佐々木良三(秋田大学名誉教授) ・〔戦争平和インタビューシリーズ〕 満州開拓 目の当たりにした父の死~~~~
かつて日本では国策として多くの開拓団が中国東北部満洲に渡りました。 佐々木さんも1943年7歳の時に父親に連れられて満洲に渡って暮らしていました。 しかし1945年8月ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄して、国境を越えて侵攻を開始、開拓団の人たちは一斉に満洲の首都新京へ向けて避難を始めます。 佐々木さんが40日間に渡って逃げ歩いたのち、ソ連軍の管理下にあった収容所に流れ着きました。 佐々木さんが少年の時に目にしたのは、日本人に反感を抱いていた現地の人たちに襲われたり、伝染病や栄養失調になったりして回りの人たちが日常として命を失ってゆく姿でした。 少年の心に戦争体験がどう映ったのか、聞きました。
1935年秋田県由利郡(由利本荘市)で生まれました。 1943年に満洲に渡った時は7歳でした。 1935年には500万人ぐらいが満州に渡って食料の増産をさせようとして、実際に行ったのは開拓団という名前で、我々は27万人行ったと言われています。 由利郷開拓団のまとめ役に父が上がった様で、私も一緒に付いて行った次第です。 由利ごう?開拓団は350人で構成されていたようです。 満洲開拓団の募集は日本で広く行われていました。 満洲に行くと一人20町歩ぐらいは直ぐ耕せます、と言ったキャッチフレーズでポスターが出され、お金も一家族1000円(家が一軒建つような金額)上げますというポスターもありました。 食糧増産のために何とか500万人集めようと試みたんです。 父と私と2人で行って、母は家を守るという事で行きませんでした。
父はあれをやれとかこれをやれとか、怒られた事もない人でした。 開拓団には学校はありましたが、教科書があるわけではありませんでした。 重剣術、剣道の練習がありました。 朝、開拓団全員が集まって国旗掲揚があり、開拓団の歌を歌って、日本に向かって礼をします。 食堂があってそこで食べていました。 2年間過ごしました。 1945年ソ連が満州に侵攻してきます。(10歳の時) 8月12日に豊国という開拓団があり何百人といましたが、数人の人が由利開拓団に来ました。 日本は大変なことになっていて、焼き払って新京を目指すという情報が入りました。 13日の昼には家に火をつけろという命令が来ました。(証拠隠滅) 駅に向かって山伝いに歩きました。 向うさきは火とソ連軍の戦車の音でした。 180度方向転換しました。 サランチンという中国の部落に行きました。 逃げる山道には物凄い集団が集まって来ました。(3500人ぐらい) 開拓団以外の人もたくさん居ました。 山の中に取り残された日本の軍人も何百人も逃げようとする開拓団の中に入って来ました。 3500人もの集団となると目立つので、中国人の略奪者が組織されるわけです。 吉林の近くまで差し掛かったところで、道路の脇に深い溝があり、そこに死体が一杯ありました。 日本人の兵隊、民間人も一杯死んでいました。(8月なので死臭が物凄かった。) その道路は危ないという事で、山伝いに逃げました。
明日はやられるだろうという事で、焚火を囲んで作戦を立てたようです。 武器を持っている人たちが先頭になって、そこにはこれまで引っ張ってきた校長先生もいました。 私も居ました。 校長先生は棒で槍を作ってくれました。 相手を刺す事だけしか考えませんでした。 7,8時ごろに出発して数歩歩いたところで、後ろの山から物凄い火力、機関銃、鉄砲が撃ち込まれました。 私は直ぐに側溝に逃げ込みました。 隣にいた日本兵から「動くな」と言われて、黄色い毛布を掛けられました。 しばらくすると飛んでくる球の音がしなくなりました。 周りを観たら人が全然いませんでした。 遠くに何千人という黒い塊があり、雨の中を走って向かいました。 人も一杯死んでいました。 「良三 元気か。」という声が聞こえて、数人と一緒に父が走って来ました。 校長先生を見つけに行くところで、私には「来るな。」と言われました。 校長先生は草むらに仰向けに倒れていました。 父から花を取って来いと言われて、取って来て、首のところに添えて、皆で手を合わせました。 校長先生は一人でも刺して死になさいと言うような、特攻隊精神を持った方でした。 怖いという事を感じない、死体の上を歩いても感じない、慢性化していたんでしょうね。
新京行の貨物列車に乗りました。 新京はすでにソ連軍に支配されていました。 開拓団員たちは南大房身という収容所に連行されました。(9月末) 一枚の畳に2,3人が入れられました。 私は床の間(90cm四方)でした。 そこには8000人ぐらいがいました。 不衛生でシラミが蔓延して、発疹チフスが蔓延ました。 布団もなくうずくまっているだけでした。 そのうちに朝になると死んでいました。 外には5mぐらいの深い穴があり、死んだ人をそこに落としてやるんです。 どんどん積み重なって行って、零下20℃では腐らないし、カラスが突っついて赤い肉が出てくるんです。
父が身体を悪くして、公安病院のベッドで、私も隣にいました。 もうご臨終だという事を周りの人が私に知らせてくれました。 父には世話になったという方がいて、墓地迄背負って行って貰いました。 余りにも多くの死人を見ているので、肉親だからどうという事ではなくて、死ぬという事に対して、なんの抵抗感もない習慣と言った感じでした。 日常茶飯事に死が周りにあり慣れっこになっていました。
満州からの引き上げが決まったのが、1946年7月です。 帰れることの喜び、そのものでした。 家財道具などなにももっていませんでした 。 父の骨箱一つだけでした。 皆遺体を掘り起こして焼いて、遺骨にしていました。 父の遺体を焼くのに火をつけたのは私でした。 開拓団のなかに、焼き加減の上手なベテランが居て、火を止めていいタイミングを教わりました。 開拓団で2年、収容所に1年併せて3年いました。 日本の地が見えた時には大きな歓声が上がりました。 実家は全く変わっていませんでした。 母は全く変わっていませんでしたが、私の顔を見えても何にも返事をしないんです。 今思うと、判らなかったんだと思います。 父の骨箱を見せた時には、すぐ理解したんだと思います。
満洲開拓団の経験は、良いとか悪いとかという事ではなく、私そのものが身体にくっついているものだ、離れられないものだと思います。 戦争、あんなものは知らなくていいんです。 でも何故あのような戦争が起こるのか、何故解決できないのか、戦争をしないで共存できる世界はないものかなあ、思います。