2024年8月7日水曜日

村上隆(現代美術家)          ・スーパーフラットはいま ~現代美術家 村上隆の挑戦~ 前編

 村上隆(現代美術家)  ・スーパーフラットはいま ~現代美術家 村上隆の挑戦~ 前編

村上さんは東京都出身62歳。 カラフルなポップのお花の作品で知られ、日本の伝統的な絵画の表現とアニメや漫画などのいわゆるオタク文化を融合した独自のアート作品が世界的に人気を集めています。 その村上さんの日本では8年振りとなる個展「村上隆もののけ京都」がいま、京都市京セラ美術館で開かれています。 国内での展覧会はこれが最後になるという村上さんの作品制作への思い、芸術観はどのようなものなのか伺いました。

6月下旬から7月いっぱいにかけて新作を展示しています。 10数点あり、今もスタジオで数点製作しています。  祇園祭の屏風絵が完成したので埼玉のスタジオに惟雄先生(『奇想の系譜』などを書いた。)が見に来てくださいました。  厳しい言葉「緊張感がありませんな。」と頂きました。  2月に展示した獅子の図は「傑作を作れてよかったね、」と2回も手紙を頂きました。 顔はひまわりのような花の親子の像が手を繋いでスーツケースの上に立っている作品が庭にあります。  現代美術は西洋の人々が開拓してきたジャンルですので、アジア人で日本人である私がどういった形で入り込んで行けばいいのか、常に考えているんですが、あの作品は彫刻ですので、彫刻の歴史をいろいろ考えて作って行きました。 西洋の彫刻との比較というものを明確に表現したいという意味での作品です。 歴史との相対性、歴史を考えていない作品は、どこか短絡的というか、その場しのぎ的な表現で、トレンディーなところに趣きを置いて居たりするので、トレンドが過ぎ去った10年後20年後には淘汰されてしまう。 そういった作品と私の作品は似ているかもしれないが、ちゃんと生き残っているという事を見ていただいて、私の作品をチョイスして頂いているのかなと思います。 

会場に入って対面するのが「洛中洛外図屏風」の村上隆版です。 江戸時代の岩佐又兵衛筆とされる国宝の舟木本に基づいたもの、壁一面長さ13mの大きな作品。 京都の街中の様子、風俗が細密に描き込まれていて、登場人物は2700人とかで、その中にお花の親子、アニメのような風神など村上流キャラクターがところどころに描かれている。 村上色をにじませた作品です。 岩佐又兵衛は師匠である惟雄先生の『奇想の系譜』のなかに出てくる奇想画家の中の一人ですが、岩佐又兵衛は大変複雑な絵柄だったので、今まで本歌取りすることはなかったんです。 今回はいい機会だと思ってやらして頂くことになりました。  岩佐又兵衛は現代に生きていれば必ずや漫画家になる人だと思います。 スピード感と人物を描く描写力が長けている方だと思います。  

漫画家のアシスタントを数名連れてきてくれて、あの作品を構築してゆくとっかかりを作ってくれたりしました。 若い連中をこき使ってお前は何をやったんだと、かなり批判をされています。 今でも誤作動している一つの例ではないかと思います。 時間軸における評価ですね。  個人が自由闊達に描き切るというのは1900年代のヨーロッパで生まれた印象派からであって、それ以前は個人で描き切るというのは珍しいスタイルでした。 個人で描き切るという事だけに固着してしまうと、鑑賞者の概念の構築というのは、やはりちょっと狭義で、時間軸的にはもうそろそろ時効になるのではないかと思います。 

工房でないとできない、驚き表現を標榜していたので、批判者がどんなにいたとて、突き進むしかなかったというのが実態ですね。  浮世絵の版画にしても。絵師、彫り師、刷り師などの集団作業によって生み出されてきた芸術で、かつ複製可能で、村上流表現とはパラレルだと思いますが。  私が参考にしているのが北大路魯山人の評価です。 北大路魯山人は存命中は尊大な物言いだったり態度であって、多くのアンチを生み出して正当な評価を受けていなかったと思います。  オリジナリティーへの追求が強すぎて、魯山人は本歌取りを主にやっていたので、自分がチョイスする骨董、歴史上の名作品をコピーしていて、そのなかで自分の表現を作って行った作家だったので、大変不評でした。 一部には重宝がられていた。 彼が死んでしまうと、作品の評価が変わってきた。  芸術をたしなみたいという方たちの力が圧倒的に連なっている。 直接作品だけを見つめた時に、彼が求めようとしていた芸術性が光り輝いていって評価される状況が今も続いています。

雑音が私もほかの作家に比べると多いものですから、雑音が消えた後にしっかりと見ていただければ、真価が問われるのではないかと思います。 朱色で巨大な龍を描いた「雲龍赤変」は幅が18mあります。 惟雄先生から「手抜き」と言われて、腹が立ってしまいました。 辻惟雄先生は工房の作品を肯定的に書いてくれていました。 僕の作品がコンピューターライズされているのがわからなかったんだと思います。  先生によってその後直筆っぽいような作品(コンピューターライズされていくプロセスが挟まってしまうが。)、新しい作品が出て来たのも先生の動機づけのお陰なので、大変感謝しています。 

「金色の空の夏のお花畑」 金箔に沢山のカラフルなお花、壁一面に10mぐらいの幅。  ひまわりが300本近くあります。  色どりが一つ一つ違います。  顔の色、口の色、瞳の色も左右で違っていたり、細かいところまで徹底されている。  手書きになっている。 残る建築物と残らない建築物では、どこに差があるかというと、建築の外観として歴史上で初めてのモニュメンタルな造形であったというのがある。 且つ中に入って居心地の良さ、人間の五感を刺激するような内装があったと言う様な、外観と中に入った二元的な認知のなかで、評価に値する建築が残ってゆく。  芸術にも多次元的な評価があって、さっきの見方は建築で言うと外から観た印象です。 中からという事は、絵画とは何かという、芸術の歴史における絵画の在り方、必然的に今存在する意義があるのか、ないのかというものであって、アメリカの大きな現代美術のムーブメントがあり、そこを経てもなおやる意味がありますかという問いかけの中で、我々日本人であるならば、カワイイカルチャーを使って且つアメリカが作った抽象表現主義の文法をしっかり学んで、咀嚼して表現できますよ、というようなありかたなんですね。 先ほどの表情が違うというのは、ジャクソンポロックのスプラッシュのペインテイングと同じような見方を、変換することが出来ますよねという日本人からアメリカ人、西洋人のアートヒストリアたちへの提案なんですね。(内容がいまいちわからず)  挑戦的な美術館に飾る絵としては文化の多層化を標的にしています。 

京都の心臓部である祝祭ごとと、現代とのかかわりが持てたことが大変意義深かったと思います。 美術館で展示するには4億円の予算が必要でした。 私の製作実費は入っていないんです。(+4億円)  八方ふさがりだったが、ふるさと納税が使えるという事で、5億円のふるさと納税が集まりました。  もう日本で展覧会をやるとことはありません。   生きている間に「スーパーフラットミュージアム」をつくれれば、そのうち漫画ミュージアム、アニメミュージアムが出来て、世界中から日本の文化に触れたいと思う人たちが来日して大満足して帰っていただけるようなコンディションになると思います。 今は大不満を抱えて帰っていると思います。(もっと深く漫画、アニメを知りたいと思った人の学習する場が全くない。) 「スーパーフラットミュージアム」には100億円ぐらいは掛かるので夢で終わると思いますが、とりあえず言っておけば、賛同者が現れて将来実現するかもしれません。