山﨑功(テニアン島遺骨収集活動) ・〔戦争平和インタビューシリーズ〕 戦没者を“二度死なせない”ために
太平洋戦争での海外での戦没者はおよそ240万人に上り、今も110万も超える遺骨が現地に起こされたままです。 山崎さんは戦死した父親の遺骨を捜そうと、収集活動に参加し毎年テニアン島を訪れています。 テニアン島はアメリカ軍との激戦地で、およそ1万5000人の日本兵と島民が命を落とした玉砕の島として知られています。 遺骨が語る戦場の実情や島に足を運び続ける思いを伺いました。
テニアン島へは8回行っています。 日本からおよそ2500kmあります。 成田からグアムに行って、サイパンに行ってサイパン空港からテニアン空港に行きます。 日本戦没者遺骨収集推進協会で約10名弱ぐらいが多いです。 平成28年に推進協会を作って、海外に残っている遺骨を収集しようと、国会で法律を作ってそこの職員が行くという事です。 テニアン島はいつも30℃ぐらいで、サンゴ礁の隆起の島で、一番高いところで100m程度で平らな島です。 第一次世界大戦後にテニアン島は日本の委任統治領になったことがあります。日本人も多く移住して砂糖の工場や農場などが作られました。 かつてはサトウキビ畑もジャングル化しています。 南北20km、東西5kmの島です。 日の出神社、工場跡、旧日本軍の司令部の跡などが残っています。
昭和19年7月24日には4万ものアメリカ軍が島に上陸します。 旧日本軍の兵力はおよそ8000人。 民間人がおよそ1万5700人。 8月2日には玉砕しています。 日本人の島民は集団自決をしたという記録も残されています。 日本人の戦没者は1万5500人と言われています。 今も4990柱の遺骨が残されていると言われています。 或る特定のところしか掘れない。 前回は36柱収集しました。 80年経っているので収集が難しくなっています。
現地の人にある程度情報を得ながら、その場所に番号を付けて管理して堀ります。 鉄の熊手のようなもので搔きながら、泥を掘って行きます。 遺骨と思われると竹櫛、刷毛を使います。 近くの泥はふるいにかけます。 大きな穴などもあって、皿なども見つかります。 ビール瓶、一升瓶があり、水を詰めて水のない中を逃げ回っていた痕跡があります。 崖の岩が黒く残っていて、火炎放射器で焼かれた跡が残っています。 黒く焼かれた遺骨も出てきます。 遺骨鑑定人は現場に行かないと間違って鑑定する恐れがあるので、現場に行きます。 遺骨収集の骨は火葬場の骨とは違います。 見つけた骨は歴史保存局に行って、保管してもらいます。 日本に帰って来るのは或る程度まとまったら、申請をして日本に帰って来ます。
私の父は昭和19年3月にテニアン島に渡っています。 海軍の第16警備隊に所属していました。 父親は写真でしかわかりません。 どういう風に亡くなったのは全くわからず、テニアン島で亡くなった人は全員8月2日が戦没日になっています。 (父は35歳で亡くなった。) 2004年61歳の時に、日本遺族会の慰霊巡拝があり参加しました。 参加者は15,6名でした。 そこで慰霊祭があり、追悼文を読みました。(その追悼文を持ってきてこの度読む。) 2018年から遺骨収集に参加するようになりました。 最初は父の骨を、と言う思いがありましたが、今は放置されている骨が沢山日本へ帰るのを待っているという事で、早く遺骨が帰れたらいいなあという思いです。
遺骨収集の人たちの高齢化という問題があります。 若い学生も手伝ってくれるので感謝はしています。 戦争を起こさないような方向に行かないといけないと思います。 小学校に行って、平和への講演を行っています。 8月20日に行くことになっています。 理想は遺骨を全部持ち帰ってきたい。