本橋成一(写真家・映画監督) ・格差社会から協力社会へ(1)
昭和15年東京生まれ 九州、北海道の炭坑の人びとを撮った写真集「炭鉱〈ヤマ〉」を1968年に刊行、以来「サーカス」「上野駅」「築地魚河岸」「大衆芸能」等を市井の人の生き生きした姿を撮り続けてきました。
映画監督を務めた作品には、チェルノブイリ原発事故の被災地で暮らす人々を撮影した「ナージャの村」「アレクセイの泉」などが有ります。
「アラヤシキの住人たち」最新映画 舞台は長野県小谷村(おたりむら) 真木集落
400年前から村はあった様で、40年前に廃村になり全員村を降りた。
宮嶋真一郎先生が中心にそこに共働学舎を建て、世の中からはみでた出た人たち、いろんな人たち十数名が住んでいる。
ボランティア、OBたちが田植えなど、人出がかかるときには手伝いに来るところです。
年4回、5回女子大生が3週間ぐらいの研修の場になっていたり、国際ボランティアの外国人も年に10人ぐらい来ます。
茅葺き屋根の家が新しい屋敷で、アラヤシキ
ドキュメンタリーとして描いている。
時間がゆったり過ぎてゆく、自然の時計が有って、都会とは違う時間の流れが有り、農業が中心で、種をまいたり、刈り取ったりする時間がそこに組み込まれて、ヤギとか生き物たちの時間もあって、毎日が過ぎてゆく。
宮嶋真一郎先生は私の中学、高校の恩師です。
先生は羽仁とも子創設の「自由学園」の一期生だった。
卒業後も共働学舎に通ったり、お付き合いさせてもらった。
先生がよく言っていたのは「競争社会よりも協力社会だ」と言う事です。
いろんな人間がいるので、協力と言う事が一番大切だと教えられました。
得意なもの、不得意なものをお互いが理解し合って、住民たちの住みかを作っていこうと言うものです。
「自由学園」では、机を作ったり、那須に農園をもっていたのでそこにいったり、植林をしたりしていました。
勉強をする人もいましたが、私はそちらの方が好きでした。
宮嶋先生は眼が悪くなっていく病気をもっていたので、50歳の時に自分のやりたかったのを立ち上げたのが「共働学舎」で、今は北海道に2つ、東京に1つ、小谷、真木にあります。
真木は山の中で農業をしたり、それぞれバラバラなことをして、宮嶋先生の理想郷にあこがれてそこで働いています。
真木には5年前から行き出した。
私は高度成長の真っただ中に成長したので、それなりに嬉しかったが、写真を始めようと思ったころから、なんか変じゃないかと思った。
それが真木だった、真木への歩いてゆく1時間半の山道がタイムトンネルのように感じた。
映画を撮ってみたいと思う様になった。
5~6人のスタッフとともに住みこんで、一緒に暮らしたので、撮影のない時は手伝ったり、一緒に酒をのんだりした。
「共働学舎」の住民はラジオ体操も全員がばらばらで、だれが障害が有る人でどの人が障害がない人かは分からないで、だれがちゃんとしたラジオ体操をしているのか判らないのが、又いいんですね。
宮嶋先生の言葉
「貴方と言う人は地球が始まって以来、絶対いなかったはずです。
貴方と言う人は地球が滅びるまで、出てこないはずなんです、私はそう思っています」
この言葉が新屋敷にぴったりだと思って、自分自身にとってもこの言葉が楽しくなって、自分と言う人間は自分一人しかいないと言う、そして生きると言う事を大切にしようと、宮嶋先生の言葉が頭を回り出して、映画を撮ることが始まったと言う事です。
私が小学校時代は、新屋敷に出会ったおじさんたちみたいな人が沢山いたような気がして、よく怒られたり、よく笑われたりしたが。
「世界は一つ、人類はみな兄弟」とTV、ラジオなどで聞いて巧いこと言うなと思ったが、外国に出て仕事ができるようになってどうも違うのではないかと思う様になった。
大切な事は相手が大切にしている事を判ってあげると言う事ではないでしょうか。
新屋敷はそういう点では、ここには理想郷があったなあと思う事すら思った。
生産性を重んじる社会になってくると、ここでは通用する事が外では通用しないことがたくさん出てくるが、タイムトンネルをくぐると皆許されるというか、皆勝手にやっているのがいいですね。
番木を叩いて、ご飯、おやつ、仕事の終りだとか、時を知らせるようになっているが、1か月もいるとだれが叩いているのか、叩き方でだれが叩いているか、機嫌がいいか悪いかも判ると言ってました。
次女(楽ちゃん)がダウン症で生まれた時は吃驚したが、自分の住んでいる町で育てようと思った。
保育園、小学校、中学校と地域の中で楽を育てることができたが、それはとっても良かったと思う。
大人になると、皆一定の枠が出来てそこからはみ出るのが、障害というレッテルを貼られるが、障害と言う言葉は止めて、違う言葉で言い合ったらいいのではないかと思う。
小さい時から一緒に暮らせば、何でもなくなるが、合理的にある一定の速さで能率よく運ぼうとすると邪魔になってくると言うか、街の中からどっかに押しやられてしまうと言うか、本当はもう少しゆったりと暮らせばもっと面白い社会が出来るのではないかと思います。
「アラヤシキの住人たち」 それぞれが違うよと言うことが大事と言うか、一人ひとりが地球が始まって以来、他にはいないという存在、そしてゆったりとした自分の時間が有る。
クニさん、イトウチさん 二人揃って日曜日に街に降りてゆくが、なにしに行くかと言うと、コーラを飲みたくて一杯のコーラを飲んで、又1時間半掛けて帰ってきて、「おいしかった」という、その価値観が凄くいいなあと思ったですね。
紙の上の教科書だけではなくて、触ったり、臭い嗅いだり、土いじり、動物との交わりによって、ここでは改めていろんなことを感じる、そういうことがとっても大切だと思う。
共働学舎の取り組みが40年続いていて、宮嶋先生の次男(信さん)がここの共働学舎の責任者で、北海道で国際的に有名になっているチーズ作りを長男の望さんがやっていて、福沢さんが中心で、毛利さんが責任者で豚を飼っている。
彼らは私の「自由学園」の後輩にあたります。
宮嶋先生は92歳で亡くなりましたが、大きな方でした。
私たちが撮影している時に若者が一人入ってきて、何時の間にかいなくなって大騒ぎしたが、1年経って戻ってきて、ミーティングをやって、どういうことだと言ったが、「帰ってくることの許されるのがここの決まりなんだから」という信さんの言葉と、クニさんの「いいんじゃない、今忙しいし、人出もないからいいんじゃない」という言葉で、無断で出ていったことが許されて、そんな柔らかい社会です。
今の時代は、ドンドン便利性があって明るくなってきたが、ドンドンそれが経済、生産性に結び付けられていうわけで、もうそろそろマイナス計算でゆっくり行くようにすればいいんじゃないかと思いますが、そう思うと共働学舎はぴったりと思います。