桂 歌丸(落語家) ・声の出る限り 噺家人生65年(後編)
振り返ってみると落語にはめでたい話はない、全部失敗したりするもの等がある。
小話、忠臣蔵の主役の人物、陰の主役は天野屋利兵衛 討ち入りの時に、衣装などを整えた人。
露見して、町奉行松野河内守助義に取り調べられた時に、「天野屋利兵衛は男でござる」と言ってガンとして、口を割らなかった。
大石内蔵之助が病になって天野屋利兵衛が見舞いに行った時に、ゆすっても起きなくて、やわら大石蔵之助が寝とぼけたものか、かいなを掴んで、布団の中に引きずり込もうと思った。
驚いたのが天野屋利兵衛、飛び下がって両手をついて「天野屋利兵衛は男でござる」(笑い)
笑点 5月半ばで丁度50年目、司会者としては5代目、立川談志、前田武彦、三波伸介、先代円楽、そして私です。
談志さんが拵えた番組で、笑点の前身があって、金曜夜席と言いまして、プロレスが盛んなころ隔週にあって、談志さんがオーディションをやった。
私は紋付き袴で高座に上がって、前座がもりそばを持ってきて黙って盛りそばを食べて、手拭いで口の周りを拭いて、「おそばつさまでした」と言って降りてきた、それが受けました。
寄席で談志さんが大喜利を見ていて、それをヒントに金曜夜席が始まった。
先代円楽、春風亭梅橋(先々代の小痴楽)、三遊亭金平、漫才の和子・西〆子の西〆子、私等が出て談志さんが司会で金曜夜席をやり2年弱やって打ち切りになり、半年後に笑点が始まった。
長く続くのは家族全員で安心して見ていられる番組ではないかと思う。
悲惨な事故、陰惨な事件は一切触れてはいけないと言う事がある。(決めてはいないが)
座布団を取ったりやったりは全部司会者任せになっている。
司会者のユーモアセンス、人情が絡んだ判断材料等がある。
しゃれの通じない人間が増えてきて、円楽さんが私のことを攻撃するが、カンカンになって怒る手紙が来ることがある。
繋ぎに悪口、けなしが出たりするんで了解してほしい。
落語の世界は上下の関係が厳しい、一日違いでも先輩は先輩なのでキチンと守っていかなければならない世界です。
舞台に並んだ以上は同格だ言う事で、後輩という事で引かれてしまうとさめちゃう、楽屋に入ると皆さんちゃんとしています。
土台作りは凄い肝腎なことです、杭は一番硬いところまで届いていなかったらぐらついちゃいます。
笑点の高座ではわあわあやっていますが、楽屋へ入ってからは先輩後輩であり、立てることは立てちゃんとしてくれるし、こちらもちゃんとします。
「褒める人間を敵と思え、教えてくれる人、注意してくれる人を味方と思え。」今輔師匠から教わりました。
或る程度木になった時に、褒める人間は揃っている芽を切るのと同じ、これでいいのかと止まってしまう。
教えてくれる人、注意してくれる人は、足元に水を肥料をやって、木を育てて葉を付け、花を咲かせ、実を結ばしてくれる人。
でもこれは難しい言葉ですよ。
修身を復活してほしいが、その代わりに落語を聞く事だと思います。
義理人情が細かく入っているのが落語だと思います。(何かの時に気がついてくれればいい)
先代円楽さんの具合が悪くなって透析をするようになって、落語家を引退する事になり、「歌さん、頼む」と言われて、その一言でやる様になりました。
司会をやってどう変えるのかと言われたが、変えないと言いました、変えようと思っては失敗する、自然に変わってゆく事で波に乗ると思っている。
落語を残したい、会長職になっているので、或る程度は人の見本にならなければいけないとは思っている。
今は若い女性の人が多くなってきています。
笑点から落語を聞く世界に入った人が結構いるようです。
噺家としてはTVで落語をやる場合は会場のお客様を主にしてはいけない、TVの向こう側を主にしなくてはいけない、という教えを受けました。
ラジオでやる場合はTVへ出ていると思え、耳だけなのでTVに出ている様な心持で身振り手振りでやらないと、絵が浮かばない。
扇子が刀に見えないと、自分の芸が未熟なので、形、歌舞伎を見ろといったことにつながってくる。
欲を言えば浮かんだ絵に色がついてなくてはいけない、(白黒から総天然色にならなくてはいけない)
汚い話ほど綺麗にやれと、柳好師匠から言われました。
東京と地方の寄席でやる場合には私は地方の方が間を空けます。
40年ほど前に独演会を年に5回始めたが新作だと、2席ずつやるので作れない。
新作から古典に変えて見ようと思って始めて、古典に移って行った。
古典をやっていて、時間、お金で判らなくなってしまう事があります。
古典を残したいので誰かに継いでもらいたいと思っている。
海外での落語、ニューヨークでやったが、字幕をだしてやったが、笑いがちょっと遅れる。
大失敗だった、文法が違うので「さげ」が先に出てしまう。
パソコンで同時通訳するような方法でやり易くなった。
寄席を皮切りに噺家生活65年、笑点50周年と銘打って、普通の寄席ではやらない様なゲストを迎えてなんかやりたいなと協会と相談しているところです。
今輔師匠は人生の師匠であり、米丸師匠は芸の師匠で、歌丸という名前と顔を売ってくれた恩人は笑点だと思っていて、恩返しをしたいと思っています。
2016年4月30日土曜日
2016年4月29日金曜日
桂 歌丸(落語家) ・声の出る限り 噺家人生65年(前編)
桂 歌丸(落語家) ・声の出る限り 噺家人生65年(前編)
15歳でこの世界に入ってから今年で65年、古典落語の名跡です。
40代から幾度となく大病に見舞われますが、必ず復活して高座へと戻ってくる歌丸さんを仲間たちは不死鳥と呼んでいます。
歌丸さんが度重なる病を克服して落語の人生にかける熱い思いを伺います。
80歳になります。
自分では折り返し地点と思っています。
1936年昭和11年8月に横浜で生まれる。
昭和26年 5代目古今亭今輔に入門、今々亭今児と名乗って昭和29年2つ目に昇進。
昭和36年 4代目桂米丸門下になる、昭和39年桂歌丸と名乗り現在にいたる。
