内間新三(元防衛隊員) ・〔戦争平和インタビューシリーズ〕 となりの死を乗り越えて
今からおよそ80年前の1945年3月26日アメリカ軍は沖縄本島の西に位置する慶良間諸島に上陸、その後沖縄本島中部の西海岸に上陸します。 およそ3か月にわたる戦争で20万人以上が戦死し、沖縄県民の死者は少なくとも12万人に上ります。 この戦争に防衛隊の兵士としてかかわったのが当時18歳の内間新三さんです。 沖縄本島南部の南城市からおよそ5kmのところにある久高島で生まれて、漁師として生活していた内間さんは、沖縄戦が始まると召集令状が届き、防衛隊として沖縄本島に召集されました。 初めは避難壕の建設などに関わっていましたが、戦争が激しくなるに伴って、最前線の戦地に送り込まれ、300人近くいた部隊はほぼ全滅するという壮絶な戦争に巻き込まれて行きます。 今年10月で98歳になる内間新三さんに沖縄戦当時の記憶、そして平和への思いを聞きました。
久高島で生まれて、家族は祖父母と母と姉と兄弟二人で、父は徴兵されて3年間の徴兵を終わって出稼ぎに出ました。 三線は15,6歳からやっていて沖縄民謡、八重山民謡などを弾いていました。 昭和19年10月10日から沖縄戦になりました。 ソロモン島で勝ったというような情報は聞かされました。 日本軍は沖縄本島の東側から来るのではないかという事で防備をしました。 逆に慶良間諸島の方の裏から上陸しました。 戦争に参加するというようなことは判りませんでした。 防衛隊に入っても戦地に行くとは思いませんでした。 昼間は艦砲射撃とかあるので働けませんでした。 防衛隊として土木作業に従事していました。 移動の話があり300名ぐらいの組織に加わりました。 何のために行くという事は知らされませんでした。 参加しても鉄砲も手りゅう弾ありませんでした。(日本軍は武器が足りなかったようです。) 刳舟(くりせん)で闇に乗じて上陸しようと思っても青白い照明弾で昼の様でした。 陸に上がってもほとんど死んでしまいました。 先輩二人と生きることが出来ました。 死んだふりをしました。 銃声が止んだ後に先輩と海岸まで辿り着き夜明けまで隠れていました。
艦船がずらっと並んでいて、その様子を見た時には戦争は絶対負けると思いました。 水も持っていなくて、二人が入れるぐらいの横穴を掘りました。 日が暮れると同時に海に飛び込み泳いで逃げました。 街を歩いたら焼け野原になっていました。 避難民と出会って、アメリカ軍が来ているので南の方に逃げるという事でした。 上官が居て、ほぼ全滅と報告しました。 死ぬ人は「お母さん」とか「天皇陛下万歳」とか一言も言えずに死んでいっています。 たまたま弾が当たらなかったから生き残れました。 可哀そうとかの感情もありませんでした。 考える余裕がない。
沖縄戦から80年になりますが、平和になって戦争はいけないという事を若者たちに全部わかってもらって、戦争はやってはいけないという若者の声があれば、戦争はないと思います。 私の経験の講話は小学校高学年で6回ぐらいやりました。 聞いたことを文章にしてくれました。 話せば通じると思います。 戦争が始まったら人間ではなくなる。 戦争はやるべきではない。