可能性があると言う事で牛は移動しては駄目ですよ、人間は早く避難して下さいと言われて、牛は餓死させるよりは処分する方を選ぶ結果になったんです。
殺す方法以外に何か方法はないかと、牛乳のモニタリングをやろうとして、3回やって3回目には放射能は検出限界以下であることが判った。
5月20日に県にも言ったり、国会議員にも言って、牛を生かしてくださいと言って、、25日には飯館村の牛は移動してもいいですよと言う事になった。
飯館村の牛は全部で300頭ぐらいの内、60頭が処分されたが、残りは助かって、一つのエリアに集めることになった。
相馬市の酪農家で私の友人が自殺してしまった。
言葉が出なかった。
原発さえなければ、と言う書き置きを残して彼は逝ってしまった。
原発事故からのいろいろな出来事、友人の自殺などから、このようなことを二度と繰り返してもらいたくないとの思いが有り、語り継いでいかなければだめだろうと言う事で、11年7月5日早稲田大学で第一回を始めました。
写真、映像などで撮り続けることが大事だと思って、避難の実態、除染の実態、会議のやり取りなど撮り続けています。
屋根の瓦、壁をペーパータオルで一枚一枚拭いているが、こんな作業で放射能は取れるのかなと思うし、農地の表面の土を5cm取り除き、其部分に汚染されていない土を5cm盛って線量は下がったと言いますが、それから半年ぐらいすると段々線量が上がってくる、当初の線量までは上がらないが。
福島県伊達市に現在仮設住宅に住んでいます。
ここが一番良かった、大きな病院、大きなスーパーが近くに在り、仮設住宅の周りに既存の住宅が有る事、それによって老人の交流が生まれる。
小さな空き地を使って、皆で畑で野菜などを作っていて、物々交換みたいなことをやっているが、これは非常によかったと思っている。
長男は原発事故で酪農家を辞めざるを得なかった5人の仲間と一緒に法人組織を作って、福島県最大規模の牧場をやろうと言う事で始めました。
次男はアパートで会社員として一人ぐらしをしています。
故郷をうばわれる、故郷に戻れない、自分の家も土地もそのままの状況で段々朽ち果てていく、こんなつらいことはないと思います。
放射能は全てのものを汚してしまう。
セシウム137が無くなるまで300年掛かると言われているが、私の孫、ひ孫でも取れないので、何代にもわたっても元の生活を取り戻せないことが非常に大変なことです。
避難解除になった時にどうするか、子供たちは戻らない、賠償は打ち切られる、我々はどうするのか、なんで食べてゆくのか、飯館村には3500ヘクタールの農地が有るが、其れをどうしてゆくのか、別のストレスがたまってきている。
もう同じ福島を作らないでほしい、我々のような思いはもう沢山だ、その一言に尽きる。
原発災害は全てのもの(人の身体、家族、村等)を壊してしまう。
地震、津波などは壊されても元に戻そうと皆がたちあがって頑張ろうと纏まってくるが、放射能災害はばらばらになってゆく。