昭和41年 「笑点」大喜利メンバーとなる、昭和43年に真打ちに昇進、平成16年落語芸術協会の5代目会長に就任、平成17年芸術選奨文部科学大臣賞を受賞、平成19年旭日小綬章受章受賞
今年は噺家になって65年目、笑点は50年目になります。
病気のデパートと言われる、一番最初はヘルニアの手術(脱腸)、胃が痛いので見てもらったら胆嚢が機能して無くて胆嚢の手術、腰の手術を3回、肺気腫を患い入院、煙草を吸っていて3度駄目で、今は煙草は完全に辞めて、去年1月5日国立演芸場でしゃべっていて具合が悪くなってお客さまに謝って降りてきて、気がついたら病院のベッドで、寝ていて、インフルエンザを悪化させてしまって、2週間入院しました。
6月になって又具合が悪くなって、腸閉そくで入院しました。
どこの先生でも、転ばないでくれ、風邪をひかないでくれと言われます。
なんで腸閉そくになったんだと聞いたら、痩せてるからで肥ってくれと言われました。
痩せていると患った時などに治りが遅いです。
風邪にかからない様に、去年あたりから手洗いとうがいは絶対欠かせません。
毎年4月と8月は国立演芸場の責任を持たされているので、8月は三遊亭圓朝師匠のものをやることで、4月は変わったものをという事でした。
『塩原多助一代記』の「青の別れ」をやりましたが長いんですが、今年は多助が出世して店を出すまでをやりたいと思っています。
財産を埋めてておくだけでは何の役にもならないので、掘り起こして見て頂き、聞いていただいて財産は生きると思うんです、話を残すのも噺家の責任だと思っています。
三遊亭圓朝師匠のものは古いので自分なりに脚本を書かなければ行けないし、残っているのは三遊亭圓朝師匠の全集と昭和の名人と言われた師匠連中の音が残っているので、私は三遊亭圓朝師匠の全集と昭和の名人の師匠連中の音を参考に自分なりの三遊亭圓朝を考えていかないといけない。
残していかなくてはいけない、自分で選んだ道ですから。
おばあちゃん子だったので、芝居を見につれて行ってもらったが寄席に入った覚えがないです。
芝居の合間に漫才とかがあって、そういったものの方が面白かったです。
昭和20年代で暗い時代で、NHKのラジオで1週間に2回、寄席の番組があり、それをかじりついて聞いていました。
世の中笑いだなと思って、絶対噺家になろうと心に決めたのが小学校4年の時でした。
しつけは祖母からは厳しくしつけられました。
(お茶の入れ方、畳の端を踏まない、着物の畳み方、言葉使い等)
噺家になりたいとお祖母に言ったら考えこんでしまった。
相談してやりたいことをやらした方がいいと言う事になり、結局古今亭今輔師匠のところに行く事になる。
学校に通いながら師匠に習ったりして、見習い期間が無くて、学校卒業していきなり前座でした。
前座には大勢いますが90%は大学卒業です。
今輔師匠は厳しくなかったです。(掃除などはさせられなかった)
芸にたいしては厳しかった。
最初、歌舞伎を見ろと言われ、見ました。
話の間、何かのきっかけ、鳴りものを覚えろと言われました。
形、煙草の吸い形、身分、歳によって吸い方が違うのでそういったものもよく見ろと言われました。
見るもの聞くもの全部が落語だと思えと言う事が今輔師匠から言われた言葉でした。
前座の終りの頃、「江島屋騒動」を鳴りものを含めて教えてもらいました、
古典を継承させたかったんだと思います。
二つ目当時、今輔師匠には不満が無かったが、協会に不満があった。
予備、高座に上がれなくて、穴があいたら高座に上がれるが、二つ目にそういう事が多かった。
そういうものに不満があり、5~6人で協会に抗議しようと言う事で、給金が物凄く安くて、飛びだして振り向いたら誰もいなかった、私一人でした。
約2年近くブランクがあり、或る方が中に入って今輔師匠のところに謝りに行きました。
結婚していて、娘の赤ちゃんもいた時でメッキ工場に務めたり化粧品のセールス等をやって食いつないできましたが、大変貧乏していました。
おかみさんからも怒られまして、一遍飛び出したものを家に置くわけにはいかないので米丸さんの弟子になりなさいと言われました。
今輔師匠も若い時私と同様なことをやった様です。
米丸師匠には随分助けられました。
自分の子供が増えたと思えなかったら弟子を取るなと今輔師匠からは言われました。
私は弟子には自分の責任は自分で取れと言っています。
我々噺家は職人という気持ちをもたなかったらやって行けないと思っています。
周りから助けてくれることもありますが、最後は自分の努力だと思います。
苦労しないで楽をしようと思っても無理ですよ。
15歳でこの世界に入ってから今年で65年、古典落語の名跡です。
40代から幾度となく大病に見舞われますが、必ず復活して高座へと戻ってくる歌丸さんを仲間たちは不死鳥と呼んでいます。
歌丸さんが度重なる病を克服して落語の人生にかける熱い思いを伺います。
80歳になります。
自分では折り返し地点と思っています。
1936年昭和11年8月に横浜で生まれる。
昭和26年 5代目古今亭今輔に入門、今々亭今児と名乗って昭和29年2つ目に昇進。
昭和36年 4代目桂米丸門下になる、昭和39年桂歌丸と名乗り現在にいたる。
昭和41年 「笑点」大喜利メンバーとなる、昭和43年に真打ちに昇進、平成16年落語芸術協会の5代目会長に就任、平成17年芸術選奨文部科学大臣賞を受賞、平成19年旭日小綬章受章受賞
今年は噺家になって65年目、笑点は50年目になります。
病気のデパートと言われる、一番最初はヘルニアの手術(脱腸)、胃が痛いので見てもらったら胆嚢が機能して無くて胆嚢の手術、腰の手術を3回、肺気腫を患い入院、煙草を吸っていて3度駄目で、今は煙草は完全に辞めて、去年1月5日国立演芸場でしゃべっていて具合が悪くなってお客さまに謝って降りてきて、気がついたら病院のベッドで、寝ていて、インフルエンザを悪化させてしまって、2週間入院しました。
6月になって又具合が悪くなって、腸閉そくで入院しました。
どこの先生でも、転ばないでくれ、風邪をひかないでくれと言われます。
なんで腸閉そくになったんだと聞いたら、痩せてるからで肥ってくれと言われました。
痩せていると患った時などに治りが遅いです。
風邪にかからない様に、去年あたりから手洗いとうがいは絶対欠かせません。
毎年4月と8月は国立演芸場の責任を持たされているので、8月は三遊亭圓朝師匠のものをやることで、4月は変わったものをという事でした。
『塩原多助一代記』の「青の別れ」をやりましたが長いんですが、今年は多助が出世して店を出すまでをやりたいと思っています。
財産を埋めてておくだけでは何の役にもならないので、掘り起こして見て頂き、聞いていただいて財産は生きると思うんです、話を残すのも噺家の責任だと思っています。
三遊亭圓朝師匠のものは古いので自分なりに脚本を書かなければ行けないし、残っているのは三遊亭圓朝師匠の全集と昭和の名人と言われた師匠連中の音が残っているので、私は三遊亭圓朝師匠の全集と昭和の名人の師匠連中の音を参考に自分なりの三遊亭圓朝を考えていかないといけない。
残していかなくてはいけない、自分で選んだ道ですから。
おばあちゃん子だったので、芝居を見につれて行ってもらったが寄席に入った覚えがないです。
芝居の合間に漫才とかがあって、そういったものの方が面白かったです。
昭和20年代で暗い時代で、NHKのラジオで1週間に2回、寄席の番組があり、それをかじりついて聞いていました。
世の中笑いだなと思って、絶対噺家になろうと心に決めたのが小学校4年の時でした。
しつけは祖母からは厳しくしつけられました。
(お茶の入れ方、畳の端を踏まない、着物の畳み方、言葉使い等)
噺家になりたいとお祖母に言ったら考えこんでしまった。
相談してやりたいことをやらした方がいいと言う事になり、結局古今亭今輔師匠のところに行く事になる。
学校に通いながら師匠に習ったりして、見習い期間が無くて、学校卒業していきなり前座でした。
前座には大勢いますが90%は大学卒業です。
今輔師匠は厳しくなかったです。(掃除などはさせられなかった)
芸にたいしては厳しかった。
最初、歌舞伎を見ろと言われ、見ました。
話の間、何かのきっかけ、鳴りものを覚えろと言われました。
形、煙草の吸い形、身分、歳によって吸い方が違うのでそういったものもよく見ろと言われました。
見るもの聞くもの全部が落語だと思えと言う事が今輔師匠から言われた言葉でした。
前座の終りの頃、「江島屋騒動」を鳴りものを含めて教えてもらいました、
古典を継承させたかったんだと思います。
二つ目当時、今輔師匠には不満が無かったが、協会に不満があった。
予備、高座に上がれなくて、穴があいたら高座に上がれるが、二つ目にそういう事が多かった。
そういうものに不満があり、5~6人で協会に抗議しようと言う事で、給金が物凄く安くて、飛びだして振り向いたら誰もいなかった、私一人でした。
約2年近くブランクがあり、或る方が中に入って今輔師匠のところに謝りに行きました。
結婚していて、娘の赤ちゃんもいた時でメッキ工場に務めたり化粧品のセールス等をやって食いつないできましたが、大変貧乏していました。
おかみさんからも怒られまして、一遍飛び出したものを家に置くわけにはいかないので米丸さんの弟子になりなさいと言われました。
今輔師匠も若い時私と同様なことをやった様です。
米丸師匠には随分助けられました。
自分の子供が増えたと思えなかったら弟子を取るなと今輔師匠からは言われました。
私は弟子には自分の責任は自分で取れと言っています。
我々噺家は職人という気持ちをもたなかったらやって行けないと思っています。
周りから助けてくれることもありますが、最後は自分の努力だと思います。
苦労しないで楽をしようと思っても無理ですよ。
2016年4月28日木曜日
柳原尚之(料理研究家) ・和食を世界に(後編)
柳原尚之(近茶流嗣家(きんさりゅう・しか)・料理研究家) ・和食を世界に(後編)
次の訪問国ブラジル 日系人が沢山いる国で日系の方々にいろいろ助けて頂きました。
サンパウロ ブラジルの食文化を試めしたかったので大都市に行きました。
アニェンビー大学 調理科で講義、実演、試食を行いました。
ポルトガル語を勉強してこなかったので通訳をしてもらいました。
食の一汁三菜と良くいいますが、バランスのいい食材、普通海外の食事は1回の料理で7~8種類の野菜などを食べるが、日本では14~15種類の食材を食べるのでバランスがいいわけです。
お祭り、正月などの行事食も教えました。
料理に願いを込めると言う事は外国ではないです。
どうして黒豆を食べるのか、まめまめしく、健康的に、という事を英語でしゃべるのは難しい、今回は通訳をお願いしましたが。
そういった話に感激していました。
実演では真鯛が入るので、昆布しめにして刺身盛り、寄せ卵のお椀をだしました。
小池さんという現地の方に食材の仕入れから、試食の用意などもしてもらいました。
クリチバ(サンパウロから飛行機で1時間位内陸) 日系人が沢山いました。
婦人会の皆さんに料理教室を開きました。
30人と聞いていて食材等を用意したが、蓋を開けてみたら60人位出席しました。
NHKTVを見ることができて、私のことを知っていまして感激しました。
筑前煮、いんげんの胡麻和え、茶碗蒸しを作りまして、試食してもらいました。
筑前煮はお婆ちゃんの味がすると言われて嬉しかったです。
マリンガ 日系人のお祭りがありました。
10日間開催 2万人の人口ですが、10万人が来るそうです。
開会式で紹介してもらいました。
ここでも学生、婦人会の皆さんに料理教室を開きました。
ブラジルは日本料理が作り易いです、大体日本の食材が入手できます。
豆腐、油揚げなど現地で作っています。
ブラジリア 日本学校があり、そこで日本語で講義をしました。
IESB大学でも料理科の生徒に講義をしました。
18~70歳位まで幅の広い学生がいました。
一時帰国して次にカナダに行きました。
トロント 総領事館で40名ぐらいのゲストが来て講義と会食をしました。
トマトとだしの話、トマトのスープみたいな煮もの、いぶりがっことクリームチーズ、レッドスナッパー(赤い鯛の昆布しめの刺身仕立て)、鴨丸(鴨のひき肉を丸めたもの)、大根の料理、さわらの竜田揚げなど、食材は主に日本の輸入のものを使いました。
最後のしめはそばにしました。
芸術家の人達のゲストの人たちがたくさん来ました。(ピアノのオスカー・ピーターソンの奥様も来ました)
和食談議をして嬉しい夜を過ごしました。
「酒とバラの日々 "The Days of Wine and Roses"」 (曲が流れる)
ジョージブラウン大学でも講義をしました。
魚をさばいてもらったり、キャッチボール的な講義をしました。
教えてもらって作ったものをパック詰めにして、売ってしまいましたのには吃驚しました。
わさびを摺る方法も教えました、わさびは葉っぱの有る方から摺った方が鮮度がいいんです。
オタワの大学 カナダは英語圏とフランス語圏があるがオタワは両方です。
海外の料理は油と香辛料で味を決めてゆくが、日本料理は水と醗酵調味料で決めてゆくので、日本は軟水で硬水を使うと味が出てこない、水がいかに大事かを説明します。
海外でも柔らかいものを選んで使います。
軟水と硬水で使ったものをつくって、それぞれ味わってもらって、軟水の良さを知ってもらう。
カナダ産の松茸、ロブスターを土瓶蒸し、など現地での食材を使った料理を作りました。
現地にフィットした日本和食を残していかないと残っていかない。
アメリカ CIA(料理のほう) と二つ講習をしました。
魚の置き方 頭を左にすることなどを講義する。
4カ国回っていろいろ勉強になりました。
かつおぶし、こんぶの話をしてもこれは利尻昆布だとかを知っていました。
ただ写真でしか知っていない。
日本人も意外と和食を知らないで忘れてきている事を改めて思います。
次の訪問国ブラジル 日系人が沢山いる国で日系の方々にいろいろ助けて頂きました。
サンパウロ ブラジルの食文化を試めしたかったので大都市に行きました。
アニェンビー大学 調理科で講義、実演、試食を行いました。
ポルトガル語を勉強してこなかったので通訳をしてもらいました。
食の一汁三菜と良くいいますが、バランスのいい食材、普通海外の食事は1回の料理で7~8種類の野菜などを食べるが、日本では14~15種類の食材を食べるのでバランスがいいわけです。
お祭り、正月などの行事食も教えました。
料理に願いを込めると言う事は外国ではないです。
どうして黒豆を食べるのか、まめまめしく、健康的に、という事を英語でしゃべるのは難しい、今回は通訳をお願いしましたが。
そういった話に感激していました。
実演では真鯛が入るので、昆布しめにして刺身盛り、寄せ卵のお椀をだしました。
小池さんという現地の方に食材の仕入れから、試食の用意などもしてもらいました。
クリチバ(サンパウロから飛行機で1時間位内陸) 日系人が沢山いました。
婦人会の皆さんに料理教室を開きました。
30人と聞いていて食材等を用意したが、蓋を開けてみたら60人位出席しました。
NHKTVを見ることができて、私のことを知っていまして感激しました。
筑前煮、いんげんの胡麻和え、茶碗蒸しを作りまして、試食してもらいました。
筑前煮はお婆ちゃんの味がすると言われて嬉しかったです。
マリンガ 日系人のお祭りがありました。
10日間開催 2万人の人口ですが、10万人が来るそうです。
開会式で紹介してもらいました。
ここでも学生、婦人会の皆さんに料理教室を開きました。
ブラジルは日本料理が作り易いです、大体日本の食材が入手できます。
豆腐、油揚げなど現地で作っています。
ブラジリア 日本学校があり、そこで日本語で講義をしました。
IESB大学でも料理科の生徒に講義をしました。
18~70歳位まで幅の広い学生がいました。
一時帰国して次にカナダに行きました。
トロント 総領事館で40名ぐらいのゲストが来て講義と会食をしました。
トマトとだしの話、トマトのスープみたいな煮もの、いぶりがっことクリームチーズ、レッドスナッパー(赤い鯛の昆布しめの刺身仕立て)、鴨丸(鴨のひき肉を丸めたもの)、大根の料理、さわらの竜田揚げなど、食材は主に日本の輸入のものを使いました。
最後のしめはそばにしました。
芸術家の人達のゲストの人たちがたくさん来ました。(ピアノのオスカー・ピーターソンの奥様も来ました)
和食談議をして嬉しい夜を過ごしました。
「酒とバラの日々 "The Days of Wine and Roses"」 (曲が流れる)
ジョージブラウン大学でも講義をしました。
魚をさばいてもらったり、キャッチボール的な講義をしました。
教えてもらって作ったものをパック詰めにして、売ってしまいましたのには吃驚しました。
わさびを摺る方法も教えました、わさびは葉っぱの有る方から摺った方が鮮度がいいんです。
オタワの大学 カナダは英語圏とフランス語圏があるがオタワは両方です。
海外の料理は油と香辛料で味を決めてゆくが、日本料理は水と醗酵調味料で決めてゆくので、日本は軟水で硬水を使うと味が出てこない、水がいかに大事かを説明します。
海外でも柔らかいものを選んで使います。
軟水と硬水で使ったものをつくって、それぞれ味わってもらって、軟水の良さを知ってもらう。
カナダ産の松茸、ロブスターを土瓶蒸し、など現地での食材を使った料理を作りました。
現地にフィットした日本和食を残していかないと残っていかない。
アメリカ CIA(料理のほう) と二つ講習をしました。
魚の置き方 頭を左にすることなどを講義する。
4カ国回っていろいろ勉強になりました。
かつおぶし、こんぶの話をしてもこれは利尻昆布だとかを知っていました。
ただ写真でしか知っていない。
日本人も意外と和食を知らないで忘れてきている事を改めて思います。
2016年4月27日水曜日
柳原尚之(料理研究家) ・和食を世界に(前編)
柳原尚之(近茶流嗣家(きんさりゅう・しか)・料理研究家) ・和食を世界に(前編)
懐石料理の近茶流嗣家 嗣家というのは後継者という意味です。
柳原料理教室の副主催を務めています。
平成27年度は文化庁文化交流使として 8月から11月にかけてニュージーランド、ブラジル、カナダ、アメリカを訪ね、大学や高校を中心に講演やでデモストレーションを行いました。
雑煮は伝統的な江戸雑煮です、おすましに焼いた角餅、鳥、蒲鉾、小松菜、近茶流は海老が入ります。
近茶料理が200年前から代々伝わってきて祖父が近茶流と改めました。
東京農業大学の醸造学科、大学在学中は発酵食品学を学ぶ。
祖父、父も東京農業大学でした。
醤油、酒等醸造でないと出来ない。
卒業後小豆島の醤油会社の研究員として勤務しました。
実験と実際との違いを勉強しました。
オランダ帆船スワンファンマッカム号に乗船してキッチンを務める。
オランダ人主体ですがそのほかの国の人も多く乗っていました。
フランス料理が主体ですが、今の和食の仕事にも役に立っています。
柳原料理教室で日本料理を父と共にやっています。
2009~2013年まで東大寺のお水取りで練行衆(料理を作る隠者)を務める。
お坊さんは1カ月間東大寺の房にこもるのでその間精進料理を食べる。
ご縁があり中に入って精進料理の仕事をしていました。
3月に入ると本業に入るので、一日一食になるので食べる量、調理法も変わってきます。
前のメニューは昭和27年(食糧事情が悪かった)からずーっと同じだったが私が頼まれましてメニューを新たに考えました。
東大寺の江戸時代の文献などを見て昔に戻る様にして、品数も増えました。
2010年アメリカのカリフォルニア州にある大学で食の国際会議に参加。
日本の「だし」を英語で話しました。
39人のシェフが行きましたが、一番若かったです。
かつおぶし、こんぶなどについてどうしたら判り易く説明出来るのだとうかと自分でも勉強しました。
イスラエルで開催された寿司コンテストで審査員長を担当、2014年アメリカ フロリダ州で開催された文化庁、外務省主催の現代日本の工芸展で和食の専門家として現地で、講演、デモンストレーションをしています。
TV番組で料理の考証、所作指導を行っています。
文献を開いて料理を作ったりしました。
文化交流使 伝統芸能の方を選んで海外に派遣して日本の文化を広めてもらう。
2013年和食が文化遺産になり、料理の人を出そうと言う事になりました。
2013年は大学の先生、2014年は私が派遣されました。
3カ月行くわけで、日本のすべてを見せたいと思って、器なども選んで50人分持って行きました。
トランク4つと段ボール3つになりました。
学生さんたちに教えたいと思いましてニュージーランドが最初となりました。
4日間の和食講座で、一日は和菓子、3日間は和食。
1日目は日本の全体の文化歴史的なこと、2日目は実演(普通1時間だが4時間かけてやりました)
学生の手をもって包丁の操作などを教えたので喜ばれました。(外国では見せるだけ)
出刃包丁は魚をおろす、柳刃包丁は刺身を引く時の包丁なので薄くて細長くなっている。
切れ味があると刺身の劣化が遅くなる。(生臭さが遅くなる)
人が北を背に南を向いていて、太陽が上がるのが東で左に相当するので左に重きを置くのでご飯になる。 (南半球では違う事に気付いた)
鳥獣戯画の容器、塗りのお椀は人気があった。
同じだしでもスプーンで飲むのと口を直にお椀から飲むのも味が違う。
ニュージーランドは自分の中でも試行錯誤でした。
パーマストンノース 中学と高校が合わさった様な学校で5年生の学校で講義。
クイズ形式でやりました、日本で食べたいものを5つ?(寿司とか)、これはなんの機械か、4択?(流しそうめん) うどんの話をして「だし」の話にもって行きました。
よせ卵のお椀での試食もしました。
首都ウェリントンでの講義、ヴィクトリア大学では飲食ができなかったので一口のだしを飲んでもらいました。
皆さん、いい香りですと言っていただきました。
今は当たり前のように生の刺身を食べるようになり、日本の味にも慣れてきている様に思います。
ウェリントン工科大学では魚のおろし方に特化して話ました。
ニュージーランドは島国なので新鮮な魚が手に入りますので、魚のおろし方がいいのではないかと思い、ほうぼうが手に入ったので刺身の薄作りにして出しました。
教えると日本人は同じようにしますが、盛り付けになると自由に盛り付けていました。
懐石料理の近茶流嗣家 嗣家というのは後継者という意味です。
柳原料理教室の副主催を務めています。
平成27年度は文化庁文化交流使として 8月から11月にかけてニュージーランド、ブラジル、カナダ、アメリカを訪ね、大学や高校を中心に講演やでデモストレーションを行いました。
雑煮は伝統的な江戸雑煮です、おすましに焼いた角餅、鳥、蒲鉾、小松菜、近茶流は海老が入ります。
近茶料理が200年前から代々伝わってきて祖父が近茶流と改めました。
東京農業大学の醸造学科、大学在学中は発酵食品学を学ぶ。
祖父、父も東京農業大学でした。
醤油、酒等醸造でないと出来ない。
卒業後小豆島の醤油会社の研究員として勤務しました。
実験と実際との違いを勉強しました。
オランダ帆船スワンファンマッカム号に乗船してキッチンを務める。
オランダ人主体ですがそのほかの国の人も多く乗っていました。
フランス料理が主体ですが、今の和食の仕事にも役に立っています。
柳原料理教室で日本料理を父と共にやっています。
2009~2013年まで東大寺のお水取りで練行衆(料理を作る隠者)を務める。
お坊さんは1カ月間東大寺の房にこもるのでその間精進料理を食べる。
ご縁があり中に入って精進料理の仕事をしていました。
3月に入ると本業に入るので、一日一食になるので食べる量、調理法も変わってきます。
前のメニューは昭和27年(食糧事情が悪かった)からずーっと同じだったが私が頼まれましてメニューを新たに考えました。
東大寺の江戸時代の文献などを見て昔に戻る様にして、品数も増えました。
2010年アメリカのカリフォルニア州にある大学で食の国際会議に参加。
日本の「だし」を英語で話しました。
39人のシェフが行きましたが、一番若かったです。
かつおぶし、こんぶなどについてどうしたら判り易く説明出来るのだとうかと自分でも勉強しました。
イスラエルで開催された寿司コンテストで審査員長を担当、2014年アメリカ フロリダ州で開催された文化庁、外務省主催の現代日本の工芸展で和食の専門家として現地で、講演、デモンストレーションをしています。
TV番組で料理の考証、所作指導を行っています。
文献を開いて料理を作ったりしました。
文化交流使 伝統芸能の方を選んで海外に派遣して日本の文化を広めてもらう。
2013年和食が文化遺産になり、料理の人を出そうと言う事になりました。
2013年は大学の先生、2014年は私が派遣されました。
3カ月行くわけで、日本のすべてを見せたいと思って、器なども選んで50人分持って行きました。
トランク4つと段ボール3つになりました。
学生さんたちに教えたいと思いましてニュージーランドが最初となりました。
4日間の和食講座で、一日は和菓子、3日間は和食。
1日目は日本の全体の文化歴史的なこと、2日目は実演(普通1時間だが4時間かけてやりました)
学生の手をもって包丁の操作などを教えたので喜ばれました。(外国では見せるだけ)
出刃包丁は魚をおろす、柳刃包丁は刺身を引く時の包丁なので薄くて細長くなっている。
切れ味があると刺身の劣化が遅くなる。(生臭さが遅くなる)
人が北を背に南を向いていて、太陽が上がるのが東で左に相当するので左に重きを置くのでご飯になる。 (南半球では違う事に気付いた)
鳥獣戯画の容器、塗りのお椀は人気があった。
同じだしでもスプーンで飲むのと口を直にお椀から飲むのも味が違う。
ニュージーランドは自分の中でも試行錯誤でした。
パーマストンノース 中学と高校が合わさった様な学校で5年生の学校で講義。
クイズ形式でやりました、日本で食べたいものを5つ?(寿司とか)、これはなんの機械か、4択?(流しそうめん) うどんの話をして「だし」の話にもって行きました。
よせ卵のお椀での試食もしました。
首都ウェリントンでの講義、ヴィクトリア大学では飲食ができなかったので一口のだしを飲んでもらいました。
皆さん、いい香りですと言っていただきました。
今は当たり前のように生の刺身を食べるようになり、日本の味にも慣れてきている様に思います。
ウェリントン工科大学では魚のおろし方に特化して話ました。
ニュージーランドは島国なので新鮮な魚が手に入りますので、魚のおろし方がいいのではないかと思い、ほうぼうが手に入ったので刺身の薄作りにして出しました。
教えると日本人は同じようにしますが、盛り付けになると自由に盛り付けていました。
2016年4月26日火曜日
水谷八重子(女優) ・いつも輝いて(後編)
水谷八重子(女優) ・いつも輝いて(後編)
映画デビュー 1957年 「青い山脈」 いきなり中津川に連れて行かれました。
アフレコでした、撮影の事をあまり知りませんでした。
踊り、日舞は6つの時に花柳流の家元に弟子入りしましたが、直ぐ戦争になり疎開しました。
あまり日本舞踊は好きではありませんでした。
ダンスは好きで自分でもできると思って3週間アメリカの学校に行ってみたりしましたが、クラシックという基本があって初めてジャズダンスをやる、プロのダンサーになるためにはあくまでもクラシックの基本が大切で私には遅すぎるという諦めはありました。
草笛さんの番組(1961年)に出た時には踊りが出来るところだけをなんとか撮ってもらって、その後日劇でショーダンスができるようには成りました。
同じ1961年 NHK放送「若い季節」に出演(3年間)ビデオに移行する段階だったが生放送だった。
生放送だったのでハプニングがいろいろありました。
台本の遅い小野田先生だったし、生放送だったので余計大変だった。
穴を空けずによく出来たと思いました。
その前の「お父さんの季節」で黒柳さんと一緒だったので、その頃からお付き合いをしていました。
黒柳さんが紅白歌合戦の司会をした時に歌手として出演しました。
ミュージカルの曲は皆さんが知らない曲が多くて、皆さんが知っている曲を自分で消化して歌えたらいいなあと思っています。
最近10年朗読にも取り組んでいます。
住大夫先生の素浄瑠璃を聞いた時に、語りを聞いているうちにドラマの風景が見えてきた。
もし朗読が住大夫先生の様にお客さんが思ってもらえるところまでいけたらいいなあと思います。
朗読もやりたいという欲望があります。
CD2枚組の朗読の作品。
読みあげてくるとリズムがあり、自然と読みなれてくるとリズムに乗っていける。
樋口一葉の「大つごもり_」という作品も毎年12月に続けています。
明治時代の作品は日常とは離れてしまっているので難しい、言葉が細胞と同じ、日々入れ替わっていきますので時代に依りイントネーションが違うので、明治、大正、昭和の時代を舞台にしている新派はそういう日本語の勉強を常日頃勉強していないといけないと思っています。
同じ言葉でも時代によってアクセントとか使い分けをしないといけない。
使われなくなった小道具の使い方を使って、出来ると言う事を勉強していかなければならない。
そういったことを伝えていかなくてはいけない。
たすき掛け 自然に動作できるようになるまで、たすきを渡して練習してもらって本番では自然にうまくできるようになりました。
欧米化してゆく生活の中で新派を観て、故郷のおばあちゃんちに帰ってきたようだと言う気がしたと思っていただけたらしめたと言う様な感じです。
久保田万太郎先生の作品をこれだけ持っている新派なので次に繋げてゆくという役目を持たされて当然だと思います。
リュウさん(『冬のソナタ』のテーマ曲を歌う)との共演の歌「キッス」
今年も舞台が続きます。
映画デビュー 1957年 「青い山脈」 いきなり中津川に連れて行かれました。
アフレコでした、撮影の事をあまり知りませんでした。
踊り、日舞は6つの時に花柳流の家元に弟子入りしましたが、直ぐ戦争になり疎開しました。
あまり日本舞踊は好きではありませんでした。
ダンスは好きで自分でもできると思って3週間アメリカの学校に行ってみたりしましたが、クラシックという基本があって初めてジャズダンスをやる、プロのダンサーになるためにはあくまでもクラシックの基本が大切で私には遅すぎるという諦めはありました。
草笛さんの番組(1961年)に出た時には踊りが出来るところだけをなんとか撮ってもらって、その後日劇でショーダンスができるようには成りました。
同じ1961年 NHK放送「若い季節」に出演(3年間)ビデオに移行する段階だったが生放送だった。
生放送だったのでハプニングがいろいろありました。
台本の遅い小野田先生だったし、生放送だったので余計大変だった。
穴を空けずによく出来たと思いました。
その前の「お父さんの季節」で黒柳さんと一緒だったので、その頃からお付き合いをしていました。
黒柳さんが紅白歌合戦の司会をした時に歌手として出演しました。
ミュージカルの曲は皆さんが知らない曲が多くて、皆さんが知っている曲を自分で消化して歌えたらいいなあと思っています。
最近10年朗読にも取り組んでいます。
住大夫先生の素浄瑠璃を聞いた時に、語りを聞いているうちにドラマの風景が見えてきた。
もし朗読が住大夫先生の様にお客さんが思ってもらえるところまでいけたらいいなあと思います。
朗読もやりたいという欲望があります。
CD2枚組の朗読の作品。
読みあげてくるとリズムがあり、自然と読みなれてくるとリズムに乗っていける。
樋口一葉の「大つごもり_」という作品も毎年12月に続けています。
明治時代の作品は日常とは離れてしまっているので難しい、言葉が細胞と同じ、日々入れ替わっていきますので時代に依りイントネーションが違うので、明治、大正、昭和の時代を舞台にしている新派はそういう日本語の勉強を常日頃勉強していないといけないと思っています。
同じ言葉でも時代によってアクセントとか使い分けをしないといけない。
使われなくなった小道具の使い方を使って、出来ると言う事を勉強していかなければならない。
そういったことを伝えていかなくてはいけない。
たすき掛け 自然に動作できるようになるまで、たすきを渡して練習してもらって本番では自然にうまくできるようになりました。
欧米化してゆく生活の中で新派を観て、故郷のおばあちゃんちに帰ってきたようだと言う気がしたと思っていただけたらしめたと言う様な感じです。
久保田万太郎先生の作品をこれだけ持っている新派なので次に繋げてゆくという役目を持たされて当然だと思います。
リュウさん(『冬のソナタ』のテーマ曲を歌う)との共演の歌「キッス」
今年も舞台が続きます。
2016年4月25日月曜日
水谷八重子(女優) ・いつも輝いて(前編)
水谷八重子(女優) ・いつも輝いて(前編)
昭和30年に女優デビュー、その年レコードも発表し、歌手としてもデビューしました。
映画、舞台、TVと幅広く活躍しています。
平成7年に2代目水谷八重子を襲名しました。
去年芸能生活60周年を迎え忙しい日々を送っています。
正月は唯一のお休みですが、2日が初芝居の初日と決まっているので、前日も落ち着かない。
昭和30年に女優デビュー 芸能生活60周年 2代目水谷八重子を襲名してから20年。
襲名直後 良重と呼ばれるが判っていないと、ちょっとカチンと来た時もありますが、しばらく時がたつと「良重ちゃん」と呼ばれると、あの女優を覚えてくれていたんだと喜びに変わりました。
新派を次の世代に渡していかなければいけないと言う役目を背負ってしまいました。
新しいCDを2枚、本も出版しました。(そのうちの一枚は1978年のレコードのもの)
新しい一枚はスタンダードジャズを集めたもの。
1950年代の曲ばっかりを集めてみたものです。
解説は湯川れい子。
「先生のお気に入り」 ドリス・デイの声を聞いてこうなりたいと思った。
旗照夫さんと一緒に歌いました。 (曲が流れる)
1955年8月5日がレコードの発売日、歌舞伎座の新派公演初舞台が同じ8月5日でした。
親の七光りでと、ずーっと感じていたんですが、新派は新劇運動を母がやっていて、一番その時代の先端のものを取り入れていたティーンエージャーが私でした。
勝手にその役の衣装を選んで着たんだから、翌日違う衣装でいいのではないかと変えようとしたら、母から舞台のルールを勝手に変えてはいけないと厳しく怒られました。
小道具の扱いにしても厳しくしつけられました。(舞台は戦場だと教えたかったと思います)
初めての時代劇は長谷川一夫先生に預けられましたので、映画が最初でした。
時代ものの着物は初めてでした。
この角度が一番似合うだとかを映画では、いやでも学んで行きました。
女は女の線があるからいろんなものを巻きつけて平らにしてしまったら、女が女形のマネ事をしてどうする、女の曲線が着物の上からでも自然にみえるのが女優だと、長谷川先生から言われて、詰め物は一切しなくなりました。
LPレコードを「ATASI」というCDする。
新派の名作のヒロインを歌で綴ったもの。
越路吹雪さんから歌詩に私と書いてあっても「わたし」と歌うと色気がないので、「あたし」と発音しなさいと言われた翌日に母から私のセリフで「わたし」は硬いから「あたし」と言いなさいと言われたのが同時期だった。
そういう事で「ATASI」にしました。
女系図から「あなたがいれば」 (曲が流れる)
仕事の話は一切家に持ち帰らないので、家では母からは直接言われませんでした。
舞台の事を「お舞台」と母は言っていました。
国立劇場をお国の劇場と言っていましたが、歌舞伎しか出られないと言う事を知った時はしょげかえっていました。
母は「滝の白糸」で舞台に立つ事が出来た時は喜び輝いていました。
母は力んではいないのに良く通る声でした、ゾクっとくるようなセクシーな声でした。
声の質は母と似てると回りから言われます。
昭和30年に女優デビュー、その年レコードも発表し、歌手としてもデビューしました。
映画、舞台、TVと幅広く活躍しています。
平成7年に2代目水谷八重子を襲名しました。
去年芸能生活60周年を迎え忙しい日々を送っています。
正月は唯一のお休みですが、2日が初芝居の初日と決まっているので、前日も落ち着かない。
昭和30年に女優デビュー 芸能生活60周年 2代目水谷八重子を襲名してから20年。
襲名直後 良重と呼ばれるが判っていないと、ちょっとカチンと来た時もありますが、しばらく時がたつと「良重ちゃん」と呼ばれると、あの女優を覚えてくれていたんだと喜びに変わりました。
新派を次の世代に渡していかなければいけないと言う役目を背負ってしまいました。
新しいCDを2枚、本も出版しました。(そのうちの一枚は1978年のレコードのもの)
新しい一枚はスタンダードジャズを集めたもの。
1950年代の曲ばっかりを集めてみたものです。
解説は湯川れい子。
「先生のお気に入り」 ドリス・デイの声を聞いてこうなりたいと思った。
旗照夫さんと一緒に歌いました。 (曲が流れる)
1955年8月5日がレコードの発売日、歌舞伎座の新派公演初舞台が同じ8月5日でした。
親の七光りでと、ずーっと感じていたんですが、新派は新劇運動を母がやっていて、一番その時代の先端のものを取り入れていたティーンエージャーが私でした。
勝手にその役の衣装を選んで着たんだから、翌日違う衣装でいいのではないかと変えようとしたら、母から舞台のルールを勝手に変えてはいけないと厳しく怒られました。
小道具の扱いにしても厳しくしつけられました。(舞台は戦場だと教えたかったと思います)
初めての時代劇は長谷川一夫先生に預けられましたので、映画が最初でした。
時代ものの着物は初めてでした。
この角度が一番似合うだとかを映画では、いやでも学んで行きました。
女は女の線があるからいろんなものを巻きつけて平らにしてしまったら、女が女形のマネ事をしてどうする、女の曲線が着物の上からでも自然にみえるのが女優だと、長谷川先生から言われて、詰め物は一切しなくなりました。
LPレコードを「ATASI」というCDする。
新派の名作のヒロインを歌で綴ったもの。
越路吹雪さんから歌詩に私と書いてあっても「わたし」と歌うと色気がないので、「あたし」と発音しなさいと言われた翌日に母から私のセリフで「わたし」は硬いから「あたし」と言いなさいと言われたのが同時期だった。
そういう事で「ATASI」にしました。
女系図から「あなたがいれば」 (曲が流れる)
仕事の話は一切家に持ち帰らないので、家では母からは直接言われませんでした。
舞台の事を「お舞台」と母は言っていました。
国立劇場をお国の劇場と言っていましたが、歌舞伎しか出られないと言う事を知った時はしょげかえっていました。
母は「滝の白糸」で舞台に立つ事が出来た時は喜び輝いていました。
母は力んではいないのに良く通る声でした、ゾクっとくるようなセクシーな声でした。
声の質は母と似てると回りから言われます。
2016年4月24日日曜日
奥田佳道(音楽評論家) ・奥田佳道の”クラシックの遺伝子”
奥田佳道(音楽評論家) ・奥田佳道の”クラシックの遺伝子”
映画やミュージカルなど様々なシーンで使われ、華やかな色どりを添えるクラシック音楽。
クラシック音楽の聴きどころなどを伺い名曲の数々を送ります。
3月 超絶技巧、リスト作曲 ラ・カンパネッラ ピアノ反田恭平演奏
ニコロ・パガニーニの遺伝子と題して、ヴァイオリニスト、ニコロパガニーニの音楽がどのようにクラシックに影響したか。
カンパネッラ=イタリア語で鐘
リストに影響を与えて、ピアノ曲に影響を与えた。
パガニーニは1782年にまれ、1940年に亡くなる。
パガニーニ作曲 ヴァイオリン協奏曲 第2番第三楽章 ロンド ラ・カンパネッラ
当時のお客さんが驚愕した。
ヴァイオリン演奏のあまりの上手さに、「パガニーニの演奏技術は、悪魔に魂を売り渡した代償として手に入れたものだ」と噂されたという。
パガニーニ風ワルツの名曲をヨハン・シュトラウスのお父さんが書いた。
「パガニーニ風ワルツ」 ヨハン・シュトラウスの父作曲
ラ・カンパネッラがいかにウイーンではやっていたか、ラ・カンパネッラで踊りたかった。
最先端の曲で踊りたいと言う事が反映された、
ロシアのラフマニノフのピアノ曲 編曲
映画やミュージカルなど様々なシーンで使われ、華やかな色どりを添えるクラシック音楽。
クラシック音楽の聴きどころなどを伺い名曲の数々を送ります。
3月 超絶技巧、リスト作曲 ラ・カンパネッラ ピアノ反田恭平演奏
ニコロ・パガニーニの遺伝子と題して、ヴァイオリニスト、ニコロパガニーニの音楽がどのようにクラシックに影響したか。
カンパネッラ=イタリア語で鐘
リストに影響を与えて、ピアノ曲に影響を与えた。
パガニーニは1782年にまれ、1940年に亡くなる。
パガニーニ作曲 ヴァイオリン協奏曲 第2番第三楽章 ロンド ラ・カンパネッラ
当時のお客さんが驚愕した。
ヴァイオリン演奏のあまりの上手さに、「パガニーニの演奏技術は、悪魔に魂を売り渡した代償として手に入れたものだ」と噂されたという。
パガニーニ風ワルツの名曲をヨハン・シュトラウスのお父さんが書いた。
「パガニーニ風ワルツ」 ヨハン・シュトラウスの父作曲
ラ・カンパネッラがいかにウイーンではやっていたか、ラ・カンパネッラで踊りたかった。
最先端の曲で踊りたいと言う事が反映された、
ロシアのラフマニノフのピアノ曲 編曲
